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息を吸うようにできることって「エッセイ」
私にとって当たり前にできること、例えばピアノを弾いたり、猫の世話をしたり、植物を育てたり、なんなら文鳥や鈴虫も世話できると思う。
逆に私が驚くことできなかったこと。バーベキューの火起こし。これも当たり前にできる人もいる。
息を吸うようにできることって、どうも子供の頃からやってきたことのようだ。
昨年みみを拾ったときも、必要なものを買うのに迷いはなかったし、その後もなにか調べたりして世話してるわけではない。ただ、いなくなったのは不徳の致すところだ。というか、言い訳にしかならないが、昔飼っていた猫は、平気で外に出し、好きなときに出かけ好きなときに帰ってきていたのだ。だからみみもすぐに帰ってくるだろうと思っていた。
文鳥の世話は、小学生の夏休みにやるように言われ、大人になってから考えると驚くほど真面目に努めた。
鈴虫は、父が四十年ほど飼っているので、およその世話の仕方はわかる。たまにスイカの残りをやるのだが、私はスイカが好きなので、白くなるまで食べてしまい、私の残りは鈴虫にやるところがないと言われる。
植物もしかり。小学生の頃、父が私と弟に一つずつ鉢を買ってくれた。その時はポリアンサスを買ってもらった。弟は青いの。私はピンクの。大事に水をやって育てた。次の年には私はアッツザクラを買ってもらった。
水をやりすぎると根腐れすること、暑い時間にはけして水をやってはいけないこと、土の種類、肥料など、土いじりする人には当たり前かもしれないけれど、肌で覚えた。
高校生の頃には、お小遣いでパンジーを買ってきて、プランターに植えた。
逆に水棲生物を飼うことが、私にとってはとても難しかった。育てたことがなかったからだ。
アパートだったので、魚くらいなら許されるかなと思い、ベタという魚を飼った。赤から青のグラデーションのヒレのとても美しい子だった。
好奇心旺盛で怖いもの知らず。とても懐いてくれた。
けれど、水質の調整をどんなに調べてもうまくできず、結果死なせてしまった。
とても悲しかった。
ミナミヌマエビも同様だった。
生き物と関わるときは必死だ。けれど気持ちだけではなんともならない。知識だけでもなんともならない。経験が大きいのだと強く感じた。
けれどもうお別れが辛いので、水棲生物は飼っていない。
話しが逸れたが、考えずともできることは、気づかず知らず経験していることなのだと思った。
自分にとっては当たり前。でも他の人からしたらすごいねー、と言われること。逆も然りで。
選択の上でもあり、環境の力でもあり。
出会って、興味を持って続けていけることは、やがて呼吸するようにできるようになるということなのだろう。
ただ、生き物は、自分のさじ加減一つで幸せにも不幸せにもなるから、慢心しないように気をつけようと思う。
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