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老いとはいかばかりのものか【エッセイ】

一人の夜は長い。

家人を職場へ送り、少しばかり夕飯の買い物をし、一人分の夕飯を作る。

たとえ時間をかけたって、一人の夕食なんか一瞬だ。
食べ終えて、一服すると面倒くさくなるから、すぐに後片付けをする。

片付け終え、ついでにシンクの掃除までして時計を見て、度肝を抜かれる。まだ19時にもなっていない。

一人の夜のなんと長いことか。

実は今夜23時からテレビ番組を見るつもりにしているのだが、一体それまで何をして過ごせばいいのか。途方に暮れる。

そもそも、他に人のいるときは一体何をしていたのか考えるが、特別何かしていたわけではない。

やはり一人の夜は長いのだ。

かと言って、なんにでもやる気が沸くわけでもなく、読みかけの本や、編むつもりの毛糸がぽんと置かれている。

そのうちの一冊、山田風太郎の『あと千回の晩飯』を開いてみる。これは元々父が買ってきて書庫においてあったのを、病院の診察の待ち時間にと持ち出してから、ずっと持ち歩いていたのだがどうにも進まない。山田氏が悪いのではなく、最近集中てきる時間が減り、読書自体が進まなくなっている。

さて、読みかけのページである111ページを開いてみると、「老い」について書かれている。

山田氏は、このエッセイの中で、自分の余命をざっくばらんにあと三年ばかりと決め(特に死に至るような病ではない)、その三年間をどのような献立にするかを決めようかという話をしているのだが、思わぬ病気発覚で(糖尿病)頓挫する。
そして入院を経て、再びこの111ページ辺りから献立を決めようと、6〜7年前の日記を頼りにする。
しかしそこに書かれているアップルパイやミートソースなど、到底食べたい気分ではないことから、「老い」に気づくのである。

「老い」。それは徐々にやってきては生活スタイルを変化させるものだと思っている。

30代前半までは、人一倍、いや三倍は行動をし、何をどれだけでも食べられたし、眠る必要もあまりなかった。

30代後半からは、人並みのペースでしか動けなくなったと感じる。
しかしこの頃までは、肉を美味しく食べることができた。
2つ年上の友人と飲みに行き、「揚げ物が全く食べられない」という言葉の真意が分からず、一切れだけでも、と薦めてしまう。

40代になってすぐ、友人の言葉の意味が分かるようになった。揚げ物は食べられるが、肉が食べられないのである。
あんなに好物であったもつ鍋も、おそらく二切れしか食べられないであろうことを予測できるため、食べにすら行かない。
そして、行動の限界が更に縮まった。
そういえば、同い年の友人も、1日に行動できる事柄の数が減ったと言っていた。
私の場合はそこに、眠れない、しかし眠らないと調子が悪くなる、というものがくっついてきた。

つまり、老いとはそういうものなのである。
食べられなくなり、動けなくなり、眠れなくなり、しかし眠らないと調子の悪くなるものなのである。

更に年をとると、もっとたくさんの限界に直面するものなのであろう(まだそこには達していないので推測でしかないが)。

しかし、「老い」とは悪いばかりのものなのだろうか。
60歳以上になると、シルバー料金で利用できるものがある。
それから‥それから‥。
これと言って思いつかない。

では、「老い」とは悪いことなのか。
これから先、もっと体は動かなくなり、ときに頭も働かなくなり、人様の世話になるときが来るのであろう。

私が思うに「老い」たから自分が変わるわけではない。
自分という一直線上に「老い」という要素が加わるだけのことなのだ。
だからどうということはない。
受け容れようと受け容れまいと、老いは誰にも等しくやってくるのである。

受け容れる者は体にあった量、合った食べ物にし、受け容れない者は若い頃と同じように食べ、後で胃薬を飲む羽目になるだけのことである。

胃薬はもう飲み慣れたが、取り立てて美味しいものでもないので、これからは自分の体と相談して食べていこう。そう思いながら、キムチの辛味にやられた胃をそっと撫でてみるのであった。

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