トウモロコシは宇宙
アレチウリの花の蜜からできた生はちみつが心底気に入ったものの、アレチウリが特定外来生物であるという事実に心がギューンとしている浅井です。
こんなおいしいはちみつになる存在が、日本の植物の生長を阻害しているなんて…。悲しいのに美味しいという気持ちに抗えない自分がいます。
きっと愛していけない存在を愛してしまったときの切なさはこういう感じなのでしょう。
シャンプーのCMに出れる髪の長さ
私は今髪の毛を伸ばしています。
ショートヘア人間だったのですが、姉二人がコロナ禍の間にヘアドネーションをやりきったのを見て遅れて参戦。
今は肩甲骨まで伸びて、今までで一番髪の毛がモサモサになっているのです。
昨年、美容師さんに「ヘアドネーションのために髪の毛を伸ばしたいがモサモサになって切りたくなる」ことを相談したところ、毛量が多いことが判明しました。
それで「下刈り上げて上を伸ばしていくスタイル」はどうかと提案してくれて、今現在そんな髪型になっているのです。
長い髪をまとめると涼しくなって快適です。
今まで髪の毛をまとめるということをしたことがあまりなかったので、とりあえず長い髪を頭の上の乗せてバレッタで固定していました。
そして最近、この髪型がトウモロコシと同じということを知るのです。
何を言っているのだ?とお考えになっていることは承知ですが聞いてください。
歯に挟まるのだけは解せぬ
7月某日、上野でやっているマヤ文明の展示を見に行きました。
過去の歴史を知ると興奮してくるムッツリな性質なので、定期的に美術館や博物館でキメないといけないのです。
そこで発見したのがマヤ文明のパカル大王の頭像でした。
その王は私の髪型と似ていたのです。
前方に垂れた髪がトウモロコシと似ているため、トウモロコシの神の姿を真似たものと考えられています。
アメリカ大陸では何千年も前からトウモロコシの栽培が行われていて、主にマヤ・インカ帝国時代の農民が改良し今のトウモロコシの形になったのです。
人々の生活はトウモロコシによって支えられていたといっても過言ではないでしょう。
トウモロコシというと、夏の時期やコーン缶くらいでしか目にしない気もしますが、現代でも私達の生活を支えている三大穀物のひとつです。
ムギとコメを抜いて世界1位の生産量を誇ります。
コーンは様々な製品に使われていますし、牛の飼育にも欠かせません。
人間も間接的に相当量のトウモロコシを摂取しているんじゃないかと思います。
遺伝子組み換えの問題も聞きますが、それほど重要な存在なのです。
ちなみにマヤ文明の宗教観だと、神々がトウモロコシを練り練りしてできたのが人間とされていたそうです。
今の世界の現状を考えると予言にも近いなと思わされます。
昔はモロコシ宇宙飛来説とかあったよね
トウモロコシの不思議なところは、種子が固い皮の下にあることです。
種子は私達が食べている黄色いコーンちゃんです。消化できない黄色い皮に包まれている部分。
自らを増やそうとするならば、柔らかい皮の下に種子を配置するとか、遠くに飛ぶようにするとか戦略が必要です。
しかしトウモロコシは外部の生き物が固い皮をどうにかして食べようとしない限り増えない仕組みになっています。
それにうまく乗っかったのが人間だったということなのでしょうか。
何か特定の生物との共生・循環を選ぶ植物も多いので、人間が選ばれても不思議ではないのかな。
人間の端くれとして認められた感があって嬉しいです。
しかし逆に考えると人間がトウモロコシを支配しているのではなく、トウモロコシが人間を支配しているのかもしれません。
トウモロコシをデザインした神は人間飼育優秀賞を受賞していると思いますが、食べると歯に挟まるのだけはどうにかしてほしかったです。
そんな訳で現代に生きる私は世界の豊かな実りを願って、トウモロコシの穂のように髪を前へ垂らしているのです。
ジブリ、観たんだなあ
※ネタバレはありませんが、抽象的に推測できることがあります。
ジブリの新作映画「君たちはどう生きるか」を初日に観に行きました。
前の「風立ちぬ」が10年前と知って驚愕し、ジブリを初日に観る経験をしてみたくなったのです。
内容への感想は避けますが、鳥が良かったです。敵の方の鳥が特に気に入りました。
現実だとそうでもないのですが、絵だとデブった感じの生き物に弱いところがあります。あとたらこ唇。
「千と千尋の神隠し」だと白い大根と黄色いヒヨコみたいなやつ好きでした。
個人的な感想になりますが、嬉しいと感じる作品でした。
それは作家としての自分の背筋が伸びたというか、観て良かったなと深く感動したからです。
私の作品を見る時の基本スタンスは雑食。
「これくらいやっておけばいい」みたいなものが透けている作品はNGですが、逆に言えば「観客をないがしろにしていなければ大体OK」という感じで結構オールオッケーなところがあります。
しかし作品を観る時には多少の心構えをしています。
①エンタメとして観る
②ドラマとして観る
③作家性を期待して観る
①は最近やっていたマリオとかスパイダーマンとか話の道筋はシンプルで、主にエンターテイメントを楽しむものです。スカッと系が多いです。
②は主にキャラクターの心情の変化・機微を期待して観るものです。内省的な面もあり暗いのも多いですが、私が特に好むものです。
③はその人の作家性を享受するものです。独特であればあるほどキャッキャと喜びます。意味わからんものも大好きです。
「君たちはどう生きるか」はそのどれでもなく、作家としての宮崎駿の頭の中を見たんじゃないかなと感じています。
世の中には破綻している作品がたくさんあります。
ここで言う破綻は「面白くない」のではなく、パズルのピースが綺麗にはまっていないように感じることを言います。
ん?なんかモヤるな…みたいな時あります。
それは必然として起こります。
なぜなら作家の頭の中はカオスと破綻にまみれているからです。
ドロドロで抽象的な脳内を編集し、99%希釈したものが世の中に出てくる作品になります。
作家のドロドロ…それは当然恥辱とエゴにまみれたものではありますが、肉の削ぎ落された原始的な初期衝動なのではないかとも思います。
私は抽象的な作品を観ると少し嬉しくなります。
それは作家の頭の中を覗けたような、見てはいけないものを見てしまったようなドキドキがあるからです。
その人の人生そのものを味わっているような時もあります。
漫画だといがらしみきお先生のアイが特に印象深い、という話を前にしたかと思います。
連載していると手の動きが脳みそを追い越したり、急に追いついたりすると思うのです。
破綻(と思われるような道筋)の先に一つの答えを示すラストには言葉を失いました。本人の思考とギューンとかちあっちゃった瞬間を見て、漫画ってスゲ~となったのです。まだ漫画家を志す前ですね。
「君たちはどう生きるか」も同じような感動がありました。
エンタメ・ドラマとして楽しむ見方はもちろんですが、それそのままを感覚の部分で浴びる楽しみもあると信じています。
理論的な部分だけ楽しむのはあまりにも勿体ない気がします。
情報過多の忙しない現代に、わかりやすく簡潔なものが求められていることは誰もが肌で感じていることです。
考えることは能動的です。抽象的で答えのないものは考えさせられるから疲れてしまうのです。
それならば抽象的な物事に対して、感覚の部分だけで受け止めればよいと思います。
言葉のない部分。理屈とか倫理の関係ないところです。
観客にそっぽを向かれるとしても自分の「面白いと感じること」「好きなこと」をひたすら表現できたなら、なんだかとても気持ちの良いことな気がします。
もちろん受け取る側の是か非かはそれぞれに決定権がありますし、お金とか社会とか現実的な問題もあるにはあるのですが、自分が作家だからどうしても作家側に感情移入してしまいます。
私は自分とは違う様々な作品に対して、理解とかはできなくて良いんじゃないかなと思っています。自分の中に明確に出る答えだけが大事なものではない気がするからです。
形容できない形をそれとして受け止めることもまた楽しいというか。
とまあ、自問自答みたいな感じになってしまいましたが、私の感想を抜きにしてとても面白い映画でした。
画面に映る画像すべてがとんでもない力量を放っているので、それだけで卒倒できます。炎の表現とか人間の重力を感じる動きとか背筋がゾクゾクしっぱなしでした。
リアリティへの追及が半端ないですよね、目が楽しかったです。
あとちょっとキモいものが多くて、キモいの好きとして興奮できましたありがとうございました!!!!!
ただあのポスターを観て、想像を巡らせてから観たらかなり違うものでした。
ポスターの鳥人間が、昔自分が描いた読み切り漫画のキャラっぽくて、「宮崎駿さんと趣味似てたりするのかな~ウフフ~!!!」とそっち方向で妄想していたから、映画を観たときには「えっ…!!!?!?!?!?」となりました(笑)
なんだか無性にナウシカとラピュタ観たいなあ。
作家さんでもそうでなくても、とにかく自分の作品や感性を傾聴するみたいなことは大事なことだと思います。
自分を持っている人は強く輝いているものです。