最近の活字事情



本当によく本を読むようになった。
少し前では考えられないほど、活字を追っている。
活字を追っている時間がいちばん集中していていちばん楽しいとまできた。
これはすげえ。ガチおもれェ。

どんなことも、好きになったらわりとずっと好きでいるけれど、その優先順位が変わっていくといった感じだろうか。

音楽がいちばんのときはライブに週1行っていたし、
お笑いがいちばんのときもライブに週1行っていたし、
漫画は読みだしたら止まらないから次の日が仕事でも朝までなんてのもザラ。
そしてここに、小説やエッセイが入ってきたかたち。

読みやすかった1冊を終え時計は深夜1時、なんか物足りないなともう1冊に手を伸ばしたが最後、しっかり涙を流して解説末尾まで読み本を閉じたのが朝4時。普段何もなければ8時間弱は寝ているはずが、あと5時間もすれば私は電車に揺られている。


次に読む本がないと不安だと思うようにもなってきた。
実際はまだ読みたい本がちゃんとそこにある、もしくはタイトルがメモや頭にあり、それを手に入れられる手立てもある。
読書家の方々が言う、いわゆる[積読]には到底及ばない量だと思うし、それなのに取り越し苦労で「読みたいものがなくなったらどうしよう」、おまけに「読みたいものがなくなる前に興味が薄れたらどうしよう」とソワソワしている。

目覚ましを止めた後の二度寝が気持ちいいのも、お腹が空いているときにカロリーや量など気にせず食べると幸せなのも、今したいことが十二分にできているからだ。
眠くないときの睡眠や、口寂しいだけのときのおやつタイムだって悪かないけれど、やっぱり前者のほうが満足度は高いと思う。


このような"好きなことに関するちょっとばかりの追い込まれ方"を我ながらよく、する。
興味が120%あるときにそのことに集中すると150%の多幸感があると私はもう知ってしまっている。
ただ、結果追い込まれているのだから手放しに状況を喜べない。
そういうことを(今思い返してみると)繰り返してきたように思う。

推しは推せるときに…とよく聞くようになった。
でも自分の気持ちが離れている(離れようとしている)ときに楽しむには限界がある。

だからこそ120……とまではいかなくとも、80%くらいまでは、あるときこそ推し時だと思っている。


まあでもそれもこれも、結局は取り越し苦労である。
ふィ~~空気が抜けちまうぜ。





『相手の言葉の奥行きを理解する。』
最近読んだ本だったかネット記事だかで見た一文だ。

私は、伝え方次第である程度まではどうとでもなる、と思っていて、
それこそ同じことをゆっくり言うか早口で言うかでも違うし、同じようなことを言っていても選ぶ言葉で印象は変わってくるし、

もっと言うと誰が言っているかでも大きく左右されるもんじゃないか?
私の言う"ある程度"のラインはここにある。

好きな人信頼している人から言われる頑張れと、嫌いな人苦手な人から言われる頑張れを同じように受け取れる人ってこの地球に本当に存在するのか?
ガチ?

なんか最近、頑張れがしんどいみたいなごたごたの一片を見たな。
よく知らないけれど。

そういう前提があるため、自分が相手に事や思いを伝えるときは、以上のことを踏まえて考えることが多い。(それが器用にできないから今をときめく猫ミームのように頭を抱えることがたくさんある。)


そして『相手の言葉の奥行きを理解する』という一文を見た時に、
受け取る側もそりゃあ考えることが必要かと改めて思ったのだ。

直接話す時もそう、活字で追う時もそう。
想像力があったほうがいいということ。

考え方が飛躍しすぎるとそれはそれでなんか、ヒスったりしそうだけれども。
額面通りに受け取ることが必ずしも正しいとは言い切れないところ、マジむずいんだよね。ヤバすぎ。

それが魅力でもあるし、多面的だからおもろい部分もあるし……

言葉があるってすげェんだよなァ(軽)



今はハリーポッターを読んでいます。
その次は友だちにおすすめしてもらった小説を読んで感想文が書きたいです。
『言葉にならない、は考えていないのと一緒』というのを思い出します。
言葉にできないことがありすぎるので頑張りたいです。頑張れ自分。



うるさ。



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