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俳優・奥田瑛二さん「吉次の生みの親たる北原さんと、意見が分かれないことを願うばかり」/北原亞以子著『脇役 慶次郎覚書』の文庫解説を特別公開!

 北原亞以子さんの『脇役 慶次郎覚書』(朝日文庫)が刊行されました。元同心のご隠居・森口慶次郎が庶民に寄り添う人情時代小説「慶次郎縁側日記」シリーズの番外編です。慶次郎を支える個性的な脇役たちが、本書では主役となり、背負ってきた人生と素顔が明かされます。「慶次郎縁側日記」シリーズ読者、必読の一冊です。本書の刊行にあたって、NHK時代劇「慶次郎縁側日記」で岡っ引の吉次を演じた奥田瑛二さんによる解説を掲載します。吉次の役作り、主役と脇役の演技の違いなど、とても読み応えのある解説を、ぜひご覧ください。

北原亞以子著『脇役 慶次郎覚書』(朝日文庫)
北原亞以子著『脇役 慶次郎覚書』(朝日文庫)

 こいつはとんでもないへそ曲がりと見た。さて、どう演じるべきか——。

 NHKドラマ『慶次郎縁側日記』から出演の話をいただき、最初に原作を読んだときには、しばし考え込んだものだった。

 何しろ、演じてほしいといわれた吉次は、とにかく強烈な人物だ。妹夫婦が営む蕎麦屋に居候する岡っ引で、弱みをつかんだ町人を強請っては金を得ている鼻つまみ者。そのせいで、「蝮の吉次」なんて異名までちょうだいしている。背中を丸めて歩く姿には、拭いようのない孤独と哀愁が染み付いている。

 主役の慶次郎をはじめ、この小説には存在感のある人物が続々と出てくる。でも、どのキャラクターよりもインパクトがあるのは、間違いなく吉次だった。ならば、演じるにあたってはその強烈な個性を際立たせなくちゃならないだろう。そう決意して役作りを進めることにした。

 社会に対していつも斜に構えた、反抗的な人間なら、風貌からして他とは違っていたはず。だからまずは、髷を結わない短髪姿で演じたいと監督に提案してみた。小説では、吉次が居候する蕎麦屋の二階の部屋というのは、足の踏み場もないほど散らかっているとされている。ちょうど、自分が大学時代を過ごした1970年代の安下宿を思い起こさせるところもある。型にはまらない生き方をしていて、なおかつ度を越した無精者とくれば、江戸時代の人間とはいえ髷を結っていないほうが自然じゃないかと思ったのだ。

 幸い、時代考証の上でも問題ないとの返事を、番組側からもらうことができた。さて、では衣装もこだわってやろうと、着物の袷は女性ものの赤い襦袢でこさえてもらい、首には絹のマフラー、手にはブレスレッド代わりの数珠を巻く現代的ないでたちにしてもらった。おかげで、画面のどこにいても異様に存在感が際立つ吉次が誕生したというわけだ。

 外見の次は中身だ。時代劇の登場人物というのは普通、ある程度はっきりとした性格の色分けがしてあるものだ。善人は善人だし、悪人は悪人のまま。非人道的な人間として登場すれば、やはり最後まで非人道的だったりする。

 しかし、吉次にはそれが当てはまらない。性格付けをするのも、相当に難しい役どころである。彼は単なる悪人じゃない。われわれの隣にいる人間と同じように、いい面もあれば悪い面も持っている。ただ、情に厚い部分や自分の弱さは懐の奥深くにしまいこんで、強面なところ、情け容赦ないところばかりを表に出すから、周囲からは冷酷な人間として敬遠される。吉次の言動の端々から、そういう雰囲気が滲み出ている。

 こんなに含みのある人間は、時代劇の世界にはかつていなかったのではないだろうか。演じる側としては、いろいろと考えるべきことが多い役柄だ。感情の揺れや心の葛藤をあまり表に出すと、アウトローとしての吉次らしさがなくなってしまう。しかし、彼の内側にある弱くて繊細な部分を押し殺してしまえば、小説に描かれているような陰影のある吉次の像からは遠ざかってしまう。人間的な弱みをどれくらい出すべきか、また出さざるべきか、微妙な綱引きを繰り返しながら演じ続けていた。

 吉次をはじめ、いつもは脇を固める人間が主役に回るこの『脇役 慶次郎覚書』を読んでしまうと、いっそう役者としての悩みは深まってしまう。八幕あるうちの一つ、「吉次」では、もちろん吉次が主人公。そこには、彼の人間味がいつになくたっぷりと描かれている。

 例えば、こんな場面が印象に残る。妹夫婦に子供ができたことを聞いて動揺した吉次は、夜中に家を飛び出して、大川端に辿り着く。そして、気づけば川面にふらふらと吸い込まれそうになっている。

「まさか、俺は……」
 ここへ飛び込むつもりで歩いてきたんじゃねえだろうな。
 よせやい。

 幸せな家庭の邪魔者になるのが嫌で、無意識に自殺の道へ近づいてしまう……。たやすく情になど流されないはずの吉次のイメージが、大きく揺らいでしまうシーンだ。

 その後、夢うつつにかつての女房、おみつと再会するような話になり、そこでもどんな行動に出ればいいのかよく分からず、胸中で葛藤を繰り返す。「なんだ、吉次にもかわいいところがあるじゃねえか」。僕を含めて、そう思った読者は多いはずだ。

 これまでは垣間見ることしかできなかった彼の内面が、克明に描かれていく。『脇役』を読んだことで、吉次の裏の顔——いや、むしろこちらが本当の素顔だろうか——を、はっきりと知ることができた。役作りをする前にこの一編を読み込んでいたら、おそらくドラマの中の吉次には、僕が得意とする「ダメ男」っぽい部分を、もっとつけ加えていただろうと思う。表面上は頑として弱みを見せない男というぎりぎりのラインをキープしながら演じていたが、それが揺らいだかもしれない。

 冷酷な吉次と弱い吉次。どちらを演じるのがよかったのか。それは分からない。ただ、ドラマの中でも小説シリーズの中でも、普段の吉次はあくまでも脇役である。ということは、あまり多面的な性格を表さなくて正解に思える。

 僕が考える芝居の原則には、脇役は筋の通った性格や雰囲気を堅持し、最後まで押し通すべきというものがある。『脇役』の「吉次」で描かれているような混沌とした性格をそのまま演じようとすると、それは主役の芝居になってしまうのだ。

 多面性を打ち出すのは、主役だけにしなければいけない。強いところと弱いところ、生真面目な性格とユーモラスな姿、そういうものを一つの人格から自在に繰り出していけるのが、主役の演技というものだ。「慶次郎縁側日記」シリーズの場合、そうした姿を見せるのはもちろん、高橋英樹さんが演じる慶次郎その人である。脇役の吉次には、シンプルな性格付けのほうがふさわしい。そう考えて、僕は吉次としてやってきたつもりだ。

 この主役と脇役の原則は、小説作品としての「慶次郎」シリーズでもきっちり守られているように見える。作中、大きく揺れ動く心の動きをはっきりと見せるのはやはり慶次郎である。「仏の慶次郎」と呼ばれる彼は、娘を自害に追いやった相手に対して「殺してやる」と凄む姿も読者の前にさらしている。振り幅の大きい人間だから、主役として読む者を引き付けられる。一方で、吉次や他の脇役たちの内面については、ほのかに感じ取れる程度に絶妙なさじ加減でとどめてある。

 それが『脇役』では、見事に立場を逆転させてあるのが面白い。吉次も辰吉も佐七も、背負ってきた人生と心の奥底を、惜しみなく披露している。心の中を知ってしまえばつい演技に盛り込みたくなるから、役者としては何とも悩ましい。しかし、「慶次郎」シリーズの読者の一人に立ち返れば、全編とも大いに興味をそそられる話ばかりである。

 これはシリーズ全体を通して言えることだが、さまざまな人物が登場する群像劇として全体のバランスを取りながら、主役は主役として存在感を発揮させ、同時に脇役の一人ひとりも粒立たせる北原亞以子さんの人物の描き方には、感嘆するより他ない。また、人物がこれだけ生き生きと動けるのは、舞台となる江戸の世界を見事に現出させているという点も大きいのだろう。北原作品はよく「映像が浮かんでくる」と称されるが、まったくその通りだと思う。こういう作品は、役者としてもとても演じやすいものだ。

 なぜなら役者は、原作や脚本に書かれていることを基に想像を膨らませて、演じる人物像を作り上げていくものだからだ。北原さんの小説には、この想像力を発揮するための手がかりがたくさんある。当時の裏路地の狭苦しさだとか、隣人の声も筒抜けだった長屋の猥雑さ、古着屋や一杯引っ掛ける店が立ち並ぶ町の様子が、まるでさっき見てきたかのように描写されている。武士の世界を書いているのに、全く刀を抜かないのもリアリティがある。実際にも、慶次郎のような役人が刀を抜くことは、めったになかったようだ。

 そんなリアルな江戸の町に吉次を置いてみれば、たちまち彼が歩いていくときの背中の丸め具合まで、手に取るように浮かびあがる。後は、それをロケ先や撮影スタジオで具現化していけばいい。芝居をする段には、すでにイメージがはっきりとできているから、「江戸人としての吉次」になることは難しいことではなかったのである。

 最後に一つ。吉次を演じる上で、僕が最も悩み抜いたことがあった。「果たして吉次は、女にもてたのか、もてなかったのか」。笑われるかもしれないが、僕にとっては吉次という人間を考える上で、とても重要なことに思えたのだ。小説の中に答えは書いてなかったので、自問自答してみた。町中から忌み嫌われていても、もてる奴はもてる。寄ってくる女だっていたんじゃないか。でも、自分に近づく女が評判を落とすことまで考えて、むやみに懇ろになることはしなかったかもしれないな、などと。

 結果、もてたに違いないと決め付けて演じることにした。髪型や衣装を型破りなものにしたいきさつとも通じるのだが、僕は吉次に強いダンディズムを感じ取っていたし、そういう男を演じたかったのだ。

 ぜひ吉次は、女にもてる男であってほしい。この点で、吉次の生みの親たる北原さんと、意見が分かれないことを願うばかりだ。

平成十八年八月


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