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芦沢央さんによる文庫解説全文掲載!!/葉真中顕著『そして、海の泡になる』文庫解説

 葉真中顕さんの『そして、海の泡になる』(朝日文庫)が刊行されました。バブル絶頂期の1990年、個人として史上最高額4300億円の負債を抱え自己破産した朝比奈ハル。平成が終わる年、彼女はひっそりと獄死した。彼女のことを小説に書こうと決めた"私"は関係者に聞き取りを始める──。気鋭の社会派ミステリの書き手による最新文庫に、芦沢央さんが解説を寄せてくださいました。その全文を掲載します。

葉真中顕著『そして、海の泡になる』 (朝日文庫)
葉真中顕著『そして、海の泡になる』 (朝日文庫)

 解説とは何だろう。

 解説の依頼をもらうたびに、願わくば、作品を正しく読み解く上で有用な補助線を提示するようなものでありたいと考えてきた。

 だが本書を読んで、その気持ちが揺らいでいる。果たして作品を「正しく」読み解くことなど可能なのだろうか、と。

 本書は、バブル期に「ガマガエルのお告げ」によって巨額の株式投資に成功し、バブル崩壊後に詐欺容疑で逮捕されたとされる尾上縫をモデルにして書かれた、朝比奈ハルという一人の女性の人生を巡る物語だ。

 まず彼女についての複数の報道記事が提示され、次に、アマチュア小説家の〈私〉がコロナ渦中の2020年、朝比奈ハルを題材にした小説を書くために生前の彼女を知る人たちに話を聞いて回ることにした旨が明かされ、その後に「インタビュアーへの返答」が続いていく。

 複数の証言によって徐々に描き出されていくのは、報道記事では見えてこない朝比奈ハルの数奇な人生だ。

 戦前に和歌山県の漁村で生まれ、敗戦直後に家族を一家心中で失い、親戚の家でも、庄屋の息子に見初められて嫁いだ先でも労働力として消費されるしかなかったハルの人生は、夫の死によって大きく変わる。大阪へ出てホステスとして成功し、大企業グループ創業者一族の御曹司の愛人になって自分の店を持たせてもらい、料亭経営の傍ら、株式投資で巨万の富を築いて〈北浜の魔女〉と呼ばれるようになっていくのだ。

 バブル崩壊と共に個人史上最高額の4300億円という負債を抱えて自己破産し、さらに詐欺と殺人の容疑をかけられて逮捕され、獄中で死亡した――あらすじを書くだけでも情報量が多すぎるが、物語としての魅力は何よりも彼女の人生に残された謎の多さだろう。

 彼女は〈うみうし様〉のお告げに従い、一流の金融マンたちが群がるほどに莫大な利益を出していったとされているが、〈うみうし様〉は本物だったのか。

 彼女の人生に影のようにつきまとう複数の人間の死の真相は。

 彼女は本当に殺人を犯したのか。

 そして、そうした彼女の人生自体に込められた謎以外にも、物語の構造自体が持つ謎がある。

 それは、このインタビューの聞き手である「私」とは誰なのか、ということだ。

 これらの魅力的な謎を牽引力にページをどんどんめくらされていき、次々に現れる濃密なエピソードと裏話に鼻面を引き回されるようにして解くべき謎が何だったのかもわからなくなった頃に、見ていた光景が覆されるようなサプライズを差し出される。

 本人を直接描写せずに関係者の証言だけでその人物像に迫る、という書く上では制約の多い証言小説の形を取っているのに、絶妙な構成と時代背景への考察、個別のエピソードの面白さによって作中の世界観に引きずりこまれてしまうのだ。

 だが、そうして一気読みをした後に改めて物語全体を見返してみると、この物語が証言小説としては奇妙な構造をしていることに気づく。

 証言小説の本来の真髄は、複数の証言のスタンスや角度の違いによって、語られる人物の多面性を描き出せることにある。なのに本書では、その「ブレ」が意外なほどに少ないのだ。

 もちろん印象が覆る箇所はいくつもあるし、重要な齟齬もあるのだが、それでも本当に同じ人物の話をしているのかと混乱してくるほどの違いはない。

 本書は概ね、朝比奈ハルの人生に関わった人間の証言が時代順に並べられ、その合間に「獄中で朝比奈ハル自身から話を聞いた」という宇佐原陽菜の証言が入ることである程度の裏付けがされていく形になっている。

 証言者として登場する人物は、年齢も性別も生活地域も経歴もハルとの関係性も様々だ。

※これ以降の文章には初読の興を削ぎかねないネタバレが含まれます。

 戦前生まれで、ハルの幼少期や家族、一家心中事件について知る同郷の植芝甚平。

 ハルを引き取った家の子で、ハルに連れられて大阪に出てきたものの彼女のようになれない自分に倦み、何者かになることを夢見て〈革命家気取りのクズ男〉についていった高田峰子。

 ハルのパトロンだった瀬川兵衛の息子で、おそらくハルの息子だと思われる瀬川益臣。

 トランスジェンダーで母親の恋人からレイプされた過去があり、ハルに拾われてハルの店で板前見習いとして働くようになった新藤紫。

 ハルに莫大な融資をして勤め先の金融機関で出世したが、株価が暴落してハルが多額の不良債権を抱えるようになると、損害を被る前にハルから手を引いた河内靖。

 ハルに惚れ込み、ハルの損失を穴埋めするために預金証書の偽造を行って自殺した真壁三千雄の息子、名村敏哉。

 これだけ異なるスタンスから、それぞれにとっての朝比奈ハルの人生の欠片を語っているのに、宇佐原陽菜の証言は、どれもそれを綺麗に回収していく構造になっている。

 どうして葉真中さんは、こういう構造の物語にしたのだろう――そう疑問に思ったことで、もう一つの疑問が浮かび上がってきた。

 それは、なぜ葉真中さんは「謎が解き明かされたために生まれた新たな謎」については深掘りしなかったのだろうということだ。

〈うみうし様〉の正体が真相として提示された人だった場合、なぜ彼がここまでしたのかがわからない。

 ハルを虐待していた両親を殺めるところまでは理解できる。だが、ハルを抑圧していた夫も、ハルから自由を奪っていた瀬川兵衛も、見方によってはハルを守る存在でもあったはずだ。ハルの望む人生にとっては邪魔な存在だっただろうが、当時の時代の感覚では彼らを「排除するべき害悪」だとする判断はハル以外にはできなかっただろう。

 では、ハルは言葉にして彼に「殺してくれ」と頼んだのだろうか。

 たとえそうだったのだとしても、彼はなぜそれを受け入れ、実行に移したのか。

 彼らの関係性はどんなものだったのか。

 これらの謎は、空白のまま置かれている。

 そのために、最後まで読んでもハルの実像に迫れた気がしないのだ。

 どうして、この物語はこんなにも「書かれないこと」があるのだろう。

 この物語は、報道記事では見えてこない朝比奈ハルの実像を描き出すためのものではなかったのだろうか――

 私は、足場を崩されたような不安を感じ、すがるようにして最後の宇佐原陽菜のパートを読み直した。ここに対する読解が足りないのだという感覚があった。私は何かを見落としている――そして、〈私は書き直そうと思ったんです〉という一文まできたところで、私は自分の読み方にも空白があったことに気づいた。

 私は一読目において、宇佐原陽菜のこの言葉を、自分がほしい朝比奈ハルの物語のために都合の良い証言や解釈のみを集めて構成した、という意味でしか捉えていなかった。

 だが、自分の中の引っかかりを見つめた上で読むと、また別の可能性が浮かび上がってくる。

「朝比奈ハルが死ぬ前に人生について事細かに語ってくれた」ということ自体が、彼女に勇気をくれる嘘だった、という可能性だ。

 体罰や性暴力が信仰の名のもとに正当化された宗教団体で育ち、同じ教徒の恋人と〈俗世〉に飛び出してきてDV被害を受け、唯一の拠り所だった恋人を自らの手で殺してしまった彼女。前科を背負った人生をこれからも生きねばならず、コロナ禍においても〈夜の街〉で肩身の狭い思いをしながら働くしかない〈ろくでもない現実〉の中で、彼女が何よりすがりたかったのは、「社会を揺さぶるような存在としてワガママに人生を生き抜いた朝比奈ハルが、他でもない自分にだけ真実を語ってくれたという物語」だったのではないか――

 そう考えると、なぜこの物語が証言小説の形式を取りながら、「ブレ」が少なかったのか――宇佐原陽菜の証言がこれほどまでに他の人の証言を綺麗に回収できたのかの謎が解ける。

 彼女は、証言者から聞いた話を元に「朝比奈ハルから聞いた話」を作り上げたのだ。

 だからこそ、〈うみうし様〉の正体とされる人物の動機は描かれない。朝比奈ハルの実像も最後まで明らかにならない。

 それらは、宇佐原陽菜にとっては必要ないものだからだ。

 この物語は、葉真中顕が朝比奈ハルの実像を描くために書いたものではなく、宇佐原陽菜による、宇佐原陽菜のための、朝比奈ハルの物語なのだ。

 作中に〈お金は本質的に自由で平等である〉〈お金は善悪を判断しません〉という言葉が出てくるが、本書は「物語が本質的に不自由で不平等で、善悪を恣意的に判断するものである」ことを炙り出す物語でもある。

 ここまで書いてみて、私は、なぜ自分が本書の解説を書くのに躊躇いを覚えたのかわかった気がした。

 物語が持つ恣意性を描く物語を、恣意性を排除して「正しく」読むことなどできないと感じていたからだ。

 物語を読むという行為もまた、読み手が物語の中から読みたいものを恣意的につかみ出すものに他ならない。

 たとえば、バブル期とコロナ禍の類似性の指摘から描かれている社会情勢の描写を楽しむ読み方もできるし、様々な世代や立ち位置の証言者の言葉の端々から、時代による価値観や倫理観の移り変わりやアップデートの難しさについて感じ取るのも面白いだろう。

 ジェンダー小説としての観点で読めば、随所に出てくるこの時代の女性の不遇や怒りが浮かび上がり、ハルが投資で成功したことについて、誰も彼女自身の能力だとは考えもしなかったことの意味がより響いてくるはずだ(途中まで超常的な力の存在を匂わせておくことで、読み手にもその偏見を追体験させる構成が心憎い)。

 本書は、それだけの多様な読みを受け止める器がある物語だ。

 そしてその上で本書は、幸せとは何か、自由とは何かという根源的な問いを投げかけてくる。

 読み手自身がどういう物語を持っているか、どういう読み方をしたかによって、導き出される答えは変わるだろう。変わる余地がこれほどあるということ自体が、この物語が持つ重層的な力だ。

「正しい」読み方など存在しないし、どんな読み方もすべて正しい。

 本の読み方においては、どんな〈ワガママ〉も許されるのだから。