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私たちの「きちんとしたい」を救う物語/せやま南天著『クリームイエローの海と春キャベツのある家』小説家・大原鉄平さんによる書評を公開!

 4月に刊行された、せやま南天さんのデビュー作である『クリームイエローの海と春キャベツのある家』は、仕事や家事、そして育児など……何かを頑張りすぎているひとへ贈りたい、あたたかな物語です。
 家事代行歴3ヶ月・津麦の新しい勤務先は、5人の子どもを育てるシングルファーザーの織野家。一歩家の中に入ると、そこには「洗濯物の海」が広がっていて……。「頑張りすぎなときに読むと、こころがふわりと明るくなる」との声をいただいています。
 同じく昨年に第10回林芙美子文学賞を受賞しデビューした、小説家の大原鉄平さんが「小説トリッパー」2024年夏季号で書評をご執筆くださりました。特別に公開します。

せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』(朝日新聞出版)
せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』(朝日新聞出版)

私たちの「きちんとしたい」を救う物語

 私は広い古民家をリノベして一家で住み、デザインした部屋の写真をSNSで発信している。それらの綺麗に撮られた写真ではさぞ私たちが優雅に暮らしているかのように見えるだろうが、実際は優雅どころではなく、床に脱ぎ捨てられた誰かの服の下に隠れた、意図的に仕掛けられた罠としか思えない尖ったレゴを踏み抜いて悲鳴を上げる日々である。

 特に古民家は部屋数が多い上に私以外の人間は片付けるということをしないため、週末ごとの掃除は私の役目となっている。家族の尻を叩き、口うるさく指示を出し、ごろごろする家族を追い立てるように掃除機をかけて埃を拭いて回るのだ。しかし、その努力はもちろんSNSでは見せることはない。綺麗なところだけを切り抜き、自らの生活を演出する。

 せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』は、そういったSNSによる演出の時代に、不可視の存在となってしまった人々の実際の「生活」の姿に焦点を当て、その苦しさを暴く。

 note主催の創作大賞2023「お仕事小説部門」にて朝日新聞出版賞を受賞した本作は、二十八歳の家事代行業の派遣社員である津麦と、その担当家族との交流を描く物語である。商社に五年勤めたのち過労で倒れ、退職後は「家事くらいできる」との考えから家事代行業をはじめた津麦は、新しく担当することになった織野家の惨状を目の当たりにして絶句する。妻を亡くしたシングルファーザーの大工である四十代の朔也と、異母・異父姉弟である五人もの子供たちの生活は、彼女の目から見て明らかに破綻していた。表題ともなっている「クリームイエローの海」とは、片付けられないまま床一面に広がった、家族六人分の洗濯物のことである。

 幼い頃から「きちんとした」母親に育てられた津麦はその惨状に耐えられず、どうにかこの家族を救えないかと奮闘するが、依頼主の朔也からは〈「後は俺がやるんで、大丈夫です」〉と断られてしまう。その排他的な態度に驚き、担当を変えてもらおうかと迷う津麦を思い留まらせたのは、織野家の冷蔵庫の中にある新鮮な野菜だった。以降、津麦は朔也の好物であるキャベツを手掛かりとして、織野家への理解を深めていく。

 織野家の子供たちは徐々に津麦に心を開く。津麦は彼らの母親代わりになれたらと願うが、反対に朔也は粗暴で無神経な言葉を津麦に投げつける。それもただ粗暴なだけではなく、怒りの最中に〈「伝えてない俺も悪いんですけど」〉などと敬語を交える冷静さもあり、ついこちらまで怒られている気持ちになって津麦と一緒に落ち込んでしまう。

 本作の魅力の一つは、そうした生活の生々しいギャップの感触である。本当の生活とは単純で画一的なものではない。家事が崩壊した家の中にも、美しい場所はある。荒々しい大工の言葉の中にも、他者を尊重する気持ちがあるのだ。

 しかし、そのギャップは津麦の大きなミスの原因ともなる。織野家をそれまでの担当家族と同じ型に当てはめた結果、朔也の怒りを買い、先述のセリフに繋がるのである。落ち込んだ津麦は、自分にはこの仕事の資格が無いのではないかと悩み、過去の人生の選択に思いを馳せる。

 津麦の半生は、ある概念に縛られていた。それは彼女にとって完璧な存在である母親からの〈きちんとしなさい〉という言葉である。幼い頃から遊び相手もしてくれず、代わりに必要以上に水道の蛇口をぴかぴかに磨き上げる母親から受けたしつけが、津麦に家事のプロとしてのスキルを与え、また同時に、商社時代に過労で倒れるほどの生真面目さを植え付けたのだ。津麦はきちんとできないことへの恐怖に支配されている。

 しかし、ここでもまた生のギャップが描かれる。商社を辞めて実家で寝てばかりいた津麦だったが、彼女を再び社会へと引き戻したのもまた、母親から指図された家事であり、「きちんとする」という概念だったのだ。

 いったい、「きちんとする」とは何なのだろう。悩む津麦は朔也に、普段の織野家を見せて欲しいと頼み込む。そして津麦がそこで見たものは、親一人では到底回せない、あまりにも凄まじい嵐のような日常だった。誰もが「きちんと」を願っている。けれど、彼らはそうすることができない。その結果生まれたのが「クリームイエローの海」であった。

 海には織野家の様々なものが漂っている。〈その水を、掬う人になりたい〉と津麦はここで初めて思う。「救う」から「掬う」へ。これが津麦にとっての大きな転換であり、この物語の白眉である。この控えめで誠実な目標を掲げ、津麦は再び織野家の台所へと回帰してゆく。

 物語の終盤、海に行くため取り出した織野家の古いクーラーボックスに、亡くなった織野家のママが書いたであろう「おりの」の文字を津麦が見つけるシーンは感動的だ。掬う人になることで、彼女は彼女の目指した地点に到達するのである。

 家事とは何か。きちんとする、とは何か。津麦と織野家が辿り着いた答えは、日々の生活に疲弊する私たちの、一つの大きな「救い」になるだろう。


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