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【東日本大震災から10年】父親を亡くした遺児の手記「太陽のような父を亡くして」

東日本大震災から10年。震災で親をなくした遺児、2083人に給付金を届けたのが、あしなが育英会です。病気や災害、自死などで親を亡くした遺児の進学を支えるあしなが育英会。支援は給付金だけにとどまらず、心のケアにも力を入れています。その活動の中に、遺児たちに作文を書いてもらうという活動があります。遺児たちによる作文集『お空から、ちゃんと見ててね。』(あしなが育英会・編)の中から、震災で父親をなくした萩原彩葉(さわは)さんによる手記をご紹介します。

 東日本大震災。大きな揺れと割れた地面に恐怖を抱いた日から、もう10年が経ちました。そして、私の父が亡くなってから10年が経ちました。あの日のことは、今でも鮮明に覚えています。体育館中に悲鳴と泣き声が嫌というほど響き渡っていました。

 私の父の名前は英明(ひであき)。名前に「明」がついているだけに、家族を太陽のように照らしてくれる存在でした。仕事で疲れているのにもかかわらず私たちと遊んでくれました。父となら、ただの買い物ですら遊園地に行ったみたいに楽しかった。そのくらい父の存在は大きかったです。

 震災の日も、泣いている子たちを慰めながら、「父がいるから大丈夫」漠然とそう思っていました。母が小学校に迎えにきて家に帰り、まるで逆さまにして振られたようにぐちゃぐちゃになった部屋を見ても、不安に感じることはありませんでした。

 電気やガス、水が止まっていたので避難所に向かいました。父が帰ってきても、私たちがどこにいるかわかるように置き手紙を残していきましたが、何日経っても迎えに来ない父。私たちにも少しずつ不安な気持ちが芽生えてきました。

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 新聞で父が亡くなったと知ったのは、それから1週間ほど後でした。そこからは地獄のような日々でした。笑顔も会話もない、ただ生きているだけでした。骨と皮だけになった母に気づいた時、このまま私たちも死ぬんだなと思っていました。

 母方の祖父母に支えられながら生活をし、ただ1日が終わってまた1日が始まるのを待つだけでした。お葬式の日、嗚咽を混ぜながら泣いている母や兄妹を見た時、このままでは家族が終わる、ならせめて私は泣かないようにしようと決意しました。

 泣かないことに意味はないかもしれないけれど、それでもその時の私は、それが家族のためだと思っていました。それから私は誰かの前では泣かなくなりました。お風呂や布団の中で、一人で泣きました。

■弱い自分を受け入れてほしい

「あしなが育英会のつどいに参加しない?」

 母に勧められるままにつどいに参加しました。顔も知らない、全国各地から集まった同世代の子たち。ここにいる全員が、理由は違えど、親を亡くした子たちだということに動揺を隠せませんでした。

 親を亡くしたのに明るく元気で、なぜ立ち直れるんだろうと思っていました。つどいには亡くなった人のことを話す時間があります。私にとっては耐えがたい時間でした。話したくないならパスできるというルールがあったのが救いでした。悲しい気持ちを拗こじらせていた私には、泣いてまで話す意味が理解できなかったんです。それから何回かつどいに参加しましたが、父の話を私からすることはありませんでした。

 それでも同じような境遇の子たちと遊ぶだけでも悲しい気持ちはどんどん薄れてきました。私が重い口を開いたのは、もう話をしても泣いたりしないと思ったからでした。でも、いざ話してみると、ダムが決壊したかのように涙が溢れてきました。父との思い出や姿を思い浮かべるだけであの頃が恋しくなり、あんなに良い人だった父を早くに連れて行った神様に苛立っていました。

 その気持ちを押し殺して自分で自分を慰なぐさめていました。涙を流せば周りを悲しくさせる。自分の弱いところを見せたくない。その気持ちがより悲しみを育てていたんです。

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 話し終わったあと、こう言ってくれた人がいました。

「誰かの前で泣いてもいい。心の痛みを癒してくれる。亡くなったことは変わらないけど、悲しい気持ちを楽にしてくれる。一人で抱え込まないで」

 その言葉を聞いた時、私はこの言葉を言ってもらいたかったんだとわかりました。弱い自分を受け入れてほしいと思っていたんです。泣いてもいいと言ってもらいたかったんです。その日から、心の中にあった黒い部分が薄れ、少し生きやすくなりました。回数を重ねるほど毎日が少しずつ明るくなり、自然と笑顔にもなれるようになりました。

 私の人生の分岐点は、父を亡くした以外にもう一つあります。それは小学5年生の時に受けたいじめでした。あの時私をいじめていた子たちは、このことを覚えていないでしょう。

 私のいじめの理由は、父を津波で亡くしたことでした。私にはどうしようもない理由でいじめられ、大切な父を笑いモノにされ、憤りを感じていました。何をいっても止まらない罵声、防災頭巾を踏まれ、髪を引っ張られるなど、精神的にも身体的にも追い詰められていきました。

 私の頭には死ぬことしかありませんでした。明日は何をされるのか、どうやり過ごそうか考えるのに疲れて、いつ死のうかと思っていた時に救ってくれたのもあしなが育英会でした。

 数カ月も会っていない私の変化に気づいてくれました。初めていじめの相談をして、「いじめは止められないけど、味方ではいられる。人の苦しみや痛みを知らない人が言うことに、耳を傾けないで」と言ってくれました。学校に居場所がなくても、それよりも広い世界には私の味方がたくさんいるから大丈夫だと思わせてくれました。今は、あの時いじめてきた子たちがまだ狭い世界にいないことを願っています。

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■二度も命を救ってもらった

 私たちの人生は普通の子とは違いました。私よりも辛い経験をした子もいると思います。これからの人生で辛い経験をしてしまう子もいると思います。その子たちには、人生の分岐点になるのは何かに絶望し、辛い経験をした時だということを知ってもらいたいです。

 大切な人を亡くしてできた穴は、一生埋まることはありません。でもだからこそ得るものがあります。父の死がなければ出会うことのなかった人や過ごすことのなかった時間があります。

 誰かに蔑さげすまれ、心に傷を負った時、死にたいと思うかもしれない。けれど必ずどこかに味方がいます。私がいじめられた時、味方になってくれたのは学校の友達でも先生でもなく、数カ月に一度しか会わないあしながの友達でした。学校という小さな世界には私の居場所はなく、もっと外側の世界にあったんです。

 私はこの経験で大切な人を亡くす苦しみ、いじめの辛さを知りました。そしてそれらが私を襲っても助けてくれる人たちがいることも知りました。二度もあしなが育英会に命を救われ、心の支えになってくれました。私も誰かを支えられる存在になりたいと思うようになりました。

 私は今、仙台商業高校の男子バレー部でマネージャーをしています。高校生の私ができる“誰かの支えになる”ことの第一歩です。高校3年間の毎日を部活に捧げ、それも苦だと思わないほど自分の役職にやりがいを感じています。

 あしなが育英会からの支えがなければ、誰かを支えられる人になりたいなんて思いもせず、今の部活に入っていませんでした。あしなが育英会のおかげで、自分の時間も労力もすべてを使ってサポートしたいと思える仲間と出会えました。

(文:萩原彩葉、写真提供:あしなが育英会)