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介護や家事労働だけが「ケア」ではない 『「ヤングケアラー」とは誰か』を立ち読み

 小学生の15人に1人が「家族の世話」を担い、社会問題として顕在化してきたヤングケアラー。メディアでは身体的な疾患や障害をもつ家族の介護をする子どもがクローズアップされることが多いが、実際には、精神疾患の母親をケアするケースも多い。介護や家事労働だけが「ケア」ではないのだ。
 長期脳死の兄の「身代わり」として親の前で頑張って見せる子、母親の薬物依存を周りに言えない子、ろう者の母親の手話通訳をするうちに「私」が消えていく子、母親を責めるようだからと自身をヤングケアラーだと認めたがらない子――。
 朝日選書『「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立』(村上靖彦著)では、家族をケアする子どもたちが体験する孤立を「語り」から考える。彼ら彼女らの言葉に丁寧に耳を傾け、ディテールにこだわって分析を重ねていく。すると、これまでほとんど知られることのなかった、ヤングケアラーたちの複雑かつあいまいな体験や想い、問題の本質が浮かび上がってくる。また、そこから、どのような「居場所」や支援を必要としているのかも見えてくる。
 本書から特別に「序章」「目次」公開する。まずはヤングケアラーが置かれた状況を知ってほしい。

村上靖彦著『「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立』(朝日選書)

序章 「ヤングケアラー」への問いと出会う
 ――家族を“心配する”子どもたち

■想起される身近なヤングケアラーたち

 私が「ヤングケアラー」という言葉を最初に知ったのは大阪市西成にしなり区で子育て支援の調査をしていたときのことである。子どもの遊び場であり緊急時のシェルターとファミリーホームでもある施設「こどもの里」の代表荘保しょうほ共子ともこさんの口から聞いたのだった。澁谷しぶや智子ともこさんの『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』(中公新書、2018)が出版された頃だったと思う。荘保さんが年以上支援してきた困難を抱えた子どもたちの多くが、この名前に当てはまる存在だったのだ。そこで私も澁谷さんのご著書を読んでみた。確かに西成で見聞きする子どもたちの姿と重なり、その頃出席していた要保護児童対策地域協議会(要対協)で「ネグレクト」疑いで「見守り」とされている家の子どもの多くが実は家族を支えるヤングケアラーなのだと知った。
 そのあと、本書の準備を進めていた2021年3月に、澁谷さんの西成区役所での講演を聴いているときに、ふと前任校のゼミ生を思い出した。

 その学生は、母親の体調や母親が新興宗教に依存していることなどをしきりと心配して、いくつかの団体の「修行」や「奉仕」に参加する母親にぴったり付き添っていた。本人も摂食の困難や内臓の不調を抱えていたのだが、むしろ日常的に「先生もしっかり栄養をとらないとだめです」と気づかってくれていた。自分自身については、体調不良で医師の診察を受けているという報告のみで、もっぱら宗教に依存する母親と、過量服薬を繰り返し何度も救急搬送されていた同期のゼミ生のことを心配していた。当時は私自身も、希死念慮きしねんりょが強かったそのゼミ生へと注意を向けていた。

 その後、私が今の勤務先に異動したあと、彼女はわざわざ新幹線を乗り継いで進路の相談をしにきた。極めてうかつなのだが、その訪問自体が必死のSOSだったということにそのときは気がつかなかった。学生は数年来さまざまな宗教の儀礼に通う母親に同伴を強要されていたのだが、私の研究室を訪ねる際も、母親がつきまとって新幹線に乗ってきてしまったという。彼女は地下鉄の駅まで母を撒いて遠回りしてバスでやってきた。そのときもいつも通り明るくユーモアを交えながら、うまくいってはいなかった就職活動の状況を語った。

 それからしばらくして、その学生が亡くなったという知らせを、ゼミの卒業生から聞いた。奇妙に盛大だった葬儀では彼女の死因は明かされなかった。お棺のなかの苦しそうな顔を今も覚えている(生前の彼女は優しい笑顔が美しい女性だった)。結局、彼女がどれだけ苦しんでいたのか、ということを私は訃報ふほうを聞くまで想像できていなかったのだ。それから年以上経っても、この学生のことはときどき思い出していたのだが、澁谷さんの講演を聴くなかで、彼女がヤングケアラーであることに気づいたのだった。

 この学生とヤングケアラーとが結びついたことがきっかけになって、何人か他の学生たちのことも思い出した。逃れられない閉塞へいそく感は彼らに共通していた。私も「ヤングケアラー」という言葉は知らなかったので、今思い返すと適切な応答ができていなかったかもしれない。少なくともヤングケアラーという言葉を知っていれば、学生たちが置かれている状況をもっとクリアに理解できただろう。

 あるいは私自身の母親も母子家庭で、豪快な性格だった祖母が不在がちだったため、家事をこなし4歳年下の妹を養育しながら育ったヤングケアラーだった。つまりヤングケアラーであることで固有の困難を経験している人が身近なところにたくさんいる。

 本書は、ヤングケアラーとしての経験を持つ方へのインタビューを基にしているが、身近で思い出されるヤングケアラーたちの姿を念頭に置きながら書いている。

 たとえば10年ほど前、数カ月に1回研究室を訪れ、毎回決まって2時間話をしていく学生がいた。彼女は日常的には非常に快活で、研究にも熱心だったのだが、ポケットティッシュをまるまる1袋使うほど号泣しながら母親の話をするときだけまったく異なる様子だった。精神疾患を抱えて入退院を繰り返し、ときにそう状態で錯乱する母親に付き添うなかで、学生は非日常的な経験をしていた。このエピソードの掲載許可をいただいた際の返信によると、私のもとを訪れる背景には「当時いちばん悩まされていたフラッシュバックや破裂しそうな感覚」があったという。会話のなかで自分自身の経験の深層に降りてから、また快活な日常生活の表層に戻るために、ぴったり2時間という長さを彼女は必要としていた。

 母が彼女をどのように束縛し、錯乱する母親とともに部屋のなかでどんな思いでたたずみ続け、あるいは躁状態での外出に同伴するときに何が起きたのかを、学生は私に語った。外出は母親にとっては「娘のため」であり、必死に娘のことをケアしているつもりである。しかし現実には非常識な思いつきゆえに、外出先でもトラブルが起きる。そんな「娘をケアする」という母の妄想が破綻はたんしないようにと学生は配慮し付き添い続ける。そのつど更新される出来事の詳細を、私は数年間聴いた。学生自身は心身ともに健康だったが、非常に大きな困難を抱えていることは明らかだった。しかし当時はそのような状況を説明する言葉がなかった。

 彼女がヤングケアラーであったことに気づいたのも、本書の準備を始めてからだ。〈閉塞のなかでの孤立とそこからの脱出〉という本書を貫くテーマは、ヤングケアラーだった学生たちから学んだものである。

■ヤングケアラーという言葉

 日本で初めてのヤングケアラー調査は2016年に濱島はましま淑惠よしえたちが行った。ヤングケアラーという言葉が日本の対人援助職のあいだで広く知られるようになったのは、前述のように2018年の澁谷智子の『ヤングケアラー』の出版によってであると思われる。経済学者である阿部彩あべあやの『子どもの貧困 日本の不公平を考える』(岩波新書)が出版された2008年から、7人に一人といわれる子どもの貧困がメディアで大きく報じられ始めた。その次の波としてヤングケアラーの存在が表面化するようになった。貧困はその後深刻になりこそすれ解決したわけではないが、世間の耳目じもくは次のトピックであるヤングケアラーに移ったのだ。貧困も虐待もヤングケアラーもなくなることはないだろうし、オーバーラップする部分もある。本書の議論も子どもが育つ環境づくり全般に関わるものとなろう。

 2020年3月からの毎日新聞の特集記事をきっかけにして報道が続いたことでヤングケアラー(※注1)という言葉は広く一般の人にも知られるようになった。毎日新聞の調査報道が初めて介護を担う未成年の数を、3万7100人と具体的な数字で推計したのだった(※注2)。たとえば2021年に大阪府は府内全域の高校でヤングケアラー調査を行うなど、対応すべき課題として行政からも認知されるようになっている(※注3)。私が参加していた要対協でも、毎月検討される70~80件の家庭のおそらく半数近くがヤングケアラーに該当するということが、メンバーの共通認識になっていた。

 澁谷智子は近著の冒頭で次のように定義している。

「ヤングケアラー」とは、家族にケアを必要とする人がいるために、本来大人がすると想定されているような家事や家族の世話などを行っている歳未満の子どもや若者を指す言葉です。
 ヤングケアラーは、慢性的な病気や障害、精神的な問題、高齢や幼いといった理由で看護や介護や見守りなどを必要とする家族の世話をしています。毎日の食事の用意や後片付け、洗濯、ゴミ出し、買い物、きょうだいの世話。ケアの必要な家族の話を聞いたり、元気づけたりするなどの感情面のケア。中には、病院への付き添い、救急車への同乗、自宅での経管栄養のケア、薬の管理、金銭管理をしている中高生もいます。

澁谷智子『ヤングケアラーってなんだろう』ちくまプリマー新書、2022、3頁

 2020~21年の調査によると、中学2年生の5.7%がヤングケアラーだという結果が出ている(※注4)。今後調査が進んでいくことで、この数字は上下もしていくだろうが、少なくない子どもがこのカテゴリーに当てはまるということだ。澁谷も濱島淑惠も近著のなかで人口動態の変化(高齢者が増加し、勤労世代が減ること)で、経済成長期に核家族化が進むなかで家族ケアを家のなかに押し込めてきた、そのミスマッチとしてヤングケアラーが増加したことを指摘している(※注5)。

 まずひとつ強調したいのは、「そのケアを支える人手が十分にない時には」という条件のもとでは「未成年の子どもであっても、大人が担うようなケア責任を引き受け、家族の世話をする」ということだ(※注6)。逆に言うと、介護や家事労働を担うことは、ヤングケアラーであるための十分条件ではあっても必要条件ではない。介護を担わなくてもヤングケアラーと呼びうる子どもたちはたくさんいる(むしろ多いだろう)。とはいえ、報道をリードした毎日新聞取材班がまとめた『ヤングケアラー 介護する子どもたち』も、介護だけがヤングケアラーの行為ではないと断りを入れつつも副題が示す通り介護に焦点を当てている(※注7)。しかし子どもの苦悩や頑張りに序列がつくものではないのだから、介護以外の側面についても考えていく意味がある。

 本書の主題はそれゆえ、ヤングケアラーが、どを、ことにある。

 日本ケアラー連盟の「ヤングケアラープロジェクト」のウェブサイトを見ると、

・家事:料理や洗濯、掃除など
・一般的なケア:着替えや移動の介助など
・情緒面のサポート:見守り、声かけ、励ましなど
・身辺ケア:入浴やトイレの介助
・医療的なケア:投薬管理など
・きょうだいの世話:世話、見守り
・その他:金銭の管理、通院の付添い、家計を支えるための労働、家族のための通訳など

 とヤングケアラー、若者ケアラーが担う仕事を規定している(※注8)。単なる身体的な介護だけではない、さまざまなことがケアの内容として挙げられていることが分かるだろう。このことは澁谷も強調している(『ヤングケアラー』既出、40頁)。ヤングケアラーの定義について、拒否できない状況へと巻き込まれており、そのことが睡眠や食事といった生活、学業や友人関係、就労を制限するような影響を与えている場合、あるいはのちのちまで心理的な傷となるような状況について広く捉えたほうがよいのではないだろうか。

 そして濱島淑惠は次のように述べているが、この両義性とあいまいさはヤングケアラーを考えるうえで重要な出発点になるだろう。

 家族をケアすることは、「良い・悪い」、「苦しい・楽しい」で割り切れるものではない。ヤングケアラーは多様な側面を併せ持っており、彼らの存在や家族のケアそのものを否定する必要はない。
 ただし、なかには過度な負担で健康を害する子どもがいること、家族愛にもとづくありふれた手伝いに見えても、それが子どもたちから学校に通い、学び、友人をつくる機会を奪ってしまっている場合があること、これらは子どもの人権にかかわる事柄であることを明確に認識する必要がある(※注9)。

 私自身は聴き取りを進めるなかで、「家事や介護を行う」という狭義のヤングケアラーよりも広い範囲で捉えたほうがよいと考えるようになった。つまり具体的な労働はともなわなくても、家族のことを強く心配ケアし、あるいは家族の病や障害のために自らのケアが不足してしまう子どもに目を向ける必要があるだろう。現在、全国規模の調査が進んでいるところであり、書物もいくつか手に入るようになった。それらの成果を踏まえて、本書ではもう少し違った側面からこの問題を考えてみたい。

■誕生の瞬間から担う「ケア」

 本書の特徴の1つは、それぞれ状況がまったく異なるヤングケアラーの語りを、一人ひとり細かく分析しているという点だ。たとえばケアする家族が抱える病や障害、周りのサポート、経済状況、本人の思考様式、などがさまざまである。もちろん本書に登場するみなさんは多様なヤングケアラーのごく一部の例でしかない。ヤングケアラーはそれぞれが置かれている状況の個別性が高く、それぞれ複雑な経験と思いを経ているがゆえに、いったんは一般化することなく個別の姿と文脈を丁寧に描くことは有意義であろう。しかし単にインタビューを提示しただけでは、経験の細かいひだと複雑さは浮かび上がらない。襞を目に見えるようにするためには、本書のような語りのディテールと文脈を尊重した細かい読解が必要である(※注10)。

し、。そもそも本書には「身体的介護でつかれきってしまう」という場面は登場しない。そのにこそ本書では焦点を当てていきたい。本書はことを目的としている。もっというと実際の「ヤングケアラー」とは、その定義の範囲を超えた複雑で重たい経験をしている人たちのことである、という逆説的な定義すら可能である。ヤングケアラー調査は質問紙中心で、自由記述欄があったとしても、具体的な苦労や支援策への要望が書かれるにとどまる。しかし、子どもたちが抱えている複雑な思いは調査紙には書きようがないうえに、本書では子ども時代に言葉にすることができなかった内容が数多く語られる。

 本書のもう1つの特徴は、早くから外部のサポートを受けることができたヤングケアラーの語りが含まれるということだ。それゆえに例外的な逆境(貧困や無戸籍、親の薬物依存、逮捕)にもかかわらず、孤立の度合いが少なく社会へと参加できている。このことは今後のヤングケアラー支援を考える際に、大きな示唆しさを与えてくれる。制度的な支援については濱島の『子ども介護者』の終章が特に参考になるが、本書は「地域での子育て支援」という角度からサポートを考えることになる。

 このことは、本書の成り立ちとも関わっている。本書は元ヤングケアラー当事者の声を聴き、そこから何が見えるかを分析する書物であるが、もともとの執筆動機は、生活困窮地域におけるコミュニティづくりを、そこに生きている子どもたちの視点から描くということだった(完成した本書は、困窮地域以外の人たちへのインタビューが含まれる)。本書はヤングケアラーについての書物であるとともに、子どもの居場所を当事者目線で描くという二重の狙いを持ったため、ヤングケアラーを支えてきた支援とコミュニティを同時に描くことになった。このことゆえに他のヤングケアラーの書物と比べたときに「明るい」トーンとなるとともに、ヤングケアラー支援に限られない子育て支援のモデルケースを、広く示すことにもなっている。

 本書は大人になったヤングケアラーが子ども時代を回想する本であり、読者もまた大人だろうが、子ども時代に深く悩み苦しんでいた人は(ヤングケアラーに限らず)少なくないだろう。大人になった私たちは、誰もが子ども時代をやり過ごしつつ何とか生き延びたのだが、いまに本書は触れている。

 あるいはこう言ってもよいかもしれない。あらゆる子どもは生まれた瞬間から親をケアしている。一般に親が子どもをケアすると思われているが実はその逆もまた真実である。親は子どもにケアされ、子どもに依存しつつ子育てをする。そのなかでさまざまな困難があり、逃れることができない状況に子どもが陥ったときにはヤングケアラーと呼ばれる。子どもとして生きることは実はとても困難な「事業」であり、子どもとは極めて複雑な存在なのだ。本書は結果として、そもそも人が育つというのはどういうことなのか、どんなサポートを必要としているのか、子どもの権利とは何か、子どもの育ちを軸としてコミュニティを作るときにどのようなものになるのか――という広く人と社会の関係を問い直す本となった。

 本書は7人のヤングケアラー経験者の方へのインタビューとその分析を基にしている。分析は語りのディテールにこだわり尊重する。そこにこそ、ヤングケアラーの経験の機微きびが宿り、そしてディテール間の連結を調べることで、どのような経験の布置ふちだったのかが浮かび上がるのである。

<脚注>

※注1:毎日新聞「クローズアップ:ヤングケアラー10代介護、可能性奪う 心身疲弊、学業諦め」東京版朝刊、2020年3月22日。この記事の反響を受けて、毎日新聞は2020年5月5日から6月27日まで5回の「ヤングケアラー~幼き介護」という連載記事を組んだ。
※注2:その経緯については毎日新聞取材班『ヤングケアラー 介護する子どもたち』毎日新聞出版、2021、35-48頁にくわしい。
※注3:「府立高校におけるヤングケアラーに関する調査結果について(概要)」2021年12月(2022年2月26日最終閲覧)/https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/2364/00404741/yckekka.pdf
※注4:「令和2年度子ども・子育て支援推進調査研究事業ヤングケアラーの実態に関する調査研究報告書」(三菱UFJリサーチ&コンサルティング)2021年3月 https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2021/04/koukai_210412_7.pdf (2022年2月日最終閲覧)
※注5:澁谷智子『ヤングケアラーってなんだろう』既出、第1章/濱島淑惠『子ども介護者 ヤングケアラーの現実と社会の壁』角川新書、2021、第五章
※注6:澁谷智子『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』既出、1頁
※注7:毎日新聞取材班『ヤングケアラー 介護する子どもたち』既出、137頁、190頁
※注8:「ヤングケアラープロジェクト」(https://youngcarerpj.jimdofree.com/:2022年3月4日最終閲覧)
※注9:濱島淑惠『子ども介護者 ヤングケアラーの現実と社会の壁』既出、2021、29頁
※注10:方法論については拙著『摘便とお花見 看護の語りの現象学』(医学書院、シリーズ ケアをひらく、2013)の付章を参照。本文では現象学という言葉は登場しないが、語りの分析は現象学的な質的研究の方法論に則っているとともに、今回は私自身が学生の語りを聴くなかで考えたことを織り込む形で補完している。


目次

序章 「ヤングケアラー」への問いと出会う ――家族を“心配する”子どもたち

想起される身近なヤングケアラーたち/ヤングケアラーという言葉/誕生の瞬間から担う「ケア」

第1章 兄の身代わりで空っぽになる自分――長期脳死の兄と麻衣さん

1 長期脳死という“あいまいな生”への怖さ
兄のてんかん発作/「兄の姿」への怖さ/周囲とのずれ

2 見舞いと元気なふり――1つ目の自己喪失
兄の神格化/「お兄ちゃんの分も」頑張る/「スイッチで切り替わる」/無力化/夢

3 兄の身代わりとして生きる――2つ目の自己喪失
「兄貴に寄せていく」/「中心が自分じゃない」

4 孤立と反復、夜の自室――3つ目の自己喪失
コンビニおにぎりのフィルム/「自分が空っぽ」/「自動的に反発できない」

5 突如あらわれる強烈な怒り
フラッシュバック/家族のバランスが崩れる/〈弱くある権利〉とは

6 兄への「沈黙したケア」
兄の本当の思い/兄へのケア

第2章 言えないし言わない、頼れないし頼らない――覚醒剤依存の母親とAさん

1 母親の薬物使用をめぐるあいまいさ
こどもの里と薬物使用の始まり/薬物がつくり出した状況/母の様子のあいまいさ/妹と弟/周囲に「言えない」「言わない」/2つの居場所

2 母の逮捕後――こどもの里での滞在と、状況の知の獲得
母の逮捕/将来への願い/状況を「知りたい」「見たい」

3 中学卒業後、西成を離れて
「全部、自分が悪い」/一人暮らしと「無理」/再度の大学入学/遠く離れたこどもの里とガニさん

4 受刑中の母親との交流
両義的なコミュニケーション/安心と変化

5 “反転”した現在の生活
反転1:こどもの里の意味が変化する/反転2:「ママのせい」から「ママ〔たち〕の生きづらさ」へ/認めてくれる大人の存在

第3章 気づけなかった罪悪感と「やって当たり前」のケア――くも膜下出血の母親とけいたさん

1 母親の看病――「どうしよう」で分節される時間
けいたさんとの出会い/母が倒れたとき/母親の沈黙とヤングケアラーとしての姉/今現在

2 「ヤングケアラー」と名乗ることへの違和感
祖母をサポートする/ヤングケアラーという名称への違和感/打ち消された「大変さ」

3 4タイプに分かれる周りの大人たち
比べる大人/「~してく」大人/理解しようとしない周囲/「しゃべらんでも分かる」ピア

4 社会に向かって開かれていく自分――うつからの回復
うつの期間/回復/「自分の意志で何かしたい」

第4章 通訳すると消える“私”――ろう者の母親とコーダのEさん

1 私の第一言語――日本語なのか、手話なのか
日本手話と日本語対応手話/日本語と日本手話/アイデンティティとしてのコーダ

2 コーダから見たろう者のコミュニティ
ろう者同士の会話/ろう者コミュニティのなかの健聴者

3 「おせっかい」が私を消す
コーダは「嫌な思い出」/「私」の消失/ヤングケアラー役割への抵抗/通訳と中途半端なコミュニケーション/ヤングケアラー役割の強制/コミュニケーションの非対称性と代理

4 ヤングケアラーとしてではない手話
「自分にできること」としての手話/「おいでよ」と呼ぶ場所

5 「こめっこ」という場所の引力
手話の意味づけの変化/あいまいな場所が持つ創造性/あいまいさからの脱却

第5章 理不尽さと愛情――覚醒剤依存の母親とショウタさん

1 うつ病でしんどい母と過ごした保育園・小学校時代
外から見れば「ネグレクト」でも/繰り返される転居/不登校/母親の理不尽な怒り

2 外の普通、うちの普通
フリースクール/「普通」について/母親の逮捕とこどもの里への滞在/こどもの里の子どもとコミュニケーションの力/あなたが決めなさい

3 頑張っていた母と自分――離別と自立
母親とのけんか/母親の頑張り

4子ども時代を意味づけし直す
自分と向き合う時間/母親のライフヒストリーの意味づけ/「普通」の反転

5 一番安心できる場所
居場所とは何か

第6章 母親の所有物――うつ病の母親とサクラさん

1 過量服薬で救急搬送を繰り返す母
母のうつ病/母による束縛/自殺企図/感情の発見

2 困難が社会へと開かれる
警察が来て気づいたこと/苦しみの社会化/経験を社会に位置づける

3 愛情と孤立、愛情と自立
束縛と不登校/母の所有物/愛されていないという思いと束縛/自分は存在してもいい

第7章 学校に行かせてくれた「居場所」――失踪した母親、残された弟と無戸籍の大谷さん

1 極度の貧困と家族の困難
なぜケアする子どもが注目されるのか/簡易宿所での6人暮らし

2 抗うことすら、思い浮かばない
母の代わり/不在の母をケアする/弟へのケア

3 「いつでも、誰でも、おいで」な場所
こどもの里との出会いと不就学/無戸籍/誰でもいられるユニバーサルな居場所

第8章 “記号”が照らす子ども、“記号”から逃れる子ども

1 「ヤングケアラー」とは誰か
困難も力も持った存在/身体的な病・障害とは限らない/家事をする子どもではなく「心配する」子ども

2 ネグレクトからヤングケアラーへ
ネグレクトではなく/ストレングスモデル/ラベルにしないために

3 “記号”に対する子どもの位置取りとは
SOSを出しうるかどうか/どのように自覚し、どのように語るか/ヤングケアラーという記号に対する位置のとり方

終章 孤立から抜け出すためのサポート

1 置かれた状況に巻き込まれていく子どもたち
状況への巻き込み/孤立/束縛/ヤングケアラーが持つ罪悪感/世界が壊れる/自分が消える

2 「ヤングケアラー」のその先へ
家から社会への跳躍/失われた自己をつなぎ合わせる

3 必要としているサポートとは――暫定的な議論の出発点として
親支援/「私サイド」に立ってくれる大人/複数の居場所、複数の支援者/ピアサポート

あとがき