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【『ひとつの祖国』と貫井徳郎論】この世界の表と裏/千街晶之氏による評論を公開

 貫井徳郎さんの『ひとつの祖国』(朝日新聞出版)の舞台は、第二次大戦後に分断され、再びひとつの国に統一されたという設定の架空の「日本」。その日本は統合された後も、東西の格差は埋まらず、東日本の独立を目指すテロ組織が暗躍しており……。意図せずテロ組織と関わることになった一条昇と、その幼馴染で自衛隊特務連隊に所属する辺見公佑の二人の青年の友情が交差する、極上の社会派エンターテインメント巨編です。「小説トリッパー」24年夏季号で、千街晶之氏がご執筆くださった作家論を掲載します。

貫井徳郎『ひとつの祖国』(朝日新聞出版)
貫井徳郎『ひとつの祖国』(朝日新聞出版)

この世界の表と裏――『ひとつの祖国』と貫井徳郎論

 本論は、作家の作品歴をたどるために『ひとつの祖国』をはじめとする複数の作品の核心に触れる箇所があります。未読の方はご注意ください。

 フィクションの世界には、「分断日本」ものと呼ばれるサブジャンルが存在している。第二次世界大戦などの戦乱・内戦を契機として、日本が二つの国家に分断されるという設定の物語を指す。古くは、第二次世界大戦後に東西陣営により南北に分断された東京を舞台にした藤本泉の短篇「ひきさかれた街」(1972年)を先駆とし、1990年代には架空戦記ブームに乗って、豊田有恒の『日本分断』(1995年)、矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん』(1997年)といった作品が発表された。比較的近年では、有栖川有栖の『闇の喇叭』(2010年)に始まる空閑純シリーズ、知念実希人の『屋上のテロリスト』(2017年)、佐々木譲の『裂けた明日』(2022年)などが思い浮かぶ。日本人作家によるものではないが、マルカ・オールダー、フラン・ワイルド、ジャクリーン・コヤナギ、カーティス・C・チェンの合作による『九段下駅 或いはナインス・ステップ・ステーション』(2019年)も忘れてはならない。

 これは、実際に第二次世界大戦が終結した後、戦勝国側が日本を分割統治しようとした計画が存在していたことから生まれたサブジャンルと言える。結果として分割占領は行われず、アメリカを中心とする連合国軍最高司令官総司令部による間接統治が選択されたわけだが、仮にソビエト連邦のスターリンの要求が通っていた場合、北方四島のみならず北海道もソ連に支配されていた可能性がある。実際、アメリカとソ連をそれぞれ盟主としていた東西陣営の対立を背景に、ドイツ(および、その首都ベルリン)の東西分断、朝鮮半島の南北分断のような事態が起こっていたわけだから、このテーマは日本人にとって他人事ではない極めて強い現実味があったのだ(そのあたりの事情は、今年刊行予定の拙著『ミステリから見た「二○二○年」』で論じたので、そちらを参照していただきたい)。

 貫井徳郎の長篇『ひとつの祖国』(2024年)は、この「分断日本」テーマを扱った最新の作例ということになるだろう。ただし、作中の日本は、「分断」から表面上は回復された状態にある。大戦末期、ソ連軍が北海道を制圧し、本州にもなだれ込んだため、天皇は京都に逃れ、新潟の糸魚川と静岡の富士川を結ぶ線を国境として、西日本には民主主義国家の大日本国(首都は大阪)、東日本には共産主義国家の日本人民共和国(首都は東京)が誕生した――という設定になっている。しかし、ベルリンの壁が崩壊し、共産主義国家が雪崩を打って民主化すると、両日本は再び統一される。ただし、過去のように東京が日本の首都に返り咲くことはなかった。統一日本の首都は大阪に定められ、かつての関西弁が標準語となり、東京の言葉は田舎者の方言と見なされるようになったのである。

 このようなパラレルワールド日本を舞台とする『ひとつの祖国』には、主人公が二人存在している。一人は、東日本出身の一条昇。もう一人は、西日本出身の辺見公佑である。出身地が異なる上、学究肌の一条に対し辺見は体育会系……という性格の相違もありながら、父親が自衛隊員という共通点があったため、二人は小さい頃から友情を育んでいた。辺見が大学卒業後に父同様に自衛隊員となり、一条が東日本出身のハンデで正規雇用の職を得られなかったという人生の分岐点はあったものの、二十八歳までは、この友情は長く続くものと二人とも信じていた。

 その頃、東日本独立を目指す〈MASAKADO〉というテロ組織が暗躍していた。一条はその手先に巧みに欺かれ、のっぴきならない立場に陥って〈MASAKADO〉のメンバーになってしまう。一方、辺見は一般には公にされていない自衛隊特務連隊の一員として〈MASAKADO〉の動きを探るうち、テロ現場に一条の指紋があったことを知る。

 パラレルワールド的な日本を舞台にした作品としては、貫井はかつて、明治ならぬ明詞という架空の年号が使われている維新後の帝都を背景に、名探偵の朱芳慶尚とワトソン役の九条惟親のコンビが活躍する『鬼流殺生祭』(1998年)『妖奇切断譜』(1999年)の「明詞」シリーズを発表しているけれども、そちらは古風な探偵小説の味わいを強調した本格ミステリ路線であり、今回の作品とは狙いがかなり異なる。むしろ、一人殺害しても死刑が宣告されるようになったディストピア的日本社会を背景とする『紙の梟 ハーシュソサエティ』(2022年)のような、現実とは異なる日本を舞台とすることで現実の問題点を炙り出すという、一種の思考実験を試みた作品と同じ系列と言えそうだ。

『ひとつの祖国』を読みはじめて私がまず連想したのは、『百舌の叫ぶ夜』(1986年)を代表とする、逢坂剛の一連の公安警察シリーズだった。『ひとつの祖国』の辺見は公安警察の一員というわけではないが(公安と捜査協力するシーンはある)、国家のため時には非合法行為を含む汚れ仕事を引き受けているという点は共通している。大きな話題を呼んだドラマ『VIVANT』に登場する、日本政府非公認の自衛隊の影の諜報部隊「別班」を想起するひとも多いだろうが、『ひとつの祖国』の連載は2022年からスタートしており、『VIVANT』の放送は2023年なので、そこから影響を受けたというわけではない。辺見は香坂衣梨奈という同期の相棒とともに〈MASAKADO〉の動きを探るが、時には盗聴や拷問といった行為も辞さない。そのあたりのダークな描写は逢坂作品を想起させる。

 一方の〈MASAKADO〉の内情はもっと複雑だ。一応、経済学者の春日井が理論的指導者という役回りだが、組織内では多くの犠牲者を出すテロもやむなしとする過激派と、テロでは民衆の支持を得られないと考える穏健派とが対立し、後者である春日井は前者を抑えきれていない。では穏健派が良識的なのかというと、彼らにもそうとも言い切れない得体の知れないところがあるし、それどころか穏健派内部もまた一枚岩ではない。やがて、〈MASAKADO〉の構成員たちが次々と何者かに殺害されてゆく。それは、テロ組織につきものの内ゲバなのか。

 作中の日本は、西日本出身者が優遇され、東日本出身者が貧困に苦しむ格差社会として描かれている。現実の日本においても、一億総中流といわれた時代はとっくに過ぎ去り、悪政やコロナ禍のせいで多くの国民が貧困に直面している一方、恵まれた一部の人々が「上級国民」と呼ばれるような格差社会が現出している。サスペンスタッチで進行する『ひとつの祖国』では、テロ組織の内情をめぐる謎解きとともに、格差は何故生じるのかという根源的疑問の考察を試みている。

 ある登場人物からの「なんで格差があるんだと思う? 平等にできない理由は何?」という問いに、一条は「まず、そもそもひとりひとりの人間は同じじゃないからか。容姿や性格、能力に違いがあるから、完全な平等は不可能だ。それでも制度として平等を実現できるはずなのにそうしないのは、人には上に立ちたい欲があるからなんじゃないか」と答える。「いやだけど、どうしようもない。人間はこういう生物なんだと諦めるところから始めるしかないだろ」と言う一条に、相手は「私たちは、人間の闘争本能こそが諸悪の根源だと考えてる。闘争本能が見下し見下される関係を生み出し、争いが絶えない社会を作ったんだ。人間から闘争本能がなくなれば、他人を見下すこともなくなるし、争ったりもしなくなる。私たちは、人間から闘争本能を取り除くことを目標としている」と答える。具体的には、攻撃性と連動するホルモンであるテストステロンの分泌を抑制するというのがその方法である。

 闘争本能を除去された人間たちが暮らす平和な世界。それは、実現すればさぞや美しい理想郷となるだろう。しかし、どう考えても単純すぎる極論である。そして、あらゆる極論がそうであるように、その過程において必ず危険な副作用を伴う。生殖にも影響を与えるホルモンであるテストステロンの分泌を抑制すれば、種としての人間が増えにくくなる。人口の減少による国力の低下で日本は縮小し、人々は貧しくなる――と主張する一条に、相手は「私たちはすでに貧しいでしょ。日本は先進国だっていう認識が、もう間違っているのよ。縮小するなら、相応の国を作ればいい」と反論する。テストステロンの分泌抑制までは唱えていないにせよ、現実社会の一部のリベラル系文化人による脱成長論がこれに近いだろう。このような極論に対し、一条がどのような結論に達したかは後で触れる。

 人間の闘争本能は、果たして一概に悪と言えるだろうか。思えば、貫井徳郎という作家は、人間の悪や愚かさの淵源を絶えず掘り下げようとしてきた。彼のこうした人間や社会への眼差しは、どのようにして生まれ、育まれてきたのだろうか。

 言うまでもなく、貫井のデビュー作は『慟哭』である。1993年、彼は前年に執筆したこの作品を第4回鮎川哲也賞に応募し、最終候補に残った。受賞は逸したものの(受賞作は近藤史恵『凍える島』)、予選委員の北村薫と東京創元社編集者(当時)の戸川安宣の推挽により、この作品は東京創元社の叢書「黄金の13」の一冊として刊行される。発表時から高く評価されたわりに、文庫化は1999年と遅かったけれども、この文庫版が今世紀に入って書店員のプッシュによってベストセラー化し、それに伴って貫井自身の作家としての知名度・注目度も急速に上昇することになった。

『慟哭』は、二つのパートがパラレルに進行する構成となっている。一方のパートでは、捜査一課による幼女連続誘拐事件の捜査の過程が描かれ、もう一方のパートでは、ある男が新興宗教に救いを求める姿が綴られているのだ。言うまでもなく二つのパートは意表を衝くかたちで最後に交錯するのだが、こうした構成のミステリとしては、ビル・S・バリンジャーの『歯と爪』(1955年)などの古典的な先例があり、それらからヒントを得たことは想像に難くない。たとえトリックの原理に類例があろうとも、その切れ味の鋭さと余韻の重さは話題を呼ぶに充分なものだった。

 もちろんここで物語の着地点を明かすわけにはいかないので、隔靴掻痒の説明となることをお許しいただきたいが、作中の出来事のすべてに明快な解決が与えられるわけではないことがこの作品の大きな特色となっている。普通であれば、謎を謎として残しておくのはミステリのルールに反することであり、怒る読者も出てくるだろう。ところが『慟哭』の場合、結末に至って読者はその不条理さをも著者の計算のうちとして受け止めざるを得ない書き方がされているのだ。

 この『慟哭』がデビュー作としてあまりに鮮烈だった反動か、第二長篇『烙印』(1994年)でハードボイルド的作風に挑むも好評を得られなかったりするなど(2000年に『迷宮遡行』として全面改稿)、デビュー後しばらくは試行錯誤とも迷走とも言える時期があった。この時点では貫井の作家としての技術力が、やりたかったことにまだ追いついていなかったのも事実だろうが、その『迷宮遡行』新潮文庫版・朝日文庫版の解説で法月綸太郎が「貫井徳郎という作家の創作に対するスタンスが、新本格派の確信犯的な様式信仰より、むしろ岡嶋二人や東野圭吾のような『綾辻以前』の本格作家のメンタリティに近いことがわかる」と述べているように、『慟哭』がなまじトリッキーな仕上がりだったために、当時の新本格のような作風を貫井に期待した読者が、第二作以降で裏切られたような印象を受けたという面もあった筈だ。そうした読者からの反応は当然貫井にも届いていたと思われ、それが試行錯誤を招いたとも考えられる(ついでに触れておくと、当時の新本格のコアなメンバーのうち、貫井の作家的資質に最も近かったのは歌野晶午だったのではないか――歌野のほうが、名探偵や館といった新本格的なガジェットに親和性を示していたものの。岡嶋・歌野・貫井がいずれも、サスペンスと意外性を両立させるには格好のモチーフである誘拐を得意としていることは、決して偶然ではない筈である)。

 デビューから現在に至るまでコンスタントに作品を発表している貫井だが、レギュラー・キャラクターが登場するシリーズものは案外少なく、先述の「明詞」シリーズを別にすれば、『失踪症候群』(1995年)『誘拐症候群』(1998年)『殺人症候群』(2002年)と続いた「症候群」三部作と、警視庁捜査一課の「名探偵」西條輝司刑事が登場する『後悔と真実の色』(2009年)とその続篇『宿命と真実の炎』(2017年)くらいだろうか。「症候群」三部作は、警察組織が表立って捜査しにくい事件を取り扱う影の特殊工作チームの活躍を描いた作品であり、『ひとつの祖国』における辺見たち自衛隊特務連隊の存在を先取りしているかのようだ。

 もう一作、『ひとつの祖国』の先取り的な要素が見受けられる初期作品が『修羅の終わり』(1997年)であり、どうやらこのあたりで、貫井は自身が作家としての道をどう歩むかを見極めつつあったのではないか。この作品は、公安の刑事、悪徳警官、記憶喪失の男という三人の主人公の物語が最後に交錯する構成となっており、デビュー作『慟哭』の二視点から三視点に増やすことでスケールアップを図った野心作と言える。このうち注目したいのは公安の刑事・久我を主人公とするパートだ。警視庁公安部門の中でも、左派政党やその関連組織の動向をチェックするために設立されたのが第四係である。警備専科教養講習という秘密講習を受けて第四係に配属され、「桜」という隠語で呼ばれる「裏の公安」となった久我は、極めて正義感の強い人物と表現すれば聞こえはいいが、その正義にはかなり独善的な面があり、公安刑事には向かないと勝手に思い込んだ同僚に対して暴力を振るったりする。そんな久我が、極左秘密組織「夜叉の爪」を壊滅させるべく暗躍するうちに、目的のために手段を選ばぬ公安のダークサイドを知ることになる。国家を支える組織がそのために非合法活動で手を汚し、テロリストの側と大差ない存在と化す描写は『ひとつの祖国』と共通する。

 この『修羅の終わり』に限らず、貫井作品において警察組織は必ずしも正義の象徴としては描かれていない。例えば、第23回山本周五郎賞を受賞した『後悔と真実の色』では、凡人警察官が優秀な警察官への嫉妬から相手の弱みを掴んで失脚させるエピソードをはじめ、警察組織内の醜い足の引っぱりあいが描かれている。『宿命と真実の炎』では警察官が復讐の対象となるし、『罪と祈り』(2019年)では正義感が強く地元でも慕われていた元警察官の殺害事件から過去の秘密が浮かび上がってくる。タイトルを挙げるわけにはいかないが、警察官が殺人者へと闇堕ちする作品も複数ある。

 2022年に行われた「リアルサウンド ブック」の千街晶之・若林踏との座談会「人気ミステリ作家・貫井徳郎デビュー30年記念座談会 評論家とともに振り返る功績と真髄」で、貫井は「白黒をはっきりさせない、善悪の境目を疑わせるテーマ設定は得意というか、好んでいます。決めつけが嫌いなんです。一面的に書くのではなく『こんな見方もあるんですよ』と多面的な見方を提示する話が好きですね」と自らの作風を述べている。その土台となった子供時代の読書体験・TV体験については、「小学生の時の『デビルマン』(アニメ・漫画)です。悪魔が悪で人間が善だと思っていたら、途中からその価値観が崩れてしまう。その後は、平井和正さんのSF小説シリーズ『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』。地球外生命体がいつの間にか人間に寄生している話です。寄生されると見た目は人間なんだけど、異星人に乗っ取られている。主人公のゾンビー・ハンターはそれを見つけて駆逐するんですけど、最後に大どんでん返しがある。そういう価値観をひっくり返す系の大どんでん返しものを、子どもの頃にいくつも読んだものですから」「あとは『必殺シリーズ』(時代劇)です。主人公たちは悪い奴しか殺さないとは言っても、人殺しをするんだから、善ではない。最後は因果応報でものすごくひどい運命が待っていたりする。そういうのが、本当に好きになってしまいました」と語っている。貫井がミステリ界において、京極夏彦と並ぶ「必殺シリーズ」マニアであることは知られている。

「必殺シリーズ」は江戸期を舞台にした時代劇なので、現代の視聴者が何となく観ているとつい見過ごしがちな点なのだが、このシリーズで藤田まことが演じて人気キャラクターとなった中村主水の町奉行所同心という職業は、現代に置き換えれば警視庁の刑事なのである。「八丁堀」という主水の綽名は、今で言えば警視庁の所在地である「桜田門」となるだろうか。警察官が自らの職業によって正義を実現し得る可能性に絶望し、金銭をもらって悪党の命を奪うようになる――それが中村主水だとすれば、そうした主人公が活躍するドラマに大きな影響を受けた貫井が、警察官、あるいは警察という組織を、正義を体現する輝かしいものとして描く気になれないのは当然なのかも知れない。

 貫井作品には、警察組織などを背景として人間模様をリアルに描いた路線の作品とは別に、人工性を重視した本格ミステリ路線の作品が存在している。先述の「明詞」シリーズのほか、一篇ごとに趣向を凝らした連作短篇集『被害者は誰?』(2003年)、最近の作品では、VRゲーム内の殺人と現実の殺人とが交錯する『龍の墓』(2023年)などがそれに該当する。『慟哭』というデビュー作から、人間ドラマの要素と、トリッキーな仕掛けの要素とが二大系統として分岐した――とも言えそうだ(もちろん、二つの系統が完全に分離してしまったというわけではないのだが)。

 こちらの路線の代表作が『プリズム』(1999年)だ。小学校教師が自宅で変死体となって発見された事件をめぐって、四人の事件関係者たちがそれぞれの理由から犯人を知ろうと、推理によって各自の結論に辿りつく……という本格ミステリである。何者かが送ったチョコレートに仕込まれていた睡眠薬が被害者の遺体から検出されたという設定からも、この作品が多重解決ミステリの古典であるアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』(1929年)へのオマージュであることは明らかだろう。『毒入りチョコレート事件』では一応、最後に提示された解答が正解と見なされることが多い(とはいえ、後世の作家が新たな解答を付け加えた試みが複数存在するのだが)。それに対し、『プリズム』では四人の推理はメビウスの環めいた構成となっており、どの推理が正しいかを求めて読めば煙に巻かれた気分になる筈だ。

 そして『プリズム』は、単に本格ミステリとしての代表作であるのみならず、『愚行録』(2006年)や、第63回日本推理作家協会賞を受賞した『乱反射』(2009年)などの作品に先駆けた試みでもある。実はこの系列こそが、貫井徳郎以外の作家にはあまり類例が見当たらない独自性を持つ。『愚行録』は、子供たちもろとも惨殺された被害者である田向夫婦を知る関係者たちの証言の連なり(および、正体が伏せられている女性の独白)によって構成されているが、それらの証言からは、被害者だけでなく証言者たち自身の人となりや思惑も浮かび上がってくる。証言するという行為自体が打算や自己正当化を含んでおり、互いが主張しようとする真実を打ち消しもするのである。また『乱反射』は、事故で幼い我が子を喪った新聞記者が、その真の原因が何かを探るうちに、大勢の人々の、法律では裁けないような些細な罪や過失の連なりが事故につながってしまったことを知る。しかし、ドミノ倒しやピタゴラ装置のようなその構図の中では、主人公自身も決して罪なき存在ではあり得ないのである。

 数多くの証言の連なりから構成されているという点は『微笑む人』(2012年)も共通している。エリート銀行員の仁藤が、妻と娘を殺害した容疑で逮捕される。当初、仁藤は犯行を否定していたが、やがて罪を認めると、驚くべき動機を口にする。本が増えて家が手狭になったから、妻子がいなくなればそのぶん部屋が空く――と考えて犯行に及んだというのだ。とても正気とは思えない動機だが、仁藤を知る人々は、彼が理性的な人柄で、そんな突拍子もない理由で人を殺すとは思えないと証言する。事件に興味を抱いた小説家の「私」が関係者に取材を進めるも、かえって仁藤をめぐる謎の迷宮に取り込まれてしまう。人間は自分が信じたいストーリーを信じるのであり、仁藤を知る関係者たちも、取材する「私」もその誘惑からは逃れられないのである。

 人間を犯罪や奇行へと突き動かす動機とは何か。その掘り下げをメインとした(ミステリ用語で言うところのホワイダニット)作品には、他に『壁の男』(2016年)や『悪の芽』(2021年)などがある。『壁の男』は作中で犯罪が起こるわけではなく、ある男が自分の住む地域で家々の壁に絵を描くようになった動機をライターが探ろうとする異色作だ。『悪の芽』のほうは、斎木という男がアニメコンベンションの会場で人々を殺傷し、自らも焼身自殺を遂げたという事件を知った銀行員の安達が、斎木が自分の小学校時代の同級生だったことに気づく。三十年前、安達は斎木をある理不尽な理由によって敵視し、彼がいじめられる最初のきっかけを作っていた。

 これらの作品では、動機は明瞭には提示されず、読者の想像に任される場合が多い。もちろん事件が起きている以上、そこには真の動機なり原因なりがあるのだろう。しかし、関係者たちの事件の捉え方がそれぞれ異なる以上、真実もまた彼らの人数だけ存在する。本来なら真相がすべて解き明かされるべきミステリといううジャンルにおいては破格の作風と言わざるを得ないが、思い返してみれば最後のピースに空白が残る点は『慟哭』の結末からそうだったのではないか。

 こうして、デビュー作『慟哭』から近年の作品へと、『ひとつの祖国』に至る道のりを辿ってくるかたちとなったけれども、モチーフや舞台設定の面で最も『ひとつの祖国』に近いのは『私に似た人』(2014年)だろう。何しろ、社会に不満を持つ人々による「小口テロ」を扱っているのだから。十のエピソードから成るこの小説では、実行犯たちは互いに面識がなく、《トベ》と呼ばれる正体不明の黒幕が彼らを煽動しているらしいが、その《トベ》もどうやら一人ではないようだ。《トベ》は、「君は自分の境遇をでなく、怒ろうとしないことを恥じなければならない。なぜなら、怒りを表明する人は続々と現れているからだ」といった言葉で人々の怒りをテロに導こうとする。格差社会を是正するために人間の闘争本能そのものを否定した『ひとつの祖国』のある登場人物とは正反対の考え方のように見えるけれども、強い思想、強い言葉で大衆を操り、結果的に罪なき人間の犠牲を生む点は変わりがない。

「小口テロ」という表現が示すように、作中で行われるテロ自体は、組織的背景がない個人でも行えるような小規模なものだ。しかし、『乱反射』において、ひとりひとりの罪は小さくともそれがドミノ倒し式に子供の命を奪ったように、「小口テロ」は少人数であってもひとの命を奪っていることは事実だし、それらが積み重なれば社会を大きく揺るがし得る。一連のテロの最初のドミノを倒した人物の正体は最後に明かされるけれども、その人物はフィクションの世界にありがちなカリスマ的な天才などではなく、もとはごく普通の市井の人間にすぎない。『私に似た人』というタイトルが示すように、作中人物たちは一歩間違えれば、読者の私たちの誰かがなっていたとしてもおかしくない存在として描かれているのだ。彼らのうち、ある者は愚かな選択によって罪を犯し、ある者は辛うじて踏みとどまるけれども、その違いを生むのは些細な偶然である。

『愚行録』のある登場人物は「人生って、どうしてこんなにうまくいかないんだろうね。人間は馬鹿だから、男も女もみんな馬鹿だから、愚かなことばっかりして生きていくものなのかな。あたしも愚かだったってこと? 精一杯生きてきたけど、それも全部愚かなことなのかな」と述懐する。人間は男も女もみな、ある程度の賢さと同時に、ある程度の愚かさも必ず内包しているというのが貫井の人間観なのだろう。だから彼の作品世界では、「明詞」シリーズの朱芳慶尚や『被害者は誰?』の吉祥院慶彦のような天才型名探偵は長く活躍し続けることができないし、『後悔と真実の色』の西條輝司刑事は「名探偵」と呼ばれるものの、その綽名はやっかみと揶揄を含んだものであり、当然の如く彼には失墜の運命が待っている。

『修羅の終わり』に代表されるように、貫井作品では体制側が平然と非合法活動を繰り広げるさまがしばしば描かれるが、かといって反体制側の組織を正当化しているわけでもない。組織が組織である以上、内ゲバは絶対に避けられないし、『私に似た人』で描かれるように、テロは根源に正義があろうともその過程で必ず無辜の犠牲者を生む。『ひとつの祖国』でも、西日本側の主人公・辺見は体制保持のために違法行為も辞さないし、東日本側の主人公・一条が所属した〈MASAKADO〉の一派は内部対立によって自壊の道を辿る。登場人物の誰もが、正義や賢さを貫けず、悪や愚かさにまみれてしまうのだ。それでも体制なるものを信奉している辺見に対し、一条は度重なる裏切りを体験することで、体制も反体制も、日本も外国も信じられなくなってゆく。立場も思想も関係なく、人間として信じられるかどうかだけが、一条の行動原理となるのだ。

 終盤に発生する暴動は、格差や理不尽な現象が極まった時に民衆のあいだから自然発生するものとして描かれている。「人々はずっと、耐えていたのだ。理不尽な経済格差、ささやかな幸せすらも掴みづらくなった日常、明るい未来が描けなくなった社会。人々は夢を見ることすら諦め、日々を生き抜くだけで精一杯になっていた。だが、人には感情がある。機械と化して、自動的に生きることはできない。訴えようがない感情が溜まり、人々の心の中でぐつぐつと煮詰められていた。それが今、噴き出そうとしているのだ。これは、生きていくためのエネルギーの発露なのだ」。これが、闘争本能は人間から取り除かれるべきだという主張に対する一条の結論である。

 実際、世界では怒りによる抗議は正当なものであるという価値観が急速に勃興している。本稿を執筆している時点の国際情勢で言えば、イスラエルによるガザ地区での虐殺や、アメリカやドイツなどの欧米諸国によるイスラエルへの過度の肩入れ(その結果としての虐殺の黙認)に対して、世界各地で抗議活動が盛んになっていることなどが想起される。しかし『ひとつの祖国』では結局、暴動自体は小規模なものにとどまっており、人々の怒りのエネルギーは大した成果を生み出すことなく小火で終わってしまう。ここからは、日本の現状に対する醒めた視線が感じられる。そして、人間から怒りを取り除こうとする極論を否定する『ひとつの祖国』と、怒りの煽動が人々を愚行へと駆り立てる『私に似た人』は正反対の主張に落ちつくかに見えて実は表裏一体であり、もしかすると貫井にとって二冊一緒に読んでもらいたい作品なのかも知れない。物事には必ず表と裏がある――当たり前でありながらつい忘れがちな、そのことに目を向けさせるために。