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月収200万から借金300万のどん底生活へ…男がタクシードライバーになって救われた理由

 ノンフィクションライター・山田清機氏による『東京タクシードライバー』(朝日文庫・第13回新潮ドキュメント賞候補作)。山田氏がタクシードライバーに惹かれ、彼らを取材し描き出した人生模様は、決してハッピーエンドとは限らない。にもかかわらず、読むと少し勇気をもらえる、そんな作品となった。事実は小説より切なくて、少しだけあたたかい……。

■「流し」は「なか」に向かう

 中央、千代田、港の3区を、東京のタクシードライバーたちは「なか」と呼ぶ。「なか」は、必ずしも地理的な中心を意味するだけの言葉ではない。中央省庁、大企業の本社、一流ホテルなどが犇めき合い、日本一の繁華街・銀座を擁する「なか」は、東京を走るタクシーの営業の中心地であり、本丸なのである。

 タクシーの営業スタイルには、大きく分けて「流し」と「着け待ち」の2種類がある。

「流し」とは何かといえば、読んで字のごとく、街中を流しながら客を拾う営業スタイルだ。流しの場合、うまい具合に客に遭遇できるかどうか、偶然性に支配される部分が大きいが、その反面、ロング(長距離)の客に当たる確率も高い。道傍で手を挙げている客が後部座席に乗り込んできて、いきなり「鎌倉」とか「茅ヶ崎」、あるいは「柏」などと小さく叫ぶかもしれないのだ。現実は、「近場ですみませんが」と言われることが多いわけだが、ロングの客に当たれば「マンシュウ」も夢ではない。マンシュウとは、これまたタクシー業界の隠語で、一回の実車で営業収入が一万円を超えることを指す。

 流しが専門のドライバーのほとんどは、出庫をするとまっしぐらに「なか」を目指して突っ走る。営業所がたとえ東京の郊外にあっても、近場の駅などには目もくれず、ひたすら「なか」をめざす。なぜなら、「なか」にはタクシーチケットを握りしめたサラリーマンや、高級マンションに住まう富裕層といった上客が待っているからだ。

 しかし、「なか」を目指すことが人生に何をもたらすかは、ひと口に言えない面がある。

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■告白タクシー

 もう7年近く前の、師走の夕暮れ時のことである。

 日本交通の上野俊夫(仮名・56歳)は築地界隈を流していて、交差点近くにひと組の男女が立っているのを視界の端に捉えた。銀座の東京湾側に位置する築地は、ぎりぎり「なか」の一部分である。

 雪でも降り出しそうな鈍色の真冬の空の下、並んでタクシーを待っている年齢差のありそうな男女の姿は、恋人や夫婦というよりも、上司と部下といった風情である。上野が路肩に車を寄せてドアを開けると、案の定、年嵩らしい男性が若い女性にタクシーチケットを手渡しながら、こう言った。

「このタクシー、うちの会社のチケットが使えるから持って行きなさい」

 女性は素直にチケットを受け取ると後部シートにおさまって、東京の西部にある街の名前を告げた。

 東京の東の外れに位置する築地から帰ることを考えれば、たしかに近いとは言えない距離である。しかし長距離とも言えない、ぎりぎり中距離の範囲内だ。しかもまだ夕方である。雪になって電車が止まる心配でもしたのかもしれないが、上野は上司らしき男性の言葉から女性に対する“特別な配慮”を感じ取った。タクシードライバーは、乗り込んで来る客の属性と状況に、敏感なのである。

 バックミラーで確認すると、ポッチャリとした感じの小柄な美人である。若い頃の吉永小百合に少し似ている。車を発進してしばらくたつと、やはり雪が降り出してきた。

 女性客が口を開いた。

「あの、失礼ですけれど、運転手さんはおひとりですか」
「はい。いまは、ひとりですけど」

 上野は、30代で離職と離婚を同時に経験していた。

「私、いまどうしたらいいかわからなくなっていて……」

 上野はさっきの“上司”が原因であることを直感した。

「何か悩んでいらっしゃるのですか」
「さっき一緒に立っていた男性、会社の上司なんですけど、不倫関係がもう3年も続いているんです」
「……」

 唐突な告白に驚きながらも、上野はなぜかムラムラと腹が立ってくるのを感じた。

 上野がかつて勤めていた外資系企業は、社内不倫が非常に多い会社だった。過酷な実力主義のせいで多くの社員がストレスを抱えていたせいか、あるいは、ボスに気に入られなければ仕事ができない外資ならではカルチャーのせいか、男性上司とその直属の部下の女性という組み合わせの不倫カップルが、社内に何組も存在していた。

 そのうちの一組に、上野と同期の女性とその直属の上司という組み合わせがあった。聡明な女性だったが、上司との関係が長引くにつれて、彼女の言動は徐々におかしくなっていった。いったん帰宅したかと思うと、深夜になってから職場に引き返してきて、残業をしている上野の目の前で上司の机の中身を調べたり、引き出しの中のものを洗いざらい床にぶちまけたりするようになってしまったのである。

 ある晩、彼女があまりにも乱暴な振る舞いを見せるので、上野がたしなめた。

「◯◯さん、そんなことやめなよ」

 すると、

「うるせえなぁ」

 と低い男言葉で答えが返ってきた。彼女はすでに精神を病んでいたのである。

 そんな姿を上野は何度か目撃したが、その何度目かの夜の翌朝、出社すると彼女の机の上に花束が供えてあった。上野に狂乱の姿をさらした後、彼女は会社の屋上に上ってそこから身を翻してしまったのである。上司から別れ話しを切り出されたのが原因らしいという噂だった。

 その事件のことが、上野の頭にはあった。彼女が続ける。

「私は結婚していないので、上司は奥さんと別れて私と一緒になると言うんですが、そんなことを言いながらだらだらと関係が続いてしまって……」

 雪がだんだん激しくなってきた。車の窓がエアコンのせいで白く曇った。

「なんてことを……僕もう、仕事はどうでもいいですから、温かいコーヒーでも飲みながらじっくりとお話を伺いましょう」
「はあ」

 上野は無理やり路肩にタクシーを止めると、あっけにとられている女性を車内に残したまま、近くのコンビニまでコーヒーを買いに走った。上野には思いついたことを迷わずに、というか、あまり深く考えずに行動に移してしまう癖があった。外資系企業を辞めたのも、その直情径行な性格のせいだと言えなくもなかった。上野は九州出身だから、いかにも九州男児らしい振る舞いだと言えばそうとも言えるのだが、粗忽であるといえばそうとも言えそうである。

 車に戻った上野は、「俺はいったい何をやっているんだろう」と思いつつ、女性客に対する説教をやめることができなかった。

「いいですか、その上司は奥さんと別れるなんて言ってるようだけど、絶対に別れたりしませんよ。そんなもの、不倫を継続したい男の常套句です。そんな関係をいくら続けたって、最後に捨てられるのはあなたの方に決まってます」
「男はみんなそう言うっていうけれど、それって本当なんでしょうか」
「本当です。間違いない。そんなふしだらな関係、もう明日でやめにした方がいい」
「はあ」

 上野の剣幕に、女性はきょとんとしてしまった。

「でも……」
「どうしてもやめられないというのなら、どうしてもやめられないなら……この場で僕とつき合うことにしなさい」

 話が思いがけない方向に転がり始めた。

「えっ、いま何っておっしゃったんですか」
「僕でよければ、絶対にあなたの面倒を見てあげるから、だから……いまここで僕とつき合うと言いなさい。いや、僕とつき合え!」

 最後は思わず、命令口調になってしまった。普通の女性だったらここで車を降りてしまうところだろうが、彼女は少し変わっていた。

「あの、一週間ほどお返事を待っていただけますか」

 そして一週間後、上野が渡した名刺の電話番号に、彼女から本当に電話がかかってきた。

「私でよかったら、おつき合いしていただけますか」

 上野は天にも昇る気持ちだった。瓢箪から駒とは、まさにこのことである。彼女はこの一週間で、上司との関係にきっぱりとケリをつけたに違いない。

 彼女は、丸の内に本社を構える大手商社の系列企業に勤めるOLだった。父親はエネルギー関連企業の重役で、東京の西部の街に広大な屋敷を構えていた。母親が病気で早く亡くなっていたので、彼女はその広大な屋敷に父親とふたり切りで暮らしていた。年齢は30代の後半。上野より一回り以上も若い。いまどき珍しく奥ゆかしい雰囲気を持った、小柄な女性である。

 上野が言う。

「なぜだかわからないけれど、あの時は咄嗟に、僕とつき合えなんて言ってしまったんです。僕って男は、時々そういうことをやっちゃうんだな」

 上野は九州の出身で、東京の私立大学の卒業。父親はすでに亡くなっているが、国鉄の車両工場の工場長まで務めたエリートであり、彼女の肩書きや出自を聞いて引け目を感じなかったのは、この父親のおかげでもあった。

 あの雪の日からすでに、7年の歳月が流れた。

 上野と彼女は、いまだにほぼ毎週末デートを重ねている。好きな歌手のコンサートに出かけたり、酒を飲みに行ったりして楽しくつき合っている。

 ふたりの結びつきを堅固なものにしたのは、彼女の父親の突然の死だった。出会ってまだ1年も経たない頃だったが、あっけない事故死だった。上野は例によって、仕事を放り出して葬儀に駆けつけ、そして何くれとなく彼女の世話を焼いた。親戚が「あの男は誰だ?」と訝るほどの働きをしたが、そのなりふり構わなさが、最愛の父親を亡くした彼女の心を深く捉えることになった。

 そして上野はいま、彼女との関係をどうするべきか悩んでいる。

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■月収200万

 かつて上野が在籍していた外資系企業は、事務機器のレンタルで有名な企業である。

 ユニークな経営者に憧れて入社を希望する学生も多く、同期生の大半が“早慶以上”。東京の中堅どころの私立大学を卒業している上野にとっては、少々敷居の高い会社だった。

 配属された東京の北東部、いわゆる城東地区の下町にあるその支店の取引先には、中小企業や個人商店が多かった。まだ人情のかけらがいくらか残存している街の経営者や店主たちはみな、少々粗忽なところはあるが、人なつこい性格の上野をかわいがってくれた。

「デモンストレーションといって、機械の無料貸し出しから営業を始めるんです。なんとか一週間だけ置かせて下さいって僕がお願いすると、『絶対、契約はしないからな』なんて言いながら、不思議とみなさん置かせてくれるんですよ。僕は人柄がいいから、下町受けするんでしょうね」

 下町受けをしまくった結果、上野は入社した年の新人コンテストでいきなり全国第2位という成績をあげてしまった。全国の営業所に配属された約200人の新人営業マンの中の、第2位である。

 しかし、いまになって振り返ってみれば、本当に仕事ができたのは上野ではなかったのだ。

「僕のいたチームのリーダーはMさんといって、関西の大学でアメフトの選手をやっていた人でした。ライスボールに出たこともあるってよく言ってましたね。彼は、成績の悪い部下に対して、絶対に優しい言葉をかけない人だったなぁ」

 営業チームは、4~5人の営業マンによって編成されていた。チームのリーダーは、いかにも外資系らしく、年齢ではなく営業成績によって決められていた。M氏の下には上野の他にも数人の営業マンがいたが、上野以外は全員、M氏よりも年上であった。

「Mさんは年上の営業マンに向かって、『お前、なんで帰ってくるんだ。売れるまで帰ってくるな』とか、『どこへでも行って売り歩いてこい』なんて平気で言っていましたね」

 上野はそんなM氏の姿勢に、激しく違和感を覚えた。しかし、上野の成績を押し上げてくれているのがM氏であることも、紛れもない事実だったのである。

 上野は、たしかに人柄がいい。朗らかで、いかにも隙だらけな感じの好人物である。下町の経営者や店主が、そんな上野にほだされてデモンストレーションに応じてしまうのも頷ける話である。しかし、デモンストレーションが終了するときになって現れるM氏は、おそらく上野とは正反対のタイプだったのだろう。経営者や店主には1週間無料で使わせて貰ったという引け目があるから、強面のM氏に強引にねじ込まれると、しぶしぶでも「じゃあ、少しの間なら」と言わざるを得なかったのではないか。

 要するに、上野は営業のキッカケを作っていただけで、肝心のクロージングはすべてM氏が担当していたわけだ。新人コンテスト全国第2位という輝かしい成績も、実質的にはM氏が作ったようなものだと言っていいだろう。

 しかし会社は、そうは判断しなかった。そして当の上野も、そうは思っていなかった。

 上野は同期の中でピカイチの営業成績をひっさげて、下町の営業所からタクシー業界で言うところの「なか」の営業所に栄転することになる。千代田区内にあるその営業所は全国第1位の売り上げ高を誇り、霞ヶ関の官庁街を丸ごと抱えていた。そして上野は、某官庁の営業を一任されることになったのである。

 外資は年齢に関係なく、仕事のできる社員を厚遇する。上野の月給は、手取りで200万円を突破。社内でも美人の呼び声が高い女性と結婚をし、東京の郊外に派手な一戸建ても建てた。ふたりのかわいらしい女の子も生まれて、行くところ敵なしの勢いであった。酒は銀座か赤坂でしか飲まなくなり、一晩で数万円を使うこともザラになった。

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■すべてを失う

 上野のジレンマが始まったのは、「なか」に異動になってから間もなくのことだった。お役所相手の営業は、下町の営業とはまったく趣を異にしたのである。

 上野は下町では人気者だったものの、役所との契約にはどうも馴染めなかった。上司からいくら説明をされても、確実に役所と1年契約を更新する方法をうまく飲み込むことができなかった。

「なにしろ役所側の担当者も、面倒だからなるべく納入業者を変えたくないと言うわけですよ。しかし、他の業者の入札価格をリークしたりすれば、それは犯罪になってしまうでしょう。じゃあどうするかというと、上の人間同士がネゴってうまくやるらしいんです。でも、僕にはこの“うまくやる”ということがどうもよくわからなかったんだ」

 バブル崩壊以前の話である。納入業者はゴルフだの飲み会だのと接待攻勢を仕掛けて、役所の“上の人”と昵懇になる。すると“上の人”が他の業者の入札価格をそれとなく匂わせてくれるという。そこのところの機微が、上野にはどうも掴み切れなかった。

「あの、バニーちゃんのいる銀座のエスカイヤクラブなんて、上司と一緒に何度行ったかわかりませんよ。ちょっと接待を怠ると、お役人の方から『最近どうしちゃったの?』なんて言われてしまう。接待は本当に大変でした」

 接待に継ぐ接待の末、ようやく上司から「この単価で見積もりを書いて入札せよ」という指示が出た。競合他社の入札単価の情報を、役人からリークしてもらったのだろう。上野は上司の指示通りの単価で見積もり書を作成して入札に臨んだ。

ところが……。

「指示通りの単価を書いたのに、僕が担当していた官庁のレンタル台数がいきなり3分の2に減ってしまったんです。しかも、その原因をすべて僕のせいにされてしまったんです。上司がネゴってこの単価で行けと言ったのに、上司は『上野がきちんとネゴっていなかったせいだ』と社に報告したわけですよ」

 さらに上司は、上野に向かって信じられない命令を出した。

「契約更新できなかった50台分のレンタル料を、自分の給与から補填すること」

 直情径行が売りの九州男児である。上野は当然のごとく、切れた。

「ネゴに失敗したのは、お前だろう」

 殴りはしなかったが、職場で、大声で啖呵を切ってしまった。

 あまりの不条理に直面して、上野は自暴自棄になってしまった。そのなり方がまたしても直情径行というか、わかりやすいというか……。

「もう、怒りで頭が沸騰してしまってね。なにしろ月給が手取りで200万もあったから、金銭感覚が狂っていたんでしょうね。上司とぶつかったその日から丸1カ月、自宅に帰らずにカプセルホテルを泊まり歩いて、パチンコ、競馬、競輪、競艇とありとあらゆるギャンブルをやりました。そうしたら、あっという間に300万円の借金ができちゃった」

 上野のいた外資系企業には、10日間無断欠勤をすると懲戒解雇になるという規則があった。職場と自宅から失踪して2週間目、自宅に電話を入れると妻が出た。

「もう、存続は難しいわね」

 妻の声は冷たかった。存続とは、仕事の存続だけを意味するわけではなさそうだった。1カ月たって自宅に戻ってみると、すでに家財道具はすべてなかった。もちろんふたりの子供の姿もない。

 この日から、上野のどさ回りが始まることになる。

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■もう、この人とはいいや

 1カ月の放蕩生活でこしらえた300万円の借金は、ありがたいことに退職金が500万円ほど出たのですぐに返すことができた。住宅ローンが残っていたが、若干の蓄えもあった。妻子が出て行ってから約2年間、上野はバルコニーつきの一戸建てにたったひとりで陣取って、まったく仕事をせずに酒浸りの日々を送った。

 3年目。所持金が底をついてしまったので、自慢の自宅を売り払って、実家のある九州へ帰った。ちょうどバブルの最中だったので、家は購入したときよりも高い金額で売れた。その金はすべて別れた妻に渡してしまった。

「だって、僕が全部悪いんだから仕方ないでしょう」

 実家に戻っていた妻は、その金に貯金を足してマンションを購入し、子供たちとともに移り住んだ。一方の上野は、九州でしばらく職探しをしていたが、またしてもパチンコや小倉の競馬にはまってしまい、このままではダメになるからと、愛知県のトヨタ自動車に期間工として働きに出ることにした。

 仕事の中身は、トランスミッションの整備である。2年間真面目に働いて職長から信頼され、社員に推薦して貰えるまでになったが、年齢制限にひっかかって社員になることは叶わなかった。

 上野はいったん九州に戻ってから、再度、上京する決心を固めた。まだ存命中だった父親は東京行きを思いとどまらせようとしたが、九州には就職先が乏しかった。

 上京して、セコム、アラコム、アルソックと警備会社の面接を3社、立て続けに受けた。セコム以外の2社の面接を通過したが、東京に住民票を移していないことを理由に最終段階で落とされてしまった。

 上野はなんとこの間、別れた妻のマンションに居候しながら就職活動をしていた。考えてみれば、無職の中年男性が簡単に借りられる部屋などないのだ。

「どの会社を受けても、人柄は文句ないって言われるんですけどね」

 その点は、元妻も同じ認識だったのかもしれない。だから、一時的とはいえマンションに居候することを許したのだろう。

 警備会社をすべて落とされた後、上野はタクシー業界を考えた。上野の年齢では、もはや他に面接を受け付けてくれるところはなかった。

 そう思い詰めていたところへ、思いがけず、外資時代の先輩社員から連絡が入った。もしも職を探しているのだったら、P生命へ来ないかという誘いだった。P生命もやはり外資系企業であり、元の会社からかなりの人数の社員が流れていることは上野も薄々知っていた。年収2000万~3000万の社員がゴロゴロいるという噂だった。

 先輩社員が言った。

「上野、当座の支度金として1000万ぐらい用意できるか」
「そんな金ありませんよ。なんでそんな大金が必要なんですか」
「じゃあ、サラ金でも何でもいいから借金して作ってくれよ。最初の契約は、自腹を切って取るものなんだよ」

 先輩社員はP生命に転職する際、2000万円の借金をしたという。

「でもな、こんな借金あっという間に返せるんだ。なんせ、年収2000万円以上は固いんだから」

 多額の借金をして自社の保険を買い取らなくてはならないような世界は、考えただけで恐ろしかった。上野はP生命の話を断って、タクシー業界に飛び込む決心を固めた。

 タクシー会社は、なんとなく大手がいいだろうという理由で日本交通を受けた。面接をしてくれた人事担当者の対応が人情味に溢れていた。

「過去についてはとやかく言いません。これで奥さんと復縁できるといいですねと言ってくれたんです。まだ、30代ぐらいの若い人だったけれど、いい人だったなぁ」

 ところが、日本交通に入社することを元妻に告げると、彼女はがくりと肩を落としてしまったのである。もしもP生命に入社してくれるなら復縁を考えてもいいと思っていたが、タクシードライバーになるなら復縁するつもりはない。元妻は、そう上野に宣告した。理由は、「友だちに言いにくいから」だった。

「その言葉を聞いて、僕はもう、この人とはいいやと思いましたね」

 元妻のマンションを出てアパートを借り、いまはもうなくなってしまった常盤台営業所に勤務するようになって以降、上野は元妻ともふたりの子供とも一度も会っていない。

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■大切なことだから

 気になるのは、築地で乗せた例の女性客のことである。

 彼女とこれからどうするのか上野に問いただしてみると、直情径行が売りの上野らしくない、優柔不断な答えが返ってきた。

「70歳を過ぎた母親が九州にひとりでいるし、実は、長期入院している病気の妹もいるんですよ。おふくろは年金を貰えるようになったら帰って来いって言うし、お袋が逝った後は、僕が妹の面倒を見なければならなくなるし……。いろんなことが引っかかっているんですよね」

 乗務員仲間の意見は、九州に帰った方がいいという意見と、彼女と早く結婚した方がいいという意見が半々だという。

「うちの営業所の乗務員はみんな仲がよくて、いまは本当に楽しいですね。タクシー会社の営業所としては、日本でナンバーワンじゃないかな。ここには、人情があるんです」

 上野は、外資系企業のある同期生のことを話し始めた。慶應大学出身のその男は同期のトップを走っていたが、「使える奴は離さない。使えない奴はたとえ同期でも切って捨てる」と公言して憚らなかったという。

「彼はね、『俺は人格を捨てたんだ』といつも言っていました。外資ではそのくらいやらないと生き残れないんですよ」

 外資で生き残るには人格を捨てねばならず、タクシーの世界には人情があるというのは、いささか図式的な気がする。

「たしかにそうかもしれないけれど、たとえば六本木ヒルズから、若いビジネスマンを乗せたりすると、『ほら、早く車出せよ』なんて、乗務員をあからさまに蔑んだ口の利き方をする人がいるんです。IT系のベンチャー企業なのかな。昔の僕だったら一発ガツンとやったところだけど、いまはむしろ可哀想だなと思いますよ。彼が悪いわけじゃなくて、仕事が悪いんです。仕事が人格を変えさせるんです。強くなれ強くなれと言う人がいるけれど、人間は強くなんてなれない。強くなるんじゃなくて、人格を変えるんですよ。もしも最初の外資系企業の仕事が人格を変えさせるような仕事じゃなかったら、僕は会社を辞めることも、家族と別れることもなかったと思います」

 人格を変えることのできた人間が強い人間なのか、変えられなかった人間が弱い人間なのか、それはわからない。しかし、いまの上野が明るく、そして楽しそうに生きていることは間違いない。いや、楽しそうというよりも、気楽そうだと言うべきかもしれない。

「もう少しよく考えてから行動する面が僕にあれば、違う人生があったのかもしれませんよね。あのバルコニーつきの家で家族に囲まれて、いまごろBMWなんか乗っていたのかもしれない。でも、僕がいろんなことをやっちゃったおかげで、たくさんのドラマが生まれている。波瀾万丈だけど、これもひとつの生き方としてよかったのかなと思うんですよ。人生捨てたもんじゃないなって」

 例の彼女はこれからのことについて、「大切なことだから、九州のお母さんとよく相談して決めてほしい」と言うそうだ。なぜかそう言う度に寂しそうな顔をするのだと、上野は訝しがる。ひょっとすると彼女は、あの不倫相手の上司にも同じセリフを言ったのかもしれない。大切なことだから、奥さんとよく相談して決めてほしいと。

 上野に仕事のミスをなすりつけた上司は、あの出来事の後、地方の営業所をたらい回しにされて、行く先々でトラブルを起こしたという噂である。その先どうなったかは、上野も知らない。


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