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映画に格助詞「と」を持ちこんだ人/暗黒綺想家・後藤護氏による、町山智浩著『ブレードランナーの未来世紀』文庫版解説を特別公開

 町山智浩さんの『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』(朝日文庫)が2024年6月7日(金)に刊行されます。ジェームズ・キャメロン、テリー・ギリアム、リドリー・スコットなど、現代の名監督たちが80年代にハリウッドに背を向けて傑作カルト映画を作っていました。それらが真に意味するものとは何だったのでしょうか? 単行本刊行から18年、今もなお映画評論の金字塔とも言われる本書に、暗黒綺想家の後藤護さんがご執筆くださった解説を掲載します。

町山智浩著『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』(朝日文庫)

映画に格助詞「と」を持ちこんだ人
 ――スペシャリストにしてジェネラリストであること

『ブレードランナーの未来世紀』というタイトルとは裏腹にクローネンバーグの『ビデオドローム』論からはじまる、という構成が本書の妙ではあるまいか。つまりこの第一章で、『ビデオドローム』が依拠したとされるマーシャル・マクルーハンの思想が語られている箇所が私には重要に思えてならないのだ。本書で語られたその概要をおさらいすると以下のようになる。中世のヨーロッパ人や非文字文化のアフリカ部族などが属していた四方八方・縦横無尽な聴覚的ユートピアが、ルネサンスの活版印刷誕生で破壊され、線的/父権的な一方向への進行に縛られた「活字人間」を生み出し視覚偏重の文化を生み出す。しかし20世紀にはいってテレビに代表される電子メディアの発達が人類を活字から解放して再び「部族化」し、中世の聴覚的ユートピアが蘇って人々は世界村で一つになる、というメディア修辞学者マクルーハン先生のいくぶん楽天的な大風呂敷(?)である。じつに魅力的なこの大風呂敷に依拠して、『ビデオドローム』は中世(オブリビオン博士) vs.ルネサンス(コンヴェックス一派)の構図をとっている、という町山が発掘した驚愕事実に読者はまずドギモを抜かれるのではないか。

 なぜこの箇所に注目したかと言えば、1988年生まれの私にとって町山智浩はマクルーハン言う所の「人間拡張の原理」の体現者、電脳空間の語り部として颯爽と現れたからであり、つまり本書の『ビデオドローム』論のマクルーハンに関する記述が、活字文化圏を越えてのちに電子メディア上のスターとさえなる町山智浩の映画語りのスタイルを予示していた面があると思ったからだ。『21世紀の淀川長治』(キネマ旬報社)で「僕にとって淀川さんは文章よりもテレビやラジオの語りでした」と町山が言うのと同じ意味で、テレビやラジオなどの映像音声メディアを通じて私は町山智浩の映画語りを浴びた。町山の活字に出会うよりも先なのである。町山との初対面はそれこそハイパーメディアクリエイター(?)宇川直宏の主宰するDOMMUNEでのジョーダン・ピール『NOPE/ノープ』音声解説番組へのゲスト参加であり、(海外住まいだから当たり前だが)そこでも町山はスクリーンの向こう側にいた。生身の町山と接したことのない私にとって、いまだオブリビオン博士のように(⁉)電脳空間の人という印象をもっている。

 電子メディアを通じた話し言葉の達人、といった印象がより正確か。よき語り部であるには生身の記憶力が重要になる。そうでなければ人の心を打つ語りなど、どうしてできようか。外部記憶に頼らないで個人の映画的記憶の総量を競い合ったら、おそらく町山がチャンピオンだろう。私が映画ライターの滝本誠にインタヴューしたさいの言葉が重要である。「町山さんの映画の知識は自分の千倍はあります。彼がアメリカに行く前、共通の友人の結婚式での映画クイズで彼は百発百中、こちらは一問もわからず、敵わないなと……以来、嫉んでます(笑)」(『ヱクリヲ8号』滝本誠インタヴューより)。これに加えて、町山は過去作の映画的記憶をたぐり寄せる際に、往々にして「場所」とセットで語る。本書で言えば「1984年頃、大学生だった筆者は東京・早稲田通りにあった中古テレビ屋の片隅で『ビデオドローム』と出合った」であり、研究書寄りの本書ではそうしたノスタルジックなトーンは抑え気味だが、先述したDOMMUNEの音声解説番組などでは「どこで見たか」を同世代ゲストと嬉々として語り合う様子が聴ける。この「場所」と「映画的記憶」の関係に関しては、拙文「ミニシアターの両宇宙誌」が解き明かしているので(小難しくて恐縮ながら)引用させていただく。

なぜ人は自宅鑑賞より劇場鑑賞した方がより饒舌に語り、記憶に定着するかというと、これはあるイメージを場所に対応させていく記憶術という、ヨーロッパ古典古代から続く修辞学的伝統を知らず知らずに踏襲しているからである。建築の柱をスピーチの内容に紐づけ、その柱を目で追っていくと自然と雄弁術が可能となるシモニデス理論のごとく、現代観客は劇場までの道中、売店で売っていたもの、座席の位置などをスクリーンに投影される映画内容と対応させることで流暢に語るのだ。「あの映画」というイメージは「これこれの場所で見た」という枕詞が付くことで強烈に記憶に刻まれる。場所記憶術と宗教的瞑想術の類似を指摘したのはマーシャル・マクルーハンであった。聖イグナティウス曰く、神の「イメージ」は神が現れる「場所」に対応するようにして、観想力を高めねばならない。この「神」を「映画」と言い換えてしまえば、映画観客は記憶術の徒にして瞑想家と知れよう。(『キネマ旬報』2020年6月下旬号)

 配信サービスで映画を見ることが当たり前になってしまった世代が弱いのがリアルな「場所」と「記憶」の結びつきなのである。本書の『ブレードランナー』論にある「メディアからの情報が朝から晩まで頭の中に入り続け、記憶のほとんどはメディアからインプットされたデータで、自分だけの生身の体験はどんどん小さくなる」という一節は、映画評であると同時に、映画体験に伴う身体性が欠落した記憶喪失の語り手ばかりが増加する時代に突き刺さるイロニーの矢でもある。

 ところで本書には隠れた副読本が存在する、と密かに思っている。町山が編集した『宝島』1988年6月号のサイバーパンク特集号である。「漫画家」泉谷しげるの強烈なイラストレーションに彩られたサイバーパンク宣言にはじまり、計10ページにわたってこのSF運動を取り上げているのだが、『ロボコップ』や『ビデオドローム』など本書でも1章を割かれた映画が多く言及されている。ここで当たり前のことながら再確認する必要があるのは、町山が雑誌編集者だったという事実である。私見では雑誌編集者に求められる素質は幅広く物事を知っているジェネラリストであることだ。『悪魔のいる漫画史』という本を刊行した際、町山からインタヴューを受けた私は、天邪鬼ゆえ逆インタヴューのようにして町山の読書遍歴など尋ねたのだが、高校生の段階でサド、マンディアルグ、ミシュレ、ボルヘスまで万巻の書物を繙いていたことに素朴に驚いてしまった(「町山智浩の映画特電」)。

 そんなジェネラリスト町山は、『〈映画の見方〉がわかる本 「二〇〇一年宇宙の旅」から「未知との遭遇」まで』で映画批評のスペシャリストに転身し、その名を高めた。続編と言える『ブレードランナーの未来世紀』でも監督本人の言葉を中心に実証ベースで一つ一つ謎を解いていく、映画のスペシャリスト然とした仕事になっている……ように見える。しかしよく見て欲しい。(この文庫からは図版がカットされているが)新潮文庫版では映画と絵画を並べた比較考察が随所にみられる。このアプローチに関しては町山自身が滝本誠との対談で以下のように語っている。

 今回文庫化した『ブレードランナーの未来世紀』のなかでも、映画を読み解くヒントとして絵画について触れています。たとえば、デヴィッド・リンチとフランシス・ベーコンだとか、ポール・ヴァーホーヴェンとヒエロニムス・ボッシュだとか。『ブレードランナー』でもヤン・ファン・エイクの絵画が使われていましたしね。リドリー・スコットは王立芸術学院出身だし、映画監督ってアートに通じている人が多いから、絵画について知らないと、映画をきちんと解釈できない。そういう映画の見方を、僕は滝本さんに教わったんです。(『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』文庫化記念対談、WEBマガジン「考える人」2018年1月16日掲載)

 のちに町山は『映画と本の意外な関係!』という書物を上梓しているが、この「映画と◯◯」にある並列・比較の格助詞「と」が大切なのである。町山の映画論は「と」を通じて外部へと開かれている。「映画と」に続く「◯◯」に入るのは政治かもしれないし、文学かもしれないし、音楽かもしれない。とにかく格助詞「と」が入ることで、「映画はスクリーンに映るものだけを見ていればよい」という蓮實重彥の名高い表層批評やら動体視力やらに目つぶしをすることになる。「と」が付くことでスペシャリストであるだけでは怠慢ということになり、常にジェネラリストとして他領域を意識しなければならなくなる。私が町山智浩を博識と呼ぶに吝かでないのは、この「と」があるからである。

 町山が蓮實に対して「父殺し」を働いたことはよく知られている。そして象徴的な祖父である淀川と直結した。1909年生まれの淀川長治、1936年生まれの蓮實重彥、1962年生まれの町山智浩は、年齢的にも上手いこと祖父~父~子に対応している。ここで私の大好きな言葉を引用しよう。

 郷愁は……老人、父、息子という三世代の継続の劇すなわちホームドラマではなく、老人と未成年の直結であり、思想の隔世遺伝が行なわれるのであって、これを力学的に言えば、老人が過激になれば未成年がひきつぐというヤバい方式がノスタルジー路線なのである。(平岡正明「郷愁のマキャベリズム」、『アングラ機関説』(マガジン・ファイブ)所収)

 先述した『悪魔のいる漫画史』インタヴューで、澁澤龍彥や種村季弘のような自分にとって祖父世代にあたる名前をやたら出す私に対して、町山は「なんでそんな古いの知ってるの(笑)」と尋ねた。それはですね町山さん、おじいちゃんの淀長さんと直結した町山さんと同じ孫世代のラディカリズムなんですよ、と最後だけ「さん」付けで答えてみる。