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北村薫さんによる感動の傑作長編『ひとがた流し』が文庫新装版に!『日日是好日』の森下典子さんによる文庫解説を特別公開

〈あなたがどこかで生きているということがずっと私の支えだった――。〉
アナウンサーとして活躍する千波、受験を控えた娘を持つ牧子、あらたなパートナーと新しい生活を歩んできた美々。三人は進む道を違えながらも、人生の大きな危機に直面したときに手を差し伸べ支えあい、四十代になった。

北村薫『ひとがた流し』(朝日文庫)

 友人同士だからこその交わりを描き、生きることの核に迫った感動の傑作長編、北村薫さんの『ひとがた流し』が、おーなり由子さんの絵をふんだんに収録した文庫新装版として2022年9月7日(水)に発売されました。
 発売を記念して、『日日是好日』の森下典子さんによる文庫解説「二度とない永遠」を特別に公開いたします。〈還暦を過ぎ、親を見送り、大切な人を失えば、自分もまた限りある命であることを意識しないわけにいかなくなる〉――。そうした年代になったという森下さんが、いまだからこそ感じた『ひとがた流し』の魅力について存分に解説してくださいました。

二度とない永遠

 なんと精緻な、そして壮大な物語なのだろう……。
『ひとがた流し』は、私が初めて読んだ北村薫さんの小説である。
 ストーリーは所々で枝分かれし、さまざまな登場人物の人生を物語り、それぞれの日常の小さな出来事や思いを丁寧に紡いで行く。本流から分かれた川にも、それぞれに起伏があり、やがてそれら全体が大きな流れにたどり着く。
 ふと、クリムトの「生命の樹」という絵を思い出した。太い幹から枝分かれする、たくさんの渦巻き……。
 もう一度読み返してみた。すると、細部には記憶の断片、さりげない会話のやりとりがモザイクのように組み合わされ、「この世の謎」が連綿と張りめぐらされているように見える。そして、全体を眺めると、悠久の星空のように、撒かれた無数の星々が、星座の群像をなしていた。
 アナウンサーとして仕事に生きてきた独身の「千波」。離婚し一人で娘を育てた作家の「牧子」。離婚して写真家と再婚し、前夫との娘を育てる「美々」。彼女たちは、少女時代から同じ時を過ごし、人生の様々な出来事を乗り越え、時に支え合いながら四十代になった。その三者三様の人生を歩んできた彼女たちに、思いがけぬ別れがやってくる……。

この世の一回性

「一握りの同じ砂を撒いても、その度に違った形が出来るように、子は親とは別のものだ。(略)それぞれが、それぞれの足取りで歩いて行く」
 私はこの「一握りの砂」という比喩が好きだ……。
 そういえば、この小説は、牧子と幼い頃のさきちゃんを主人公にした『月の砂漠をさばさばと』から生まれたと聞いた。『月の砂漠……』という枝から、『ひとがた流し』という大木が育ったのだ。その『月の砂漠……』の中にも、似た表現がある。
「《でも、聞きまちがいって面白い》と、さきちゃんは思いました。普通では考えられない世界をちらりとのぞくような、不思議な感じになります。めちゃくちゃに絵具を振りまいて、そこにできた、奇妙な模様を見るようです」
 私たちは、何気ない日々を、当たり前のように生きている。けれど、思えばこの世は、撒いた砂のように、二度と同じ形になりえない一回性の連続なのだ。それとは知らず、人は奇跡のような一瞬の連続の上を、平然と渡り歩き、「平凡な人生だ」などと言って日々を送る。
 そんな日常の景色の中に、時おり、何かのサインのように、不思議な景色がよぎる。たとえば、美々の娘、玲が、渋滞した高速道路上で、つかず離れず並走するトラックの車体に見た「カナシイ」という不思議な文字。(「イシナカ工務店」という社名の文字が、車の進行方向から配列されていたのだ)。そして、千波が勤めるテレビ局の室長室に掛けられた「荒海と松の絵」。
 誰にも経験があるはずだ。日常の中に、人生の暗喩のようなできごとが、偶然のふりをしてヒョイと姿を見せる。
 言いまちがいや聞きまちがいにも、幼い頃のさきちゃんが感じたように、普通では考えられない不思議な世界がちらりと見えたりする。
 そういう日常の中の、不思議な非日常を、北村さんは実に自然に、リアルにちりばめて見せてくれる。

「欠けている」もの

「愛用のものが取り残される――というイメージが、いかにも、人が去るという感じを与えた」
 という文章のように、この小説には「欠ける」「いなくなる」「去る」という不在の暗示がたびたび登場する。たとえば、大学に入学して娘が家を出た後、牧子が娘の自転車を見て、「この街に、あの子はいない」と思う場面。
 そして、病院で健康診断の結果を待つ間のこんな一文。
「千波は、ギンジローの老後を考えていたのだ。そして、あるいは彼を看取らねばならぬ日のことを」
 この小説は、読む人の年代によって、まるで違う物語に読めるのかもしれない。もし私が二十代だったら、独身で仕事に生きる千波に感情移入し、彼女の恋にときめいたかもしれない。あるいは四十代だったら、女たちの毅然とした生き方に共感しながら読んだかもしれない。
 けれど、還暦を過ぎ、親を見送り、大切な人を失えば、自分もまた限りある命であることを意識しないわけにいかなくなる。そういう年代になった私は、娘の自転車であれ、猫のギンジローであれ、随所に現れる「何かが欠ける」暗示に胸を突かれる。
 この三人の女性たちのように、家族があろうがなかろうが、どんな形の生き方であれ、結局、みんな最後は一人なのだ。人生の一時期、人と集い、共に過ごすとしても、限りある時間……。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」という訳詩が脳裏をよぎる。

 では、いかに誠実に、どう一生懸命に生きたとしても、人は過去の彼方に去って、虚しく消えてしまうだけなのだろうか?
『1950年のバックトス』という本の中に、『ひとがた流し』のその後の牧子を描いた「ほたてステーキと鰻」という作品がある。その中に北村さんはこう書いている。
「人生というのは、様々な可能性がつぶされていく過程に外ならない。その当たり前のことを、どう受け止めていくかが、人としての値打ちだろう。
 ただ、それは、言葉に出来ても実行の難しいことどもが作る、登りにくい山の、さらに頂きにある」
「台所でさばの味噌煮を食べる時、ふっと、わたしのこと思い出してくれるかも知れない。その時、わたしが、短い間でも、そこに蘇るんだ」
 このセリフのように、『ひとがた流し』には、「思い出すたび蘇る」という言葉が何度か登場する。
 人生とは、日常の些細な思い出の積み重ねだ。そういう記憶のかけらを共有しながら生きた人たちがいて、ふと思い出す時、人はそこに一瞬、蘇る。
 これは、去っていく人にとっても、見送る側にとっても救いである……。そして、親しい人を失った者としての実感でもある。思い出すことによって、人は一緒に生きていくことができるのだ。
 この小説の最後に、どんぐりがコツンと音をたてて、人影のない路上に落ちる場面がある。
「『――誰かが、ぽんと投げたみたいだったね』
 それが言葉になった時、《誰か》とは、この間まで近くにいた人のことになった。(略)
『思い出すたびに、トムさんが帰って来るよ』」

「名のない子供」

 ところで、タイトルになった「ひとがた流し」という行事は、物語の終盤近くになって、千波が語る母親との思い出の中に一度だけ登場する。願い事を書いた、白い小さな、人間の形をした紙が、透き通った水に落ちて、うねる水の上をどこまでも流れていく光景は、どこか物悲しく、美しく、印象的だ。
 そして、物語の最後近く、千波は自分が見た夢のことを語る。
「川の土手を、あなたと三人で歩いていた。小さな子供が一緒にいた。(略)わたしたちの子だった。声をあげて笑う、元気な子だった。――夢の中では、その子に素敵な名前があって、何度も呼んだんだけど、今は、どうしてなのか、思い出せない。川の波が、きらきら光って、とっても綺麗だった」
 私には、この夢に登場する川の土手と、名前を思い出せない夢の中の小さな子供が、「ひとがた」のイメージに重なって思える。
 いなかった子供。果たせなかった千波の夢。この場面の美しさは、切なくやるせない。
 夢半ばで潰えることはある。……だとしても、人生の一つ一つが、天が一握りの砂を撒いてできた、二度とない奇跡なのだ。
 かけがえのない友との別れの物語であるにもかかわらず、読み終えた私は、哀しさと同じくらい、彼方へと続く明るみに染まっている。
「永遠」という言葉を、人は時の長さのことだと考える。けれど、もしかすると「永遠」とは、二度とないという切実さの輝きなのかもしれない。
 小さなきらめく思い出を積み重ねながら、私たちは日々、二度とない永遠を生きている。

(森下典子/エッセイスト)


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