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幸せと笑顔を届ける赤ちゃんパンダ「トントン」の誕生

 今回の主役はトントン(童童)です。日本生まれの赤ちゃんパンダで、はじめて順調に成長してくれたこともあり、大変な人気を集めました。

生後6カ月を過ぎたころのトントン(1986年12月15日、撮影=朝日新聞社)

 トントンは、1986年6月1日にオスのフェイフェイとメスのホァンホァンの間から人工授精で生まれました。ホァンホァンは前年の85年にも出産しましたが、赤ちゃんはわずか43時間ほどで圧死してしまいます。

 そのようなこともあって、待望の2世誕生とその成長には世の中から大変な注目が集まったようです。朝日新聞の記事の本数からもその熱量がうかがえます。誕生から2週間ほどはほぼ毎日、朝刊と夕刊で赤ちゃんの様子を詳しく紹介する力の入れようでした。

 なかでも1986年6月2日付の朝刊では出産の瞬間を詳報。「6時53分。右半身を下にして横になっているホァンホァンの陰から、マイクを通してかん高い産声が響きわたった。『ギャー、ギャー、ギャー』と甲高く、3回。4秒後。ホァンホァンがすっと起き上がった。約30秒後、あぐらをかくように座る『パンダ座り』に。落ち着いた様子だ」と、母子ともに順調な出産だったことを伝えています。

 同記事によれば、前年1985年の出産では寝台付きの産室を使っていたのですが、その結果、「ホァンホァンが寝台の下に潜り込んで無理な育児姿勢をとり、赤ちゃんを圧死させてしまった。この反省から、今年は寝台のない隣の産室を選んだ」そうです。当時の浅倉繁春園長の「生まれることより育つことが大変な動物」(1986年6月7日付)という言葉にも表れているように、今度こそは無事に育ってくれることを多くの人が祈るように見守っていたのだろうと想像されます。

トントンの母親、ホァンホァン。写真は来日後はじめて一般公開された日のもの(1980年2月6日、撮影=朝日新聞社)

 人々の祈りが通じたのでしょう。その後も赤ちゃんはすくすく育っていき、1986年12月には「トントン」と命名されます。名前の公募数では、上野動物園の当時の新記録となる27万件に達したそうです。

 カンカン&ランランの来園以来のパンダブームに。トントンは12月の半ばには一般公開されましたが、事前に浅倉園長が「『公開とは、展示室のシャッターを開けるということで、現時点では、開園時間内にトントンが展示室に姿を現す可能性はほとんどない、と考えてほしい』と、過熱気味のパンダブームに注意を与える異例の談話を発表した」ほどでした(1986年12月12日夕刊付)。いつの時代もパンダの赤ちゃんは、たくさんの人々を魅了してやまないようです。

報道関係者や招待客200人以上にお披露目された際のトントン(1986年12月15日、撮影=朝日新聞社)

 元気いっぱいのトントンの様子を伝える記事は、読んでいてどれも楽しいのですが、とくにお気に入りが『パンダが日本にやってきた!』の30ページに掲載しました木登りにまつわるエピソードです。

 1987年2月3日の朝、大雪が残っていた放飼場でトントンはうれしそうに走り回っていたそうです。そして木登りが大好きなトントンは大冒険に出ます。

 これまで、高さ1メートルぐらいまでしか登ったことがなかったのに、あれよあれよという間に、放飼場で1番高いカシの木の3メートルの高さにまで登ってしまった。
 だが、悲しいことに初体験。下りるノウハウまでは身につけていなかったため、木のてっぺんで立ち往生。3人の職員に、文字通り、手とり足とりで下ろしてもらった。でも、“苦労”はすぐに忘れて、もういっぺん登りたい、といったそぶり。

1987年2月4日付、朝日新聞朝刊

 木の上で心細そうに(?)、飼育員のみなさんが到着するのを待っているトントンのほほえましい姿が写真に収められています。

放し飼い場で散歩を楽しむトントン(1986年11月30日、撮影=朝日新聞社)

 そんな元気いっぱいのトントンの育児を担当した“パンダ飼育班”の中里竜二さんのインタビュー記事が1986年12月28日朝刊に紹介されていました。中里さんの言葉がとても印象的だったので、最後にご紹介します。

「ホァンホァンをほめてやって下さいよ。彼女は素晴らしい母親です。失敗した子育ての経験を、動物なりに今回、ちゃんと生かしている。私たちは結局、彼女に任せるほかなかったのですから」

 誰に訓練されるわけでなくとも、種を残していくためにどうすればよいのかを生き物はちゃんと身につけているのだと改めて気づかされました。