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日本をダメにした楽で無自覚な「思考停止状態」。そこから脱するために、今、日本企業が最も必要としている力とは

「どの部署で仕事をするか、勤務地をどこにするか」は、場合によっては自分の人生を決定づけてしまうような重大事項です。しかし日本では、それらが自分の意向とは無関係に他の人の判断で決まることが当たり前のように行われてきました。そのような思考停止した日本企業の経営姿勢にこそ、日本低迷の原因が潜んでいると、『日本的「勤勉」のワナ』の著者で、約30年にわたって日本企業の変革の現場に身を置いてきた柴田昌治さんは言います。その真意を本書から一部を抜粋・加筆して解説します。
(タイトル写真:metamorworks/iStock)

柴田昌治『『日本的「勤勉」のワナ』(朝日新書)』

■予定調和や前例踏襲が生む「枠内思考」

 多くの日本の会社が安定優先の経営姿勢を長年続けてきたことが、安定重視の社会規範を私たちの意識の中に蔓延させています。その結果、「予定調和」であるとか「前例踏襲」といった思考姿勢が多くの伝統ある会社では当たり前の規範となっているのが現状です。

 では具体的に、「予定調和」や「前例踏襲」で組織が運営されると、どういう状況で思考停止は生まれてしまうのでしょうか。

「予定調和」というのは、そもそも最初から確定している結論に向かって、そこから逆算した道筋をただ辿っていく仕事の進め方です。そこにいる人間は無意識のうちに予定された結果を念頭に置き、つまり、予定された結果を前提に業務を処理します。

 そのような状態を、私は「結論が『動かせない前提』という枠となっている」と表現しています。この場合、業務は枠の範囲(頭の中にある想定)で処理すれば済むので、自分の頭でものごとの本質を深く考え抜くといった必要は基本的にありません。

「前例踏襲」も同じです。前例という過去の経験を枠として、それをなぞってことを進めればいいのですから、そこでも新しい発想や頭を使って考えることは必要ないのです。

 不動の前提を枠とし、その枠の範囲で業務を処理するのは効率的で、気持ちの上でも、頭を使わないという意味でも、楽なのです。この楽で効率的な思考を「枠内思考」と呼んでいます。

■多くの日本の会社が抱える本質的で致命的な問題点

 意識して努力をしない限り、楽なほうを選んでしまうのが人間という生き物です。気がつけば、非常に多くの無自覚な「規範」が枠となっているのが現実です。

 無自覚な「規範」というのを具体的にあげてみると、先ほどから出てきている予定調和の考え方、前例、上司の意向、お客様の意向、社内の作法、法規、予算、部門の壁などいくらでもあります。

 無理をして面倒なことを考えるより、それで済むなら何も考えずに動くことを選択してしまいやすいのが、私たち人間です。上司やまわりの空気から、考えないことを望まれていると感じるなら、なおさらそうしてしまう人が多くなるのは当然だということです。

 この楽で無自覚な枠内思考という思考停止状態は、平成以降、多くの日本の会社がいつの間にかなじんでしまった本質的で致命的な問題点です。

 つまり、変化をめざすことが不可避である状況になっているにもかかわらず、無自覚の中にこうした多くの規範が枠をつくり上げ、思考停止を呼び起こしてしまっているのです。こういう状況に気づけば、思考停止を排除できなくなっている事態がありとあらゆるところで起きている、ということがわかります。

 そして、これこそが日本低迷の発生源と言ってもよいのです。

■無自覚な思考停止を放置してはいけない

 日本、そして、日本の会社の将来にとって問題なのは、結局のところ、思考停止という現象がまさに日常茶飯な現象となってしまっている、ということに集約されます。

 規律や作法や思惑が枠となって社員の思考を縛り、制限された行動が強く出る環境の中で、考える力は育つはずがないのです。

 枠内思考という思考停止は、身近で無自覚に根深く存在しているからこそ、最も大きなダメージを与えている、ということでもあるのです。

 日本人が持つこの無自覚な思考停止という性向を放置したままだと、経営の中枢(本社部門など)も今まで通りの発想で「混乱回避」を上位に置いた仕事を続けることでしょう。そのようなことでは、前例踏襲で動き続ける組織が減るわけがないのです。

 これを変えようと思うなら、経営陣一人ひとりが本当に本気でチームとなり、組織風土改革も織り込んだ方針の大転換をすることが必須です。今のままだと、どうしても深く掘り下げる思考が働かないままになってしまう、ということです。

■日本人が持つ、人間関係における強靭な強み

 そのような問題意識もあり、私はこれまで、企業改革のサポートを自らの社会的な使命と定め、取り組んできました。

 企業改革の推進力を強化するためには、改革をしたいという思いを持つ企業人同士の連携を高めることがどうしても必要になります。

 そして、連携を高めるためには、互いの心理的な安心感をつくり上げるステップを重視しなくてはなりません。

 日本の場合、この心理的安心感をつくり上げるのは他の先進国と比べると、実のところそれほど難しくはないのです。

 というのも、一定の環境さえ用意すれば、お互いに自分に似た「何か」を共有しようする感覚を多くの人が持っている、という人間関係における強靭な強みが日本人にはあるからです。この感覚を私は「日本人が持つ共感力」と名付けています。

 先輩後輩意識や互いが持つ甘えの関係がプラスに働くシチュエーションや環境を用意するのは、やり方さえ間違わなければ、それほど難しくはないのです。

■日本人の生き方に潜む大きな問題

 企業改革の最初のステップでは、「ジブンガタリ」という、一人ひとりが自分のことを自らの言葉でじっくりと語る時間を大切にしています。単なる経歴ではなく、自分が経てきた人生の中で感じたことや考えたことなど、自身の生きざまを互いに語り合ってもらうのです。

 この時間での唯一の譲ることのできないルールは、互いに相手の話に耳を傾けて、その人が本当に言いたいことをじっくりと聴く、ということだけです。

 こうした時間を、話しやすい雰囲気を醸成してから持つことができれば、参加者はかなりオープンに自分のことを話します。

 そんな機会を非常に多く体験してきた私ですが、実は、たくさんの人のこうした話を聴く中で、日本人の生き方には非常に大きな問題が潜んでいる、と感じていることがあるのです。

 それは、企業人の多く、特に中枢に位置する人ほど、自分の人生の中で非常に重要な意味を持つはずの自身の人生の転機を、自分の意志とはまったく関係なく、会社の意志、もしくはそのときの人事を担当した他人の意志で決めていることです。

 日本の人事や採用の仕組みがそうなっているので、これは日本企業としてはごく当たり前のことです。ですから、多くの人は特に意識していないのですが、よく考えてみると人生の在り方にとっては非常に重要な意味を持っているのです。

「どの部署で仕事をするか、勤務地をどこにするか」は、場合によっては自分の人生を決定づけてしまうような重大な事項であるにもかかわらず、自分の意向とは無関係に他の人の判断で決まるのが、日本という国の基本的な仕組みだということです。

 日本企業が成り立っている人事の仕組みそのものがそうなっているのだから、一人ひとりにとっては仕方がないことではあるのです。

 ただし、企業では当たり前のこととはいえ、日本のサラリーマン人生はそういうことの連続なのだ、ということの持つ潜在的な意味の大きさを思わずにはいられません。

 これは日本ではごく普通のことですから、会社勤めをしている人の多くがそうやっているわけで、取り立てて問題がそこにあるとは思っていません。問題自体は薄々感じてはいても、仕方のないこと、受け入れざるをえないことだと思っているわけです。

■順調な会社員人生を送ってきた人に欠けている経験

 確かに、受け入れざるをえないというのが現実でしょう。そこに問題があるというのなら、日本での会社人生はそもそも成り立たないからです。

 しかし、私がこうしたことにあらためて問題を感じるようになったのは、そこに生じている「違い」に非常に大きな意味があることがわかってきたからです。

 その「違い」とは何か、といえば、自分の人生を会社の意志で決めてきた人と、自分の意志で決めてきた人の、思考の在り方の「違い」です。

 多くの人の「ジブンガタリ」を聴いていると、少数ではあるのですが、自分の意志で自分の人生をつくり上げてきた、という人にも出会います。

 それはどういう人なのかといえば、一つは自分の意志でリスクの伴う転職を決行してきた人です。自分の人生をリスクの伴う自らの決断で決めてきた、という経験は、順調に過ごしているサラリーマンでは味わうことのない経験です。

 それが上手くいったかどうか、本人が自覚しているかどうかは別にして、非常に重要な痕跡をその人の思考姿勢の中に残していることが見えてくるのです。

 つまり、普通の会社員なら、多くの場合には向き合う機会のない、「働くとはそもそも自分の人生にとって何を意味することなのだろう」とか、「この会社で働くことが自分の人生にもたらす意味は何だろう」とか、簡単には答えの出ない問いと向き合わざるをえない経験をいつの間にかしている可能性がある、ということです。

■今、日本企業が最も必要としている力

 転職のような「人生の荒波にもまれる経験」はそのほかにもいろいろあります。もう一つの例でいうと、海外の子会社などで、重要な意思決定を自分の責任でせざるをえないような立場を経験してきた人もそうです。

 会社にもよりますが、日本にいるときとは違い、言葉も人種も商習慣も異なる厳しい環境の中で、本社からの余計な干渉が少ない代わりに、サポートもあまり期待できない状態を経験している、ということです。

 この人たちも、自分の意志で転職を決断してきた人と同じように、過去の経験から答えを簡単には導き出すことのできない、正解のない「問い」と向き合わざるをえない経験を知らず知らずのうちにしてきているのです。

 さらに付け加えれば、がんなどの重い病気や大けがで何カ月もの入院を余儀なくされてきた人、もしくは会社人生で降格、左遷といった大きな挫折を味わったことがある人なども、そうです。

 これらの人たちに共通するのは、順調な人生なら特に見直す必要もないような「問い」──つまり、自分の人生とはそもそも何だったのか、何のために人は生きているのか、働くとはそもそも何なのだろうか、といった本質的な「問い」──と向き合う時間を持ってきた、もしくは、持たざるをえなかった、ということです。

 こうした「問い」は、私たち日本人にとってあまり慣れてはいない、決まった一つの正解が用意されているわけではない「問い」です。

 しかも、考えることなしには、思考力なしには向き合うことができない「問い」でもあるのです。

 つまり、これらの人たちは、本人が意識しているかどうかは別にして、今、日本企業が最も必要としている「考える力」を駆使せざるをえないような経験をしてきたということです。私が言う「違い」の持つ意味とは、まさにこのことです。

■考える力を身につけるために欠かせないステップ

 このことからわかるのは、考える力を身につけるためには、正解が用意されていない「問い」と本気で向き合うというステップがどうしても必要とされるということなのです。

 ただ、残念なことに優秀であったはずの企業人の多くは、こうした経験をまったくしないままに会社人生を送っていることに何の疑問も持っていないのが現実です。

 それというのも、特に「考える」という力を持っていなくとも、「どうやるか」さえ考えていれば、従来通りの日常業務なら回していくことはどうにかこうにか可能であるため、自分が思考停止に陥っていることに気づきにくいからです。

「どうやるか」だけでさばくような思考姿勢であっても、予定調和や前例踏襲での対応を求められるだけであれば、特に問題は出てこないのです。

 この「どうやるか」だけでさばく思考姿勢こそが、私が問題にしている無自覚の「枠内思考」というものです。

 つまり、何らかのルールや約束事、または前例などを制約条件として、それを枠と捉えることで、枠を前提として枠の範囲で「どうやるか」だけを選択肢の中から選ぶ、という思考の仕方に無自覚になっている、ということです。