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「あれ、これ、私のことじゃね?」ラッパー・TaiTanさんが武田砂鉄さんの真の凄みと恐ろしさをつづる!/『わかりやすさの罪』解説公開!

 武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』(朝日文庫)が刊行されました。“わかりやすさ"の妄信、あるいは猛進は、社会にどのような影響を及ぼしているのでしょうか。「すぐにわかる! 」に頼り続けるメディア、ノウハウを一瞬で伝えたがるビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く人たち……。「どっち」?との問いに「どっちでもねーよ!」と答えたくなる機会があまりにも多い。でも、私たちはいつだって、どっちでもないはず。本書は、納得と共感に溺れる社会で、こんなふうに与えられた選択肢を疑ってみるための一冊です。TaiTanさんが本書にご執筆くださった解説を公開します。

武田砂鉄著『わかりやすさの罪』(朝日文庫)
武田砂鉄著『わかりやすさの罪』(朝日文庫)

 罪の告白からはじめたい。

 かつて、「わかりやすさ」で稼いでいたことがある。

 高校3年生の頃だ。私は巷で知られたYahoo!知恵袋の回答マスターだった。

 突然何の話だ、と思うだろう。私とてこんなことをカミングアウトするのは苦々しい。ラッパーのブランディング的にも厳しいものがある。だが、この話をしないことには本書の解説など務まらないので、説明を続ける。

 当時の私は、ひとりで勉学に励む模範的受験生だった。同級生たちは皆、予備校に通っていたりしたらしいが、私の実家の家計にそんな余裕はなかった。それに、今まで放課後につるんでいた悪友達をも次々と吞みこんでゆく予備校という存在自体をやっかむ気持ちもあり、あんなものに関わるくらいなら独学を貫いてやらあと息巻いていたようにも思う。あるいは、「今でしょ!」だなんてこちらに指差してくる男が台頭してきたのもこの時期で、その手の誘導を学生なりに過剰に警戒していたのもあったかもしれない。

 そんな私が、独学のお供にしていたのがYahoo!知恵袋なのである。今はどうか知らないが、当時の知恵袋の学問カテゴリーにはたくさんのプロフェッショナルが滞在していて、大学受験勉強程度の質問なら割とまともな回答をよこしてくれた。それに参考書とちがってピンポイントで痒かゆいところに手が届く回答が期待できるのだから、使わない手はなかった。

 だが、回答者はChatGPTではない。生身の人間である。つまり、無償では済まない。回答をお願いするには知恵コインと呼ばれる知恵袋内でのみ流通する独自通貨を払わなければいけなかった。特にカテゴリーマスターと呼ばれる、品質保証済みのアカウントからの回答を得るにはより高額の知恵コインを必要とした。

 サービス利用当初は、はじめに無条件で付与される知恵コインを切り崩して、カテゴリーマスターに質問を投げかけていたのだが、無論その度に貯金は目減りしてゆく。ところが、その頃にはすっかり質問狂と化していた私を止められる者はもはや誰もいなかった。ほとんど物欲中毒者のそれと同じである。

 そして、とうとう。とうとうその時はやってくる。初夏、受験の天王山を前に、私の知恵コインは底を突いた。知恵袋資本主義社会とてユートピアではない。原資を持たない者には容赦ない。私はその日限りで、質問の権利を失った。あれほど親しかったカテゴリーマスターたちが自分以外の誰かに優しくしている。それを遠くで眺めるしかなかった私の額に伝う汗を、夏の陽はよく照りつけた。私は、恋より先に嫉妬の感情をYahoo!知恵袋から教わっていた。

 原資を集めるしかない。今までは使うばかりだった知恵コインを稼ぐにはどうしたらいいか。答えは明白だ。自分が回答者側にまわれば良いのだった。そうと決まれば話は早い。私は自分が答え得るカルチャージャンルや俗っぽいジャンルの質問を見つけては片っ端から回答していった。「次売れるバンドは?」「なぜプロ野球選手は女子アナと結婚するの?」「2ちゃんをみてる人についてどう思いますか?」。知恵袋内で量産される、玉石混淆のクソほどにくだらない質問を、資金のためと言い聞かせながら、感情を殺して次々と倒していった。

 どう考えても、その時間で勉学に励んだほうがいいのだが、私の愚かさは底抜けだった。なんせ、そんなゲーム感覚の討伐を繰り返すうちに、件のカテゴリーマスターになってしまっていたのだから。愚か、というかその空虚さがむしろいじらしい。

 そして、私はその回答行脚の過程で、ある傾向をつかんでいた。

 断定は売れる。

 とりわけ、論理を明示した断定はよく売れる。論理の妥当性如何を問わず、とにかくこの世界では強い言い切りに値段がつく。私はそれを理解しながら、知恵コインを稼ぎ続けていた。つまり、私は「わかりやすさ」の価値を齡17歳にして肌で覚えた人間なのである。

 ここまで書けばもうお分かりだろう。

 なぜ私がこんなに長々と罪の告白をしなければいけなかったのか。そう、私は本書『わかりやすさの罪』の解説の大役など務めるにふさわしくない人間なのである。「わかりやすさ」を糾弾するどころか、供給していたわけなのだから。もちろん、(自分の名誉のために付記するが)先述の知恵袋内討伐RPGは受験期限りですっかり飽きて辞めてるわけだが、そういう「わかりやすい」断定言葉だったりを無闇に放流していたことの記憶は消えないから、いずれにしても腹が据わらない。

「わかりやすさ」そのものに罪はない。だが、その効果を自覚しながら他人の感情の誘導灯として使ったり、物事の複雑さを無効化させるまやかしとして使うなら、罪とまでいわずともよこしまだよねくらいの言葉は与えられてしかるべきだろう。いやはや、青春の愚行に時効はあるのだろうか。

 その意味で、私にとって本書を読む時間は、すなわち自らの痛みと向き合わざるを得ない時間でもあった。そして、勝手に巻き込むわけではないが、多かれ少なかれそう感じている読者は多いのではないかとも推察する。なぜか。

 本書の論旨は、「わかりやすさ」偏重社会に対する長い長い違和感の表明に尽きるだろう。今日のメディアのスタンスから、政治家の発言、タレントの胡散臭さにいたるまで私たちが無意識に感じている「なんかいやな感じ」を武田氏は見事な嗅覚でとらえ、曖昧になかったことにされてきた霊的なものの存在に、言葉によって輪郭を与えてしまう。我々読者は、その瞬間に、いずれもの違和感に心当たりを覚える。あたかも「それ私も言おうと思ってた」だなんて訳知り顔をしながら。

 ところが、武田氏の真の凄み、と同時に恐ろしさはその先に待っている。本書を読み進めるうち、我々は社会に潜む違和感に対する解像度を加速度的にあげてゆく。それまではいい。楽しく知的な読書体験だ。自分を抑圧してきた不可視なものへの強気な姿勢も整ってくるだろう。NewsPicksにだって小粋なコメントを寄せてみたくなるかもしれない。が、ある閾値いきちを超えた時、その威勢の良さに暗い影が差す。

 あれ、これ、私のことじゃね?

 そう、武田氏が様々な角度から指摘する様々な欺瞞を、今度は自分自身のなかに感じ始めるのだ。これが先ほど私が述べた、自らの痛みと向き合わざるを得ない時間、の本意である。

 例えば、本書の概要説明にはこんな一文が登場する。

「『どっち』?との問いに『どっちでもねーよ!』と答えたくなる機会があまりにも多い日々」

 わかる。とてもよくわかる。私の場合はその活動柄、「ラッパーなの? ポッドキャスターなの?」との問いにやたら遭遇するわけだが、「いや、どっちもだろ」としか言いようがなくて回答に窮す。なぜ人はわざわざ区分したがるのだろうか。その度に不思議でならない。が、不思議だと毎回思っているくせに、別のシチュエーションになれば、今度は私が音楽活動をしている友人に「で、結局来年は何をやりたいの?」だなんて無邪気に問いただしていたりもするわけだから、ひとりの人間の倫理意識などまったく信用ならない。

 あるいは、こんな一文も。

「注目され始めた物事に対して、すぐに意味を過剰に投与して現象化させようとする人への警戒心が足りないように思う」(19章 「偶然は自分のもの」より)

 その通りだ。かつて、私の生き方に興味をもったという編集者から“スラッシャー”特集への出演をオファーされた時のこと。興味を持っていただけるうちが華とは思うが、その妙に浮わついた新概念で十把一絡ひとからげにされるのは耐え難く、丁重にお断りをしたのを思い出す。生き方を見せるだけで持ち上げてもらえるなら、肩書を増やせば増やした者勝ちになる、そんな風潮にも賛同し難かった。余談だが、その特集で私と並んで出る予定だった“スラッシャー”著名人は、現在“パラレルキャリアワーカー”を名乗るインフルエンサーとなっているようである。嗚呼、スラッシャーよ、どこへ。

 ことほど左様に、新しい現象をすぐにでっちあげようとする人への警戒心は強めた方がいい。それは自分の経験上疑いようがない。だが、では今度は、そんな私の、最新のTBSラジオ出演時の発言を引用してみる。

 以下、2023年を賑わせたYouTuberによる私人逮捕問題をうけての私自身の発言。「いやあ、でもこれはさ、“ジャスティスポルノ”っていう現象だと思うんだよね。フードポルノ、感動ポルノ、エモポルノとかと並ぶ新しい概念“ジャスティスポルノ”だよ!」。よほど気に入った語呂なのだろう、執拗に新概念の提示を試みている。さらに、氏はこう続ける。「この“ジャスティスポルノ”ってのはさ、極めて今日的な問題だと思うんだよね、だからさ、これを流行語大賞にしちゃえばいいんですよ!」。これ、マジですよ? どう考えても、武田氏の指摘する警戒すべき人間は私自身なのである。

 納得と懺悔ざんげの交互浴。本書は、我々にそんな読書態度を要求する。いや正確には、武田氏は要求などしていないのだろうが、我々の心が勝手に応答してしまう。だから、本書を通して「わかりやすさ」偏重社会に対する憤りの溜飲を下げているだけだとしたら、その従順さこそが最も危うい。「4回泣けます」の誘導に対して「4回泣」いてしまう観賞者よろしく、武田語録に「わかるわかる」と納得するだけの読者は歓迎されていない。

 社会はわかりやすさ支持派とわかりにくさ支持派に二分されているわけではなく、状況や気分でそんなものはすぐに混ざり合う。池上彰のわかりやすい解説は好きだが、林修のソレはしたり顔で鼻につく、なんて感想はいくらでもあり得るのだ。重要なのは、そのこじれた心の内訳を自分の頭で考え続けることだろう。「私たちは複雑な状態に耐えなければならない」(「おわりに」より)と武田氏は結んでいるが、私はそこに、以上のような含意をみる。

 本稿執筆にあたり、コロナ禍以来の再読となった。当時と比べても、「わかりやすさ」は今、ものすごいスピードで社会の隅々に侵食してきているという所感をもった。論破が遊びの道具に変わり、わかりやすい喧嘩の構図が定番フォーマットになり、映画はネタバレを読んでから観る若者が4割を超えたという。

 これだけ切羽詰まった時代だ。ぬるい道徳や美意識よりも実利や即効性が優先されることを、私は他人事とは思わないし、正面から批判もできない。私だってBreaking Downは熱心に観ている。だが、同時にそうした巨大な「わかりやすさ」の磁石のようなものに自動的に群がってしまう自分や他人にがっかりしているのも事実だ。

 私たちの頭の中はかくも、ややこしい。だが、そのややこしさから逃げるな、本書はそう繰り返す。長い長い紙幅を使って、無数の角度から自力の思考を促してくる。当然気持ちのいいだけの読書では済まない。ところが、本書は増刷を繰り返し文庫本にまでなったという。それを、ややこしさに耐えたい民意の現れと読むのは楽観的すぎるだろうか。いや、そのくらいは信じてみたい。「わかりやすさ」の磁力は強い。多分、これからもっと強くなる。だからこそ、そんな磁力から遠く離れた場所で踏ん張りたい。巨大な磁力に抗う、最後の砂鉄になりたい。そのささやかなたくましさを諦めないでいたい。そんな風に思う。


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