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最年少で乱歩賞を受賞した神山裕右さんによる、13年ぶりの新作『刃紋』/ミステリ評論家・佳多山大地さんによる書評を特別公開

 関東大震災の混乱期。名古屋で探偵社を営む草萊一子地は、ドイツ人女性から行方不明となった母・貞子の捜索依頼を受ける。しかし、調査を進めるうちに、社会主義者との深い繫がりに加え、殺人事件の実行犯としても貞子の名前がちらつき始める。彼女の姿に迫る草萊は、いつしか国を揺るがす禁忌に近づいていた――!
 乱歩賞作家の神山裕右さんの13年ぶりの新作『刃紋』が、2024年5月7日(金)に発売となりました。刊行を記念して、ミステリ評論家・佳多山大地さんによる書評を特別公開いたします。重厚感漂うミステリーの面白さを綴っていただきました。

神山裕右著『刃紋』(朝日新聞出版)
神山裕右著『刃紋』(朝日新聞出版)

探偵小説と〈帝国主義の時代〉

 探偵小説ファンを自任するなら、憶えておきたい年号がいくつかある。わけても、江戸川乱歩が短編「二銭銅貨」で作家デビューした年は重要であり、僕は「行くぜ兄さん避難しよう」とすぐに出てくるのだが……ああ、それは「二銭銅貨」のための語呂合わせではない。秋口に関東大震災が発生した1923年の、春先に乱歩はデビューして本邦ミステリー界に激震を走らせたんだよな、と手前勝手に結びつけているのである。

 江戸川乱歩賞出身の作家、神山裕右の最新長編は、関東大震災発生直後の混乱のさなか、一人の婦人の姿が消えた一件を発端とする。生死も不明のその婦人、雨月貞子は、ドイツ帝国軍の文官パウル・ベルリナァとのあいだに女児をもうけた過去があった。名古屋で民間探偵社を営む草莱一子地は、現在はベルリンに住むパウル・ベルリナァから依頼を受けて貞子の行方を追っていたところ、依頼人の娘ハンナがわざわざドイツから単身来日してきた。およそ2か月前、父パウル・ベルリナァ宛てに届いた手紙には、詩とも暗号ともつかない日本語の文言が印字されていた。ハンナはその脅迫状めく手紙の送り主が、母貞子の行方を知っているのではないかと訴えて……。

 物語のタイトルは『刃紋』。ひと振りごとに違いが出る〈刃紋〉は、本来は千差万別であるはずの人間の個性と重ねられているようだ。さらに、死者・行方不明者は約十万五千人を数える関東大震災の惨禍にあっては、まるで広い湖面に投げ込まれた一個の小石でしかないような貞子の失跡が、じつに国家を揺るがすほどに〈波紋〉を広げてゆくことも掛けられていると見ていいだろう。

 物語の現在地は、関東大震災から2年後の1925年(大正14年)。ロシアとの戦争に出征した経験もある草莱一子地が主人公のハードボイルド小説として、まずは魅了される展開だ。ハンナが携えてきた手紙の文言を手がかりに、ふたたび腰を入れて調査に乗り出す草莱探偵。人に会って話を聞き、得られた情報をもとに別の人を訪ねて話を聞く。そうした草莱の行動は、まさにこのジャンル小説の王道をゆくものである。時の警察権力と相性が良くないのはハードボイルド・ヒーローの標準設定どおりだが、時に腕力に物を言わせるようなありがちな真似はしない紳士である。

 間もなく草莱探偵は、雨月貞子の消息途絶の裏に、大震災直後に飛び交った流言のせいで関東全域で行われた、いわゆる朝鮮人狩りの因縁が絡んでいるらしいと確信するにいたる。ハードボイルド小説の構成としては異例だが、中盤以降、草莱探偵社の若手社員である東雲文四郎が長崎県は端島(通称:軍艦島)に潜入調査で派遣されると物語には冒険活劇の要素も加わり、いよいよページを繰る手が止まらなくなること請け合いたい。

 ――ところで。ミステリーの興隆と植民地とのあいだには、浅からぬ関係がある。周知のように、近代合理主義精神に裏打ちされた、世界最初のミステリーといわれる作品はエドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」(1841年)。同作で、花の都パリの密室現場から煙のごとく消え失せた殺人犯は、東南アジアのボルネオ島出身だった。16世紀頃からヨーロッパの商人が渡来し始めたボルネオ島は、19世紀以降、オランダやイギリスの植民地となったのだった(第2次大戦中は日本が占領した経緯も)。

 また、ミステリーを大衆文化のひとつに押し上げたといえるコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物に、当時の大英帝国が版図に収めていた地域が深く関わっている作品が多いこともよく知られた事実だろう。要の植民地であるインドの15件を筆頭に、ホームズ物の正典60編のうち半数を超える作品で、大英帝国の強い影響下にあった地域が「犯罪の供給源としての役割」を果たしている、とは英文学者の正木恒夫が著書『植民地幻想』(みすず書房、1995年)で指摘するところ。名探偵ホームズの生みの親は、〈大英帝国/ヨーロッパ世界〉と〈植民地/非ヨーロッパ世界〉の2項対立図式を描きつづけ、非ヨーロッパ世界からやって来る悪しきものからヨーロッパ人を守る守護聖人の性格をホームズに与えていたのだった――。

 無論、かのような2項対立図式は、宗主国と呼ばれる側がほしいままに生じさせたわけだが、その図式を乗り越えられなかった同時代人ホームズを批判すべきとは僕は考えない。一方、神山裕右の『刃紋』は、21世紀の今を生きる作家が約100年前の〈過去〉を舞台に書き上げたミステリー。ならば、名探偵役の草莱を、かのような2項対立図式とどう対峙させるかが見ものになってくるのは当然だろう。そう、草莱探偵は、帝国主義の時代の大波といかに向き合い、果たして依頼人の期待に応えられるのか?

 作者の神山は、洞窟探検の世界を描いた『カタコンベ』(2004年)で江戸川乱歩賞を受賞すると、南極大陸が殺人事件の舞台となる『サスツルギの亡霊』(2005年)が本屋大賞の発掘部門で最高賞に輝き再評価されるなど寡作ながら存在感を示してきた。『刃紋』は神山が13年ぶりに世に問う渾身の雄編だ。


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