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自宅で突然亡くなった母に泣きながら…草刈正雄が明かす「僕の原点は、母」

 今年1月クールドラマ「おじさまと猫」で主人公のおじさま役の演技が話題となった俳優の草刈正雄さん。放送開始前、もう一方の主人公ならぬ主猫公「ふくまる」がぬいぐるみであることが公表されると、ネットでは多くの不安の声が……。しかし放送が始まると、まったく違和感のない草刈さんとふくまる(神木隆之介さんの声の演技も素晴らしかった!)の掛け合いが話題となり、最終回直前のふくまる失踪の回では多くの視聴者を号泣させ、話題をさらった。
 昨年、芸能生活50周年を迎えた草刈さんが著書『人生に必要な知恵はすべてホンから学んだ』(朝日新書)で明かした、亡き母への複雑な想い、俳優としての原点とは……。本書より一部を抜粋・再構成してお届けする。

■母と僕と映画と

 原点は母だ──。歳を取るにつれて、そう思います。

 10年前に他界した母と僕のあいだには、いまだに言葉にするのが難しい距離がありました。互いに互いを遠くから気遣うような、そんな付かず離れずの感覚です。はたから見れば、仲のいい親子に見えたかもしれない。事実、そうでした。でも、お互いに本心をぶつけあってきたかといえば、必ずしもそうとはいえません。あのとき、あんなふうに言えばよかったんじゃないか。あの日だって、もっと違う接し方があったんじゃないか。いまでも練習問題は続いている。永遠の宿題です。

 母一人子一人の関係でした。父はアメリカの軍人で、朝鮮戦争で亡くなりました。福岡県の東、行橋(ゆくはし)で母は僕を産み、物心がついた頃には二人で小倉に住んでいました。

「バービィ!」

 チビの僕をこう呼ぶ母に、「ママ」と応えていた。小学校ではものすごくからかわれました。母に手紙を書くという授業で、「ママへ」と書いてしまったんです。当時、母親のことを「ママ」と呼ぶ子どもはいません。みんな、「お母さんへ」。でも、その日から急に変えられるものでもありません。母こそ「バービィ」は早々にやめて「マコちゃん」とか「マコ」と僕を呼んでいましたが、こちらは終生、そのまま。17歳で単身上京してから2年目に、東京に母を呼び寄せたんですが、その後も曖昧に「マァア、マァア」。僕に家庭ができたある時期は別々でしたが、後年は再び一緒に暮らしました。亡くなるまで、「マァア」は変えられませんでした。

 かといって、甘えられるような関係だったかといえばそうではありません。正反対です。相当、キツかった。気が強いという意味です。いまから思えば、父親がいなかった分、「父役」も背負っていたのでしょう、とにかく怖かった。

「あんた、なにしちょんね!」

 バットを持って追いかけてきたこともあります。「九州女」という言葉がありますが、それに男気が加わり、気の強さでは僕は足元にも及ばない。息子がグレてしまうのを恐れて、とにかく厳しい親でした。近所でワルさをして「親か警察か先生、どれを呼ぶか」と聞かれたとき、「おふくろだけはやめてください」と懇願したのをいまでもよく覚えています。

幼少期 草刈正雄氏 1

■「ごめんなさい」と「ありがとう」

 自宅の二階で母が突然亡くなったのは、2010年のことでした。脳梗塞でした。妻が異変に気づいて僕を呼んだときにはもう亡くなっていた。すがりついたとき、口をついて出たのが詫びの言葉でした。ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね……。どこからこんなに涙が出てくるのか自分でもわからないほどに、声をあげて泣きました。

 本当はあのとき謝りたかったのかもしれません。二十歳前後の頃のことです。

 17歳で上京し、モデルの仕事を始めます。東京でモデルをすれば、報酬は手取りで「月5万円」だと聞いたからです。当時の大卒初任給よりも多かったはずで、中学3年間は新聞配達、定時制の高校時代は朝の4時までスナックで働いて得ていたバイト代とは雲泥の差でした。

 1970年。人伝手で事務所に所属してから3カ月程で、ラッキーなことに資生堂のテレビコマーシャルが決まりました。「MG5 BRAVAS」です。小倉にも放送されるのか、気になりましてね。やっと、母に胸を張れる。それからしばらくして、母を東京に呼び寄せたのです。

 小倉ではあんなに離れたかったのに、当時の心境というのは不思議なものです。しかも、慣れない生活が始まったばかりの母に、僕の態度はキツかった。仕事もまだ順調ではなく、母と二人きりになると、昔の思い出を責めたくなるときがありました。

 小さい頃からいつもほったらかしだったろ! 運動会だって、一緒に弁当を食べたことなんてなかったじゃないか! 口には出しません。でも、「愛情をかけてもらえない親からは、はやく離れたい」と考えていた自分を蘇らせ、辛くあたってしまった。

草刈正雄さんphoto2(撮影:金子淳)

 そんなある日、慣れない東京暮らしで弱気になっていたところもあったのでしょう、家に帰ると、飲めない酒を飲んでぽろぽろぽろぽろ一人で泣いている母がいました。おふくろにしてみれば、日用品の卸売店に勤めながらの必死の子育てだったと頭ではわかっていたのですが、当時の僕は、見て見ぬふりをしてしまいました。「ごめん」のひと言が言えなかったのです。

1年ぐらいして、仕事が順調になりだしました。運よく、外人顔がモテはやされる時代の波に乗りました。家に帰ると、

「すごいね、すごいね、すごいね」

 あんたは、すごい、あんたはすごいよ。そうしっかり褒めてくれた母。それでも僕ははぐらかしてしまった。どうしたんだよ、おふくろ。おふくろらしくないじゃないか。気を遣ってるんじゃないのか──。そのときも言えなかったのです。ありがとう、と。

 思えば、チビの頃から小倉で言われていました。

「『ごめんなさい』と『ありがとう』は、素直に言えたほうがいいよ」

 そんな人になりなさいな。

 当時の思い出の写真があります。小学3年生のときのこと。二人で動物園に行って、おふくろが撮ってくれました。その写真を見ると、思い出す言葉がもうひとつあります。

「あんたと私は目がそっくりだよね」

 ああそうか、そっくりなのか。おふくろは俺をよく見ていたんだなあ。

 自分の目のなかに母を見ます。こうしていまも、守られているのです。


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