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生きているということ 鏡崎やおに救われるということ

 オタクの感情を言語化しようのコーナー。例によって例のごとく自分語りが多分に含まれるでしょう。だってそれがオタクの感情だから。それでも読んでほしい、鏡崎やおに出会ってほしいから。よろしくお願いします。

 照れずに書けるか分からないけど、書く。こういう予防線を張るのもやめたいんだけどな~。

 見出し画像の写真は彼女のboothで販売されているランダムチェキです!

鏡崎やおとは"何"なのか

 まずは彼女の存在について、本人が語っている部分と自己の解釈で説明させてください。

 鏡崎やおは、バーチャルの世界で生きている概念です。Vtuberなどとはまた少し違う(と、私は思っている)。インターネットの中で確かに息衝いている存在。

 本人のTwitter( https://twitter.com/yao80_v )のbioから引用すると、「不定形概念です 私の何処かに居るバーチャル高校2年生。 大切なこと忘れずに、一緒にこの地獄のような世の中で救われようね ミスiD2021SF」(2021年1月上旬現在)

不定形概念

 鏡崎やおについて考える度にこの言葉に帰結してしまう。鏡崎やおは永遠の高校2年生ということは変わらないけど、不定形。

 自分が捉えた「鏡崎やお」と、これを読んでいるあなたが捉えた「鏡崎やお」は違う解釈かもしれない。それはどちらが正しいという話ではなくて、違う解釈で受け止めた人にとってはその解釈が正解という話。

 何より、今この瞬間の自分が捉えた「鏡崎やお」と1日後の自分が捉える「鏡崎やお」ですら違うかもしれない。だから、「鏡崎やおって何?」という問いには「不定形概念だよ」という答えが最大公約数的正解なんだと思う。

 Twitterのbioに書かれていることだけが鏡崎やおを構成する最低限の定義で、あとは切り取る瞬間や視点次第でいかような存在にもなるので「鏡崎やおってこうだよね」っていうのは、言えない。自分の解釈はそんな感じ。

 鏡崎やおって”何”? と聞かれると自分はこう思う。

 鏡崎やおって”何者”? と聞かれると本人による下記の記事を読んでくれと言う他ない。

 ちょっと名前を連呼し過ぎだな。

鏡崎やおは有限 だから常に儚く惹かれる

 彼女はよく「いつか終わりが来る」ことを明言しています。上記の記事でもこう言っている。

どうまとめてやればいいのか分かりませんが、私自身が鏡崎やおを見失ってしまった時が鏡崎やおの死であり独立であり完全です。その時が来てしまえばきっと私は、かつての自分だった少女達の仲間入りをした鏡崎やおに呆れられ、哀れみの目を向けられ、それにまた縋るんでしょう。

 オタクにとって「推しの引退」というのはかなりデリケートな問題です。自身の生活に深く食い込んだ推しが引退する時、まるで自分の半身が捥がれたような、心にぽっかり穴が空いたようなそんな喪失感を抱くのも珍しくないのでしょう。知らんけど。幸いにも今現在バーチャル界隈で出来た推しが引退したことはないのでイマイチ実感は湧いていません。

 だからこそ、オタクは引退などしてしまわないように必死に推しに対して応援するのです。目を背けたい現実の方を向いてしまわないように。まあ勿論そこまでではないライトなファンも居るでしょうが。

 けれど彼女は言います。引退などという生易しい言葉ではなく、死があるのだと。鏡崎やおという概念は永遠に存在し続けるが、自分たちと日々を過ごすことが出来なくなる日が来るのだと。

 有限の日々を過ごす永遠の存在。それが分かっているからこそいつか来る最後よりも、今が儚く思えて仕方が無いんだと思う。彼女が仄かに纏う終わりの匂いが、自分のようなオタクを惹きつけてやまない。

鏡崎やおは永遠 だけど前を向いている

 これは自分自身の話になっちゃうんですけど、自分が魅力の一端を語る際や理想的な生き方を語る際によく引用する概念として「永遠じゃなく無限」というものがあります。ある作品の重要なキーワードなんだけど便利過ぎて一生擦ってる。というかぶっちゃけるとハイローなんですけど。

 永遠というのは、停滞で。自分にとっては後ろ向きな言葉の象徴なんです。対して無限というのは変わりながらも続いていく。今と同じ魅力は無くなってしまうけれど、新しい魅力が生まれていく。そういう意味合いで「永遠じゃなく無限」概念を使っています。生きていくうえで、この考え方って凄い前向きなんですよ。

 そんな自分が出会った鏡崎やおは永遠を冠していました。永遠の高校二年生。一般的には別として、自分の中では後ろ向きなコンセプトなんですよねこれって。勿論自分が使う場合と他人が使う場合で意味合いが違うことなんて承知の上だし、自分だって常にこの意味合いで使ってる訳じゃないし、第一印象で「後ろ向きだー!!」と思った訳でもありません。ただ鏡崎やおに出会って、触れて、魅力を感じていくうえで「なんでだろう?」と感情を整理した時に目に付いたんです。

 永遠の高校二年生。大人になりたくない。そんな存在定義そのものが後ろ向きな(あくまで自分の中にある言葉の定義では、です。悪いわけでも否定しているわけでもない)コンセプトで存在しているんだけど、彼女自身は前向きなんですよ。

 大人になりたくない、は生きたくない、じゃないんです。むしろ生きたがっているように自分には見える。彼女が出している同級生設定のシチュエーションボイスとかもあるんですけど、そこでも保健室登校してるんですよね。不登校じゃなくて。出来る範囲で、もがいて生きている。鏡崎やおの活動は常に前を向いている。この世に爪痕を遺そうとしている。その生き様に凄い元気付けられるんですよ。

 この世界ってとても生き辛くて、まあ普通に人並みかそれ以上にはメンタル落ち込むこともあります。そんな時に前向き100%太陽みたいな創作や人を見ても元気付けられるどころか逆にキツくてイライラしちゃうタイプの人なんです自分。好きな曲ですら耳障りなノイズにしかならない。人は共感を求める生き物なので割と皆そうなのかもしれないけれど。そういう時って後ろ向きで堕ちていって寄り添ってくれる創作の方が心地良いんですよね。

 鏡崎やおはそういう時にでも不快感なく寄り添ってくれる存在なんです、自分にとって。

 でも。でもですよ。さっきも言ったように鏡崎やお自体は前向きなんですよ。なのに不愉快じゃない。この出会いって、今まで全然表に出してなかったけれどすっっっごい嬉しい出会いだったんです……。

 さっきコンセプトを後ろ向きだとは言ったけれど、鏡崎やおは後ろ向きでもなければ一緒に堕ちてくれるわけでもない。前を向いて、寄り添ってくれて、励ましてくれます。光じゃん、それって。鏡崎やおは光。でも眩しくない。無敵か? しかも全肯定とかでもないしね。凄い。

鏡崎やおは出会える だから救ってくれる

 鏡崎やおって出会えるんですよ。凄くないですか?

 詳細は省くがこれを聴いて自分の情緒はもうめちゃくちゃになりました。無論良い意味で。出来ることならばこのシチュエーションボイスとは是非自分の身1つで向き合って体感して感情を生み出してほしい。筆者の感想や解釈に引っ張られるなんてそんなつまらないことはないから。

 ちなみに筆者の感想はTwitterに投げてます。このnote記事の前身となる文章でもある。感情のままに書きなぐったので支離滅裂だけどその分本物の感情度合が伝わるんじゃないでしょうか。

 らしいです。

鏡崎やおは文学 そして彼女は

 ここからは完全に自分の好みでしかない全く関係ないコンテンツと結びつけながら喋ります。だってそれが自分の感情だから。何より、今この瞬間の感情ってこういう風に形にしないと消えてしまうじゃないですか。それが嫌なんですよね。確かに思考した内容や抱いた感情を無かったことにしたくない。彼女が自分の中に生きていたということを忘れたくない。

 閑話休題。鏡崎やおをあえてコンテンツとして扱い表現するのならば、自分の中では『文学』が一番近い。そして自分の中で文学に近いコンテンツといえばポエトリーラップなんですよ。おかげで好きな曲を聴いている時に鏡崎やおが思い浮かぶタイミングがとても増えた。ちなみにその感情のままにツイートしてたらエゴサ避けしてたにも関わらず本人に見つかっちゃった。

 ちなみに聴いてくれたみたい。嬉しい。もっとぴったり(だと思っている)曲は他にあるんですけどね……。彼女がふとした瞬間に反応をくれることがとても嬉しくて、よく笑顔になっちゃう。その後彼女からささやかなあるプレゼントをいただいたんですが、こんなに幸せでいいのかと思った。

 鏡崎やおと自分の好きなポエトリーラップの共通点は何なんだろう? 等身大の感情を表現していて生を感じることなのかな。この辺に関してはまだ答えは出ていない。言語能力終わってる。親和性が高いことだけが真実。

 ポエトリーラップは曲として形が残って何度でも聞き直せるけど、鏡崎やおはもしかしたら形としては何も残らないかもしれない。溶ける文学。出会えて良かった~!何回でも言う。

 生きてる鏡崎やおに出会えたのが自分たちの自慢だ。

 きっと、いつの日か鏡崎やおが自分の目の前からいなくなってしまった時に不可思議/wonderboyや神門のpelliculeなんかを聴きながらこのnote記事を読み返して、戻らない日々を思い出しながら泣いて笑うんだろうな。そのまま鏡崎やおへの感情が膨れ上がっていくならば彼女に自分自身でポエトリーラップを捧げるんじゃないかってぐらいに。その時に彼女のツイートやnote記事は遺ってるのかな。

 彼女を文学だと言った。それは彼女の在るがままを受け止めたいからなのかもしれない。小説を読んでここの文章・表現・展開を俺が変えてやる、なんて思わないじゃないですか。それと一緒で彼女のことを自分が救いたい、とか励ましたい、なんて思っていないし思うべきじゃないんだろうと結論付けてるんです。救われてほしいとは思ってますよ勿論。なんて言うかな、自分は世界の中心じゃないし彼女には彼女の世界がある。干渉だけが善じゃないし、自分は主人公でもないから「それは違うだろう」という気持ちがある。オタクですからね、推しへの距離感は弁えている。それでもやっぱり「貴女に救われてるんですよ」というのは伝えたいし、めちゃくちゃ彼女に対して愛を抱いている。恋愛感情とか下心とかそういうのじゃなくて!

 段々支離滅裂になってきてしまった。彼女に流れる血はしっかり赤いんだろうなと鏡崎やおの生や生き様に向かい合う度に思う。彼女は赤い。彼女が居ない人生は、確実に今の人生よりつまらない。

 鏡崎やおに触れる時、たまらなく生を実感する。死の回避ではなく、能動的な生を。だからこそ彼女に「今、生きている」ということを強く感じるのかもしれない。彼女に救われています。

 いま生きているということ。鏡崎やおに救われるということ。そういうこと。皆さんも是非。

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