【十二国記】『風の海 迷宮の岸』の超主観的感想。

※非常に偏った思考による感想文故、気分を害されたら申し訳ない為、事前に申し上げますが、腐女子による感想です。ある程度察してお目通し下さいますよう宜しくお願い致します。

 大変有難いことに、前回書いた感想の続きが読みたいとのご意見を頂き、調子に乗ってしまう性分の私は、いそいそと筆を取ってしまうのであった。

 十二国記はまとめ買いをせず、一作読み終わってから続きを買う方法を取っている。
 単に置き場的な問題もあれば、読み切れるか分からないものを手元に置いておくのもどうかと思い、挫折しても良い用の保険みたいなものだ。
 しかし驚くことに、普段こういった小説を読むと1冊に3週間はかかる非常にマイペースな自分が、早い時は3日で読み上げてしまった。そして、翌日には次の作品が読みたいと本屋へ足を運んでいるのだ。
 現在はこのままのペースでは即座に読み終えてしまうという勿体なさから寝かせているが、『図南の翼』を読み終えるまでタッタカタッタカと感想を述べることなく黙々と読み進めてしまった。
 というのも、これは単に作品が面白いからという理由だけでなく、非常に良質な読書体験を求めているに他ならない。
 いつも読んでいる作品と違うのだ。
 前回「月の影影の海」を読んだ際、勢い余って感想文を書いたのだが、十二国記は、あたかも自分がその世界に海客として飛び込んだかのような感覚を体験できるのだ。
 『不思議の国のアリス』を読んでも不思議の国には行けないし、異世界に飛ばされても読者自身は常に俯瞰的視点で主人公が率いるパーティーに加わることは無い。
 それに対し、十二国記は「思考のリンク」というのだろうか、登場人物と自身の意思がぴったりと噛みあう場面が幾つもあった。
 あの主人公と共に旅をする体験がもう一度したいと本を開くのだが、最近では十二国の世界観になれてしまいそうはいかない。
 それでも私の精神が確実に十二国へいざなわれているのは、読書中の没入感で分かる。思考を巡らせながら読むことが、とても楽しいのだ。

 最初に読んだ陽子の話が殺伐としていたため、『風の海 迷宮の岸』を読む前は少々身構えたものだが、読んでみると基本良心的に泰麒へ接する善人ばかりが登場しており、拍子抜けしてしまった。
 前作はどれだけ私を疑心暗鬼の人間不信に陥れたのだろうか。
 泰麒の話はただただ泰麒が愛くるしく、安心して読める分、なんとなく気が向いたときに読み進めていたのだが、饕餮を着服するあたりからはもう一気だった。
 おぉおぉおぉ…と思っているうちに読み終わってしまった。
 読了後に残ったのは、こんなに運命的な出会いをし、これから戴が良くなるぞ…!と思わせる爽快な結末に反し、現状荒れている戴国に対する疑問であった。
 えーっこんなに良い国王とこんなに力のある黒麒麟がいるのに何があったー???
 気になりすぎる。これから二人で良き国を作ってくれるのでは無いのか。
 様々な疑問はあれど、この作品自体は黒麒麟が失踪する話に微塵も触れていないため、これだけ読めば、「あぁ泰麒良かったね。」で終わる、一点の染みも無い束の間の安寧、独立した箱庭のような話だ。
 正直『戴史乍書』の最後の一文に「後、泰麒失踪し~」等の不穏な波紋を残して終わるのだろうと思っていたため、あらら······と思うと同時にまだ平和だった頃の戴国のまま幕を下ろすことにホッとした。
 それにしても(魔性の子は未読だが)、あれほど前から引っ張っておきながら核心に触れることなく終わるのは、初見読者に対する親切設計なのか、既存読者に対する焦らしプレイなのか。
 この初期からの伏線をどこで回収するのだろうか······と思うが、おそらく皆さんが長年待ち続けていた新刊にその全てが描かれているのだろう。頼むそうであってくれ。

 さて、今回はそんな『風の海迷宮の岸』についてつらつらと書き連ねようと思う。
 まず作者の巧妙な場面設定についてだ。
 物語の始まりの場面は現代。季節は冬。
 十二国記における「現代」というのは、何故こうも灰色の濁った空気を醸し出しているのか。
 北の中庭、狭い中庭の使われていない倉、土壁には亀裂。この単語の並びだけで非常に寒々しく、登場人物の心情も重々しくくすんで見える。
 陽子の時もそうだが、元々十二国という異世界で生まれた彼らは、現代において異端の存在なのだ。どこにも馴染めず違和感を持ったまま生活をしている。
 そんな現代から十二国の桃源郷ともいえる蓬山への場面転換は、まるで冬から春へ変わる様な華やかで暖かいものがあった。
 ゆったりとした時の流れる神仙の世界は美しく、王が不在で荒れ果てている戴国など微塵も感じさせない楽園なのだ。なんと居心地の良いことか。
 新潮文庫版の解説にある井辻朱美氏の一文だが「大いなる母胎、生命の根源をはぐくむ子宮」とは上手いことを言ったものである。
 読み手の私も安心しきってその世界を堪能していた。

 「大いなる母胎、生命の根源をはぐくむ子宮」で思い出したが、十二国の地図は以前南総里見八犬伝を研究していた時に登場した「八葉の蓮」に似た形をしている。
 八葉の蓮というのは極楽浄土にある花弁が八枚の蓮華の事を指す。極楽浄土では性交が行われない代わりに蓮華の胎に子どもが宿って誕生するという。
 十二国でも性交によって子どもは生まれない。木から生まれるのである。
 八つの花弁(国)の中心に位置する蓬山=極楽浄土の役割を担っているのは物語を読めば明らかだが、蓬山に還って来たと同時に、あの場で高里要という一人の人間の死と、泰麒の麒麟としての生が同時に行われたと言っても良いだろう。
 泰麒の言動や行動は10歳にしては少々幼さがあるようにも思えたが、愛情に飢えている子は感情の発達にも遅れがみえることもある。おそらく泰麒はそうなのだろうと思っていたが、もしかしたらそれだけでなく、麒麟として生を受け間もない為、少々幼さのある振舞いなのかもしれない。
 「八葉の蓮」だと言い切れば、残り4つの国はどうなるのかと疑問が生じ、他にはないかと思い返す。そういえば、あの国の配置は曼荼羅図に見えないこともない。
 「文学作品が深層に曼荼羅的世界を幻想することは、そこに密かに神々の降臨を求める心性が隠されているということにほかならない」と『完本八犬伝の世界』の著者である高田衛氏は述べているが、仏教的思想もこの十二国記には取り入れられているのかもしれない。

 さて、だらだらと思いついたことを述べてしまったが、十二国記の設定は私にこんな邪推をさせるほど、世界観を徐々に読者へ馴染ませる様な、細やかで丁寧な印象を受ける。
 時間の流れもゆっくりとし、その時々の人物の心情まで書き出している。
 しかし、その緩やかな山が終わったら、後はもうジェットコースターなのだ。あの徐々に緊張と期待感を高めながら上り詰め、最高地点へ達した後ダーッと一気に物事が解決していく爽快感がたまらない。
 例えば、今回の話でいうジェットコースターの最高地点は、麒麟にとって最大の仕事である「王選び」だ。
 しかしこの話は王選びどころか、その王に出会う段階までに約380ページの内200ページを使っているのだ。驍宗、表紙にいながら思ったより後半に出てくるのか…となっていた。ここは十二国や麒麟の知識をため込み世界観に浸る大事なポイントなのでしっかり読む。(『月の影~』の時はこれが丸ごと上巻だったため、なかなかにしんどかった。)
 その後饕餮を着服し、驍宗を王に選ぶまでが約100ページ。あれだけ濃く盛り沢山の内容だったのに、ページ数で見ると思ったよりも薄く、蓬山の生活の方が倍の量でしっかりと書かれているのだ。
 本を読む中でも早く感じる、遅く感じるという体感はあるが、やはり時間の概念があまりなく、年も取らない蓬山でのゆったりとした空気感には、ページ数も関係していたのかもしれない。これでようやく王が選出された。
 しかし、この王は間違いなのだ!王気など見えないのだ!となった時に残るページは約80ページ。
 ここからが怒涛の後半パートだ。待ってましたこのスピード感。
 「大丈夫か?!このページ数で収まるか?!前半に使いすぎてないか?!」と徐々に薄くなっていくページ数に焦りを覚えつつも読み進める手が止まらない。
 この時点で私は驍宗を「偽王」だと思っているため、あぁだから国は衰退したのか······なんて思ってしまった。

 王には王気があり、麒麟にはそれが分かる。麒麟が王を間違えることなど有り得ない。
 登場人物の誰しも口を揃えてそう言うが、そういわれても、分からないものは分からないのだから仕方ないとは思わないのだろうか。
 景麒の説明も非常に大雑把というか、「そう」としか説明しようが無いにしても、もう少し言い方がなかったのか。読者も泰麒同様ちんぷんかんぷんである。
 「この人だ」なんて確証が無い上、泰麒自身序盤で、

(……けれど、彼には天啓がなかった……)

とハッキリ言っているため、こちらも間違って選出してしまったと思うしかないではないか。
 王の選び方など泰麒も我々も現時点で知る由もない故、「やっちまったなぁ、どうするよコレ」という感じである。
 そんな後ろめたさを感じているのに、周りがやたらお祝いモードだと、言い出したくとも言い出せない。
 特に驍宗の豹変たるや。今まで泰麒を「公」呼びだったのに王になった途端いきなり「泰麒」呼びか。その後の「蒿里」呼びやボディタッチの多さ等親密度爆上がりで大丈夫かとなる。
 昇山していた時は一線引いていたように見えたが、自分が王と分かるや否や、やたらと近しいのだこの男。
 そんなに喜ばれると、心優しい幼き麒麟は申し訳なさでいっぱいになってしまう。
 結果は感想を読まれている皆さんもご存知の通りなのだが、あの小さな胸の内をぐるぐる渦巻いていた感情を思うと私は大変愛おしく思うと同時に、ひどく同情をしてしまう。
 人から祝われる度に後ろめたく思うあの感情……例えていうなら偽装結婚とでも言おうか。
 期待している相手に嘘をつき続けるのは、かなりしんどいものがある。それは、相手に好意があればあるほどきついものなのだ。
 初めての王選びなら間違えても仕方ないとは思うのだが、こんな時、オメガバースにおける運命の番の様な設定があるならばどんなに楽かと思ってしまった。

 あぁ、オメガバースだの運命の番だのというある種の専門用語を使用してしまい申し訳ない。上記の注意書きにもある通り、私はBL(ボーイズラブ)を好む腐女子であり、大の美少年好きであります。
 オメガバースをご存じない方のため軽く説明するが、オメガバースとはBLによく使用される、ざっくり言えば男も子どもを産める設定のことを指す。
 性別は「α(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)の3種×男女2種」の計6種。人口ピラミッドの様な図にするなら上下が鋭く尖ったひし形で、人口の割合でいえば、α20%、β70%、Ω10%と、割合的にも「α」と「Ω」が非常に貴重種であることが分かる。
 この「α」という性は社会的に優遇されるポジションにおり、将来的に出世することが確定している生まれながの勝ち組である。
 その真反対に位置する「Ω」という性は、「発情期」という「性フェロモン」が大量放出される周期が定期的にあり、この期間は働くこともままならず、社会的に冷遇されている立場である。オメガ性の特性上、発情期になると周囲とのトラブルを引き起こし、本人もまともな労働力として使えなくなることから、繁殖(主に産む側)に関することのみが仕事とされていた歴史があるのだとか。たとえまともな仕事に就けても結局は発情期が足を引っ張り、職場内で冷遇・腫れ物扱いされるよう。 しかし中には冷遇とは全く逆で、希少種として大切にされている設定もある。
 そんなαとΩの間にだけに存在するシステムが「運命の番」である。いわゆる『運命の相手』のような存在で、恋人や夫婦といった関係よりも強いものとされる。
 この運命の番に出会ったΩは発情期でもないのに急に発情するなど、分かりやすく体に異変が起こる。一目見た瞬間に感じ合い、相思相愛になるというなんとも便利なシステムがこのオメガバースにおける「運命の番」である。

 自身の得意分野故に説明が長くなったが、私の言わんとすることは、王がαとすれば麒麟はΩ。王選びとは実に運命の番システムに類似しているにも関わらず、何故こうも分かりにくいのかということである。
 解説にある「あたかも少年の初恋のようなこの巻が一番好きだ、という女性読者が多いのではないだろうか。」という一文に大きく頷いた私だが、これは初めての感情に付ける名を知らず、時が過ぎ去った後で「あれが『恋』だったのか」と気付くパターンとでも言おうか。
 泰麒目線で進められていく話故に、読者の誰も「王気」を知らぬまま最後まで読み、後々「あの時のあれが王気だったのか」と気付くのだ。
 う~む……もっと発情フェロモンの様に分かりやすくはならんのだろうか。
 驍宗と泰麒が焚き火を囲んでいる場面で、ぽつぽつと不器用ながらに言葉を紡ぐ泰麒のあの愛らしさに胸がきゅぅうんとなりながら、「恋だよ!それが恋だよ!」と言っていたあの日の私よ。何をぬかすか。王気である。

 オメガバースとの類似点といえば、「男女間の差別」がないことである。
 これは『風の万里黎明の空』で色濃く感じたことだが、政治にしても武官にしても、男だから女だからという隔たりが無い。何故だろうかと考えるまでもなく、十二国では「女が子どもを産まない」。これに限る。
 使用用途は違うが「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言ったところか。十二国の仕組みは意外にも単純で、王と麒麟とそれ以外に分類される。(勿論例外や貧富の格差はあるが)麒麟に選ばれれば性別年齢関係なく、誰にでも王になる権利がある。ある意味で平等な世界なのだ。
 政の重役にも女がいる。将軍である李斎などが良い例であろう。男女共同参画社会基本法が施行される以前から、この様に男女がある種平等な世界線で生きている話を書くとは頭が下がる。
 これだけを言うと何故「女が子どもを産まない」ことが男女を平等なのかと言われるかもしれないが、これをオメガバースに置き換えてみるとどうだ。
 オメガバースは女のみが子どもを産むわけでは無い。男も妊娠出産が可能な世界線なのだ。
 誰も子どもを成さない十二国の世界と、誰もが子どもを成せるオメガバースの世界。
 似て非なる世界観ではあるが、男女関係なく子を成せるというシステムは、ある意味で「平等」と括ることができる。そう。オメガバースにおいて「男女」は平等なのだ。
 しかし、ここで最下層を見ると子どもを産むことに特化しているΩが何故か冷遇されている。男のΩなどは特に扱いが酷い例がある。
 子どもを生めるΩという性は貴重種であるにも関わらず迫害されているのは何故か。
 それは前述した体質による「発情期」が、大きな原因とされている。
 月一できて一週間も続くって、女性でいうところの生理ではないか、と知った時は思ったものである。
 このΩ性に対する考えは、女性に対する差別と似ていて、憤りを感じるものが多々ある。結婚したら仕事を辞める、出産で産休や育休とるから給料安くていい等、普通に人権もあり仕事も出来る人間が、性別や体質の問題で社会的地位を低くされるのだ。
 その一方で「仕込む」だけのα性は出世街道を驀進している。もしも十二国記がオメガバースの世界観であるなら驍宗や李斎は間違いなくα性であろう。
 このオメガバースでも「子どもを生む存在(Ω)」を見えないようにすれば、男女間は平等である。

 男女が平等な十二国に差別が無いのかといえば、そうではない。
 海客に関しては国ごとに考えが違うが、扱いは当然一般国民と異なる。楽俊の様な半獣に対する目も厳しい。それこそ次巻で登場する更夜はなかなかに酷い扱いを受けている。男女間の差をなくしたところで、差別というのはどこにでも転がっているのだ。
 これらは勿論想像の世界であるが、現実にある男女差別や人種迫害を彷彿とさせるものがある。
 創作の世界に触れた後で現実の世界を見ると、また違って見えてくるものがあるかもしれない。

 長々と持論を語ってしまった。
 たかだか個人の感想なのだから「とてつもなく可愛い黒髪美少年が運命の番を見つけ、もどかしく恥じらう初々しい姿に非常に萌えた」と簡潔に言えば良いものを。
 泰麒をひょいと、いとも簡単に軽々と抱きかかえる驍宗に萌えたと。
 「蒿里」呼びに心躍らせたと。
 あぁ、欲を言えば驍宗×泰麒のオメガバースが見たい。結局のところ、言いたいことはこれに尽きる。
 非常に偏った視点の感想で、純粋な読者の方には申し訳ないが、『月の影 影の海』とは違う意味でとてもドキドキする話であった。
 早く新刊を読みたいような、まだゆるゆるとこの平和な戴国に浸っていたいような、どっちともつかない心持ちである。

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