【十二国記】『魔性の子』の感想。

 『十二国記』を読む以前からTwitter上で聞き及んでいた情報は、「ねずみが出るまで頑張れ」と、もう一つ。
 「『魔性の子』は最新刊の前に読め」である。

 ねずみが出るまで頑張って、ものの見事に十二国記の沼へ誘われた私だが、『魔性の子』に関しては読むタイミングを見失っていた。というより、いつ手を出せばいいのかが、いまいち分かっていなかった。
 いや、「最新刊の前に読め」と言われているのだから、言葉をそのまま受け止めて最新巻の前に読めばいいではないかと言われるかもしれないが、「直前」ではなく「前」である。
 「最新刊の前」とは一体どこなのだ。

 公式のオススメ順に従えば0巻だが、『魔性の子』はエピソード0という訳では無い。
 確実に十二国と繋がっている話で、刊行順からすれば第一巻という位置づけである。
 しかし、読むには若干のハードルを感じさせる内容というのも知っている。
 そもそも私は0をすっとばかして

1. 月の影 影の海
2. 風の海迷 宮の岸
3. 東の海神 西の滄海
4. 風の万里 黎明の空
6. 図南の翼

 と、ここまで読み進めて来たのである。
 公式のオススメ順でいうところの5と7は短編で、本編にはあまり絡んでこないだろうと勝手に予測し、長編作のみを辿って来たのだが、『魔性の子』は短編の様な軽さも無ければ「外伝」といえるほど本編から外れているわけでもなさそうだ。
 失踪した泰麒の話で、『風の海 迷宮の岸』と深く関わっているのは知っているが、あの美しき愛らしい箱庭の様な話の続きが『魔性の子』という禍々しいタイトルで綴られているのが、なんとも言えず不気味である。
 ホラー小説を読み慣れている人は一番最初から読むと楽しめるかもしれないと聞いてはいるが、初見には非常に分かりにくい内容らしく、死者も出るというではないか。
 私は痛い話と苦しい話が苦手だ。
 しかし、この話を読まずに先に進めるのか。いや、進んで良いものなのだろうかと頭の端で常に引っかかっていた。
 何より『魔性の子』の話題をするだけでTLのフォロワーがざわめくのが気になって仕方ない。
 あと、純粋に驍宗様と泰麒のその後が気になる。
 あれだけ王気に満ち溢れた王と、能力の高い美しき黒麒麟の収める国が、現状荒れているという事実は、あまりに釈然としない。
 きっと『魔性の子』に何かしらのヒントが隠されているのだ。
 それに『図南の翼』の次は、短編を除けば『黄昏の岸 暁の天』である。そしてその次は最新刊が待ち構えている。
 「最新刊の前」という立ち位置は今と次を逃して他にない。
 ……ということで、Twitter上でこの様なアンケートを取り、先人の教えに従い『魔性の子』を手に取ってみた。

 相変わらず長い前置きで申し訳ない。

 さて、月並みの感想ではあるが、読み終わった後はよくもまぁこんな時系列で話を書けるものだと驚いた。
 これそのものが、一冊の読み切り作品として一番初めに刊行されていることが、本当に不思議でならない。
 そして次に思ったのは、これを読んだ当時の読者は、よくこれを読む気になったなということである。
 『魔性の子』→『月の影 影の海(上)』の流れは、主人公達は勿論だが、読者にとってかなり厳しくないか、と思うのだ。
 私は良いのだ。既にこの先の未来を知っているし、知ろうと思えば手に取れる位置に答えがある立場なのだから。なんなら高里要が発する謎の単語も理解できている。
 しかし、これが十二国記シリーズと名がついていない頃、この先の未来が描かれていない頃この作品を手にした読者は、何も把握することないまま本を閉じることになるのである。
 謎が謎のままで終わるこの不完全燃焼感に、モヤモヤしなかっただろうか。主人公の広瀬同様、高里要に置いて行かれた気持ちにはならなかっただろうか。
 元々ホラー小説とファンタジー小説という別ジャンルの話で、出版社も違っているのだから、発売当時から「十二国記シリーズ」と認識してこの0→1の流れで読んでいる読者は少ないかもしれないが、怪奇現象の理由や言葉の意味も分からない、まして続くとも知れないこれらの話を読んで、楽しいと思えたのかと問われれば、私は目をそらしてしまう気がする。
 未だかつてこんな不親切な異世界トリップものがあっただろうか。
 先人の教えに従い、陽子の話から読んでいて正解だったなと思う。
 私の読解レベルで魔性の子から入れば、『月の影 影の海』の上巻を読了する前に興味が失せ、そこからまた何年も本を開かずにいたかもしれない。
 実際のところ、十二国記の単語も世界観も知っていたからこそ読めた話と言っても過言ではない。
 読了後の爽快感がたまらない!と思い読み進めていたシリーズのはずだが、今回残されたものは不可解な言葉と虚無感。何の解決にも至らず放り出された疑問の数々。
 感情が動かされたのだから、これも一種の「感動」と言うのかもしれないが、「ホラー小説とは一体何なのだ」と全て読み終わった後、ネットで検索を掛ける自分がいた。
 謎が謎のままで終わる不快感が凄い。
 いや、私は彼がどこに還ったのかも知っているのだが、「ホラー小説」というものは解き明かされない怪奇現象が立て続きに起こり、理不尽に人が何人も殺されるものなのだろうか。
 それらの理屈を知るために有名なホラー小説を読むことは大変骨が折れる作業なので、とりあえず検索した結果、

「人は正体が見えないものや理解できないことに恐怖を覚え、その恐怖の本質がわかれば、恐怖は消える」

 という一文に辿り着いた。
 つまりこの『魔性の子』は、理解の出来ない生き物や人物が登場するからこそ、ホラー小説として成り立っているということになる。
 なるほど。
 私の心境を作中の広瀬の言葉を借りて言うならこうだ。

「レンリン、ゴウラン、エン王、タイキ、分からん言葉だらけだ。解説してくれ」

 本当に。唐突すぎてどこから突っ込めばいいのか分からん。
 とりあえず解説してくれ。
 終盤いきなり自分は麒麟なのだと告白されて「はい、そうですか」と受け止める人間はそうそうおるまい。
 急にファンタジーをぶっ込んできおったな……となるのだが。
 何より伏線が何も回収されずに終わるのが、この上なく気持ち悪い。
 漸く色々なことが分かり始めたところで嵐が全てを飲み込んで消えていくのだ。
 広瀬同様に、読了後取り残された感情を覚える読者は少なからずいたのではないだろうか。
 まぁ、これは私が仮に十二国記を知らずに読んだらこうなるだろうという例え話なのだが。
 彼らが何のために存在するのかという理由を知りたがり、恐怖を恐怖として受け取ることが出来ていない私とホラー小説は、根本的に相性が悪いことになる。
 結局のところ、何も明確にされていない。
 この十二国記の世界観を知り、ある程度言葉を理解した私でさえ、何故泰麒が現代にいるのか、何故汕子や傲濫があれほど無差別に人を手に掛けるのか、そもそも何故彼らはこちらの世界へ来られているのか、廉麟とは別行動なのか等々首を傾げる点が多々ある。
 これが十二国記の始まりなのか……。
 この疑問が解消されるのは10年後に発売される『黄昏の岸 暁の天』なのか……。
 途方もない先の話過ぎて、一体作者の脳内はどうなっているのだ。
 刊行された順番を確認し、改めて驚く。
 完成度の高い話を書く作者は最初からゴール地点を決め、そこまで駆け抜けていくというが、魔性の子を書いた時点で最新刊の内容は脳内にあったのではないだろうか。そうでなければ、到底書ける内容とは思えない。この時点で既に完成されすぎている話なのだ。
 それにしても、十二国記の読者達はよくあの長い間最新刊を待つことが出来たなと思う。
 私は最近ハマったばかりで本当に良かった。もしもずっと前から、それこそ発売当初からの読者だったなら、このモヤモヤをずっと抱え続けることになるのだから。

 十二国記を読み始めた時は、陽子の話、泰麒の話、とそれぞれ国も違えば主人公も違うため、
 (なるほど。慶、戴、雁とそれぞれの国が話ごとにピックアップされているのだな。)
 と思っていたのだが、この『魔性の子』を読んで、本編は陽子と泰麒の2ルートあり、全ては戴に繋がっているのか……ということに気が付いた。本当に今更な気付きだなと思われるかもしれないが。
 上記にも書いたが、私は陽子→泰麒→延王と延麒→再び陽子→供王の順番で読み進め、毎回国も違えば主人公も違う話を読んで来たわけだ。
 視点が変わることにより、色々な立場でこの国の仕組みを学び、より立体的にこの世界を知って来た。
 その上で『魔性の子』読むと、おや…?となるのだ。

 今までの話は全て戴国のための伏線では……?と。

 読む前は『魔性の子』を外伝の様な話だと勝手に思い込んでいたが、むしろ外伝と呼ばれる位置づけは『東の海神 西の滄海』『図南の翼』ではないだろうか。
 2回も主役を張ってきた十二国記の顔と言える(と私個人が勝手に思っている)陽子も、泰麒を手助けするために必要な人物として、二作品目から登場したのではないだろうか。
 泰麒を動かすためにはアチラの世界で協力者が必要。それは泰麒を理解できる人物しかいない。よってコチラの世界から陽子を召喚する。その陽子を助けるためにも良き理解者が必要。そのため延王と延麒(2人とも胎果)を用意する……本当にこの話を読むまで驚くほど全く気付かなかった。
 下準備が繊細且つ大掛かり。
 例えて言うなら、今まで点々と置かれた一つの絵を眺め感嘆していたが、それは作品の一部でしかなく、少し離れて眺めると巨大なモザイクアートだったという感じだろうか。
 一つ一つの話の完成度が高すぎて、私は本当にその一部しか見えていなかったのだが、作者の見ていた世界はもっともっと広いものだったのだ。
 すると『魔性の子』は絵でいうところのラフスケッチということになるのだろうか。
 作者しか完成形が見えていない線画を、読者がなぞろうとしても、それは無理な話である。
 点と点を繋げる作業をしようにも、出来るはずがない。
 よって、『魔性の子』は私にとって理解し難い内容であることに間違いはない。

 何がそんなに疑問なのか、といえば初っ端の五言古詩(と言うのだろうか)からしてまず意味が分からない。
 漢文の読み方など大昔に習ったきりで、仮に当時の知識を寄せ集めたとしても、全くもって読めやしない。
 (はは~ん。これは恐らく話の最後に解き明かされるのだな。『月の影影の海(下巻)』みたいなアハ体験があるのだな。ふふふ。)
 と、本を開いた当初は思っていましたとも。えぇ。

 しかし、読み終わったところで、これが全く分からない。

 書き下し文に直っただけで、何のことだかちんぷんかんぷんである。
 漢文の知識があるならまだ理解出来たのだろうか。
 「鰲身」は傲濫、「魚眼」は白汕子と勝手に予想は立てられるが、他はさっぱり訳が分からない。
 そもそもこれをホラー小説として手に取った発売当時の読者は、この漢文を見て頭上に疑問符が浮かばなかっただろうか。
 恐らくこの布石も、この先の話で回収してくれるのだろう。
 もしも回収されないのであれば、ただ単にこの時点で私の理解が足りないだけかもしれないが。

 さて、ここまで長々と書き下している割に一切本文についての感想が無かったことに気付く。
 上記にも書いた通り、痛い話や苦しい話、また理解し難い話が苦手な私には、単発の作品としてあまり向いていない話に思えた。
 それこそ、何かしらの事件が起こる度に「ショートコント~こんな教育実習は嫌だ~」という言葉を付け加えながら読んでいたくらいである。
 なんでこんなことに……と作中、そして読者の誰もが思ったであろうあの悲惨な内容。
 誰も幸せになりゃしない。
 唯一の救いは高里要が最後自分の在るべき場所へと還れたことくらいだ。
 ついでに、現在ちょっとした教育職に就き、昔短期間ではあるが教育実習も経験した我が身から言わせてもらうと、色々あり得ないことが多い。
 正直あの学校の先生達の心境を思うと、胃が痛くなる。
 言わずと知れた話だが、『魔性の子』の主人公は現代の教育実習生である広瀬である。
 おそらくこれは個人情報の取り扱い等が色々とゆるい時代なのかもしれないが、一教育実習生があの様に自由に生徒宅を訪問して良いものかと、常に脳内の冷静な自分が突っ込みを入れていた。
 まぁ時代錯誤というのはどんな作品でも起こり得るものなので、あまり深く考えてはいけない。
 現在進行形で行われている実習よりも、一生徒である高里要の存在の方が自身の思考の大半を占めているというあの余裕振りは、なかなかに肝が据わっていると思う。
母校だとしても、顔見知りの教師陣だとしても、仮にも教育実習先であぁも自分勝手な行動が出きるものだろうか。
 あぁそうなのだ、広瀬は自分勝手なのだ。

――人が人であることは、こんなにも汚い。

 と、広瀬自身も言っているが、広瀬の行動の全ては広瀬自身のエゴであり、誰のためでもなく自分のためなのだ。その行動の一部が高里要のためになっていたとしても、なかなかに思い切った行動に出るなと感じた。
 実習先の生徒と一時的に同居など、冷静に考えてあり得ないのだが、広瀬の思考ではそれがあり得たわけだ。広瀬の存在のおかげで高里要という一人の人間が救われていた部分もあるかもしれないが、それは逆も考えられる。
 自身を勝手に孤独だと思っている人間や、人とは違うと思い込んで孤立している人間の話をみると「一匹狼の会」という矛盾の利いたジョークを思い出すのだが、正しく彼は、自身の傷を舐め合える仲間を求めていたのだなと。
 しかし高里は仲間ではなかった。勝手に同郷心を抱き、高里だけ在るべき場所を見つけ帰えることに憤りを覚える。
 さて、ここで楽俊先輩のあの言葉を思い出そう。

「陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることはなんの関係もないはずだ」

 頭で理解していても心がついていかないことはままあるだろう。
 仕方ない。それが人間なのだから。全ては広瀬が勝手に思い込んでいたことなのだ。
 「……俺を置いて行くのか」という言葉が広瀬から高里に向けた感情の全てを集約している。この人間臭い思考が、この世の者なのだという証明に他ならない。
 高里(麒麟)と広瀬(人間)では住む世界が違うのだと突きつけられ、この物語は幕を閉じる。

 作中の集団心理の恐ろしさや、思考の追い詰め方が容赦なく、最初から『魔性の子』→『月の影 影の海』の順で手を出していたら、本を投げていた気がする。
 小野先生は読者の思考さえも振り回してくれる、恐ろしいお人だ。
 十二国記の全体像が見えてきたところで、次はいよいよ本編最大の盛り上がりを見せると噂の『黄昏の岸 暁の天』である。
 楽しみだが、読むのが勿体ないような気さえしてくる。
 一先ず、本編読みたさにすっとばかしてしまっていた短編集を先に読んで、心の準備をしておくことにする。

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