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私は自分が頑張っていることをうまく説明できない。

現在無職。女。39歳。独身。彼氏無し。福岡生まれ。東京在住。

足が死ぬほど痛くて立っていられなくなった。腰が痛くて多分ぎっくり腰だけど、それでも休めなくて。実家に帰省するから休むと言えば「何かあったの?」と言われ。帰省しにくい。休み取りにくい。

何のために働いて、私は生きてんだ?

と思ってしまったら…なくなってしまった。
「働く理由」
辞めたいと言ったら、何で働こうと思ったの?と言われた。

年齢的に、正社員で働いた方が世間的にいいと思ったから。

その1択だった。そりゃ続かない。育休取れるからとも思った。予定もなかったのに。続ける理由ないよね。

でも、生きるために働かなくてはならない。久しぶりの就職活動。久しぶりの面接。

2つ落ちて、ふと思った。私は今まで何を頑張ってきたのか。上と比べたら切りがなく、私はもしかして頑張っていなかったのか?と。

今までの人生どうだったかな?

初めての上京失敗

私が東京に来たかった理由。
ミスチルが好きだったから。
ミスチルが好きだったから東京に住みたかった!
安易!実に安易な理由。
高校を卒業するにあたり、商業高校に進学していた私は「就職」1択だった。
家庭の事情もあり、ミスチルが好きだったから大分から東京に就職したかった。成績が中の中でほぼ努力していない私に「大学進学」の選択肢はなかった。

就職先は東京のスーパー。

就職先の条件は東京が勤務先であること1択。
他に要望も無かった私に、前年の先輩が就職した会社を先生が進めてくれた。

東京。新宿に寮があり寮費は12.000円。給料は手取りで180.000円。深くは考えずに応募して採用された。

就職先が9月には決まり、11月には自動車学校も卒業した。12月、保体の成績で欠点をとった。授業中ずっと寝ていた私はノートを提出出来なかった。

欠点をとった学生が集められて先生に
「欠点をとった者は、自動車学校に行かないように!…卒業した者もいるみたいですが、しっかり反省してください!」
と言った。それ、私に言ったよね?目があったよ。

罰が罰にならない人生…なんだかなぁ~。

4月無事に上京!東京最初の生活拠点は「西新宿」

今ならわかります。贅沢なのよ。無謀なのよ。初東京で住む場所じゃないのよ。歌舞伎町から歩いて10分の場所なんて…18歳の未成年が。

会社に入社したのは、ミスチルが「IT'S A WONDERFUL WORLD 」を発売した年。桜井さんが病気になった年。

滞りなく働いて。個性的で楽しい同期に囲まれて…
それなりに楽しく働いていました。

ある日会長かお店に巡回?がてら新入社員にあいさつに来ました。
私は笑顔であいさつしましたよ。
そしたら会長がニコニコしながら、
「まぁ、3年頑張りなさい。そしたらちゃんと相手探してあげるから」
と、言った。

え?
頼んでいないんですけど?
強制職場結婚ですか?
確かに、確かにここは職場結婚ばかりですが…
そんなカラクリがあったのか…

その晩私は部屋で思いました。
「ここにいたら、結婚させられる…」

結果辞める決意を固め。家庭でも色々あったので仕事を辞め、私は大分に帰ることにしました。

今思えば、お金貯めて東京で転職すれば良かっただけなのになー。

まぁ、良いんです。その後大分で仲良くなった友達に出会えて私は嬉しかったので!

私が東京から大分に帰った日は、桜井さんが病気から復活して1日限りのライブを行った日でした。

なんだかなぁ~縁があるのかないのか。

いや、でもさ19歳の上京したての女に「結婚相手探してやる」はきついよね?友達なんて会社の同期だけなのに!

かるく流して、もっと頑張れたのかな?

私は頑張っていないかったのか?

でも私、東京にいる間親から頼まれて10万仕送りしてたんだよ!

これは面接で言ってもしょうがないよな。

私と家族と狂牛病

私の父は大分で焼き肉・しゃぶしゃぶ屋をしていました。私が中学1年生の時に始めたので、私が小学校を卒業したタイミングで福岡から引っ越しました。
元々働いていた会社のお店を1つもらった形でした。

何年もたち、色々あって今はありません。

私が大分に帰って少しして潰れました。大分に帰ってからはずっと給料もなく、父の店を手伝っていました。

私が高校生の時に色々あって元の店より小さくなっていたのですが、狂牛病に負けました。売上もなく借金がただただ膨らむ一方。

父に巻き返す案など思いつかず。

店を閉める3ヶ月前から、私は駅のパン屋で働いて給料を手に入れることにしていました。パン屋で働いた後、父の店で働く生活。

ある日母から電話が入っていました。
「今日は店休むから、そのまま帰ってきて。」
と。

家にはただ黙って座っている両親がいました。

店は閉めることにした。

その日両親は2人で自己破産しに行っていたのです。

まぁ、ある話ですかね。でも、私はガッカリしましたよ。まぁ、そうなりますよね。今の私から見ても父には何のてだてもなかったから。

その日の夜に、知り合いのアパートに一時避難。何せ借金取りが家にきますから。自己破産した通告が行きますからね。ほとぼりが冷めるまで夜逃げです。

一家五人。高校生の妹と中学生の弟。この家族の生活費が私のバイト代1つとなりました。そこから私はバイトを即2つ増やし、朝5時から夜24時まで働き続ける生活が始まった。

父親は、私が仕事辞めず正社員だったらお金借りれたのになと言い。
母親は、お金が必要になると私に借りに来た。

私のその頃の日課はただひたすらミスチルの「いつでも微笑みを」を聞くことだったな…。

起きれなくてパン屋遅刻よくしてて、大体生活が落ち着いた時にパン屋の社員に「いいかげんにしろよ」と言われた。これ以上迷惑かけれないなと思いパン屋のバイトを辞めた。

遅刻しない様に頑張り続けたのよ!目覚ましだって数増やしたし!その結果遅刻してしまうのよ。もう潮時だ。元々体力ないんだから。

私は頑張っていなかったのか?

でも、どうしても返さなきゃいけない100万は返したんだよ?

これも、面接で言ってもしょうがないよな。

私と家族と

まぁ、そんな感じで理由をつけて大分から逃げたかった私は33歳でまた上京した。
どうしても東京で暮らすことを諦められなかった。
家族とは、少し距離をとった方が優しくできる。たくさん貸し続けたお金は帰ってこないだろう。

自己破産した両親を見た時、私は結婚しちゃいけないんだろうなと思った。結婚相手に申し訳ないからなって1人で完結していた。

でも、妹が結婚した。意外といけるみたいだ。
うちらも結婚していいんだ。ちょっとほっとした。

父親は店を潰した後、トラックで配送の仕事をしていた。おばあちゃんがぼけて、おじいちゃんと離婚した。

父親が引き取ったがぼけて病人のおばあちゃんの介護を理由に仕事を簡単に辞めた。ボケがひどくなってストレスで父親のお酒の量が増えて、彼は脳梗塞になった。右半身が不自由になった。父親の事は嫌いじゃないが、ゴミだなぁ~とは思う。

弟は父親に厳しい。良かった。私だけがイライラしてたわけじゃなかったんだ。そして私にいう。「父親はどうなっても知らんけど、母親は可哀想やけん、母親は助けるよ」と。

私達は充分大人になったんだなって安心した。
20年前は私が助けなくてはいけない私しか助けられないと思っていた人達が一緒に助けれるようになったんだ。

私は1人で頑張らなくても大丈夫になったんだなと。

コロナのワクチン接種が始まった年の8月15日。この日は朝から色々ついてなかった。珍しくなんだか虚しい気持ちになって肩を落とした。

家に帰り着いた頃、母親から電話がかかってきた。
祖父が死んでしまった。
悲しかった。本当の身近な人間が初めて亡くなった。そんなつもりはないのに、自然に泣き続けた。

私はちゃんとおじいちゃん好きだったんだな。

改めて実感した。

どんなこともいつかは終わると。

今年母親は60歳になった。
還暦。

お祝いしたいと思った。

両親が動く事が面倒にならないうちに、出来る限り色々連れて行けないかなと思った。

家族5人で熱海に旅行に行こうと誘った。
妹も弟も結構な大人だから、嫌がって話は進まないかと思った。
予想に反して乗り気で、母親と3人で計画を立てては連絡してきた。
久しぶりの家族旅行だな。

旅館代と飛行機代、グランド花月でのよしもと代は私が出した。

他は妹と弟が出した。

多分喜んでくれたと思う。

私は頑張っていると思うんだけどな?

過去を振り返る

東京に就職して、たくさんの同期がいた。田舎からの就職者と社員の子供しか雇わない会社で、全員高卒の田舎の子達だった。

1人はネットで見つけた謎の彼氏に貢いでいた。ホストにも通っていた。
1人はおたくで、一生懸命秋葉に通ってはグッズとゲーム、ライブ。東京を満喫していた。部屋は片付けれない子で凄かった。
1人は社内で自分で彼氏を見つけて結婚した。
1人は寂しさの余り、多分宗教に入った。確認は出来なかったけどいつの間にか部屋に聖書を置いていた。

私だけ何もなかった。東京に居る目的が私だけ極端に少なすぎた。

大分に帰ってから、私はスターバックスで働いた。珈琲を覚えた。エスプレッソマシンを使ってドリンクを作る楽しさを覚えた。
カプリチョーザで働いた。パスタとピザを覚えた。
イタリアが他の国より好きになった。

ローソンで働いた。面白い人達に出会った。色んな人生があることを知った。一目見て絶対面白いと思った人に出会った。最高に面白くて、私の何倍も頭が良くて結婚して離婚した。今でも仲良し。

結婚してくれると言ってくれる人が現れた。私は彼に自分のことを、家族の事をなにも話すことが出来なかった。

このままだと結婚する事になる…ヤバいと思った。

相変わらずミスチルが好きだった。
ミスチルのLiveに行って、1人で賭けをした。
今日このLiveで「simple」を歌ったら、来年仕事を辞めて東京に行こうと。

ミスチルは「simple」を歌った。

私は東京に行くことに決めた。結婚から逃げた。
彼は別の人と結婚した。子供が3人産まれたらしい。やっぱり彼と結婚するのは、私じゃなかった。間違ってなかった。安心した。

東京に引っ越して最初は自由が丘に住んだ。シェアハウス。すぐに隣の多摩川駅の近くに引っ越した。学芸大学のスタバで働いた。皆仲良くしてくれて東京から帰りたいと思うことはなかった。

エスプレッソマシンでドリンクを作る事を諦められなかったから、スタバから転職した。

私が1番やりたいこと・好きなことは
「エスプレッソマシンでドリンクを作って、常連のお客様に喜んでもらうこと」
だと気がついた。イメージは、イタリアのバールだった。

東京で居心地の良い場所に引っ越した。出来る限りこの土地に住みたいと思った。

海に簡単に行ける事を覚えた。山に囲まれて生まれ育ったから海への憧れが大きかった。最高だと思った。

ここまで自分の好きなこと、やりたいことがハッキリするまで39年かかった。東京に来て良かった。私は東京で生活したい。

今失いたくない生活を失わない為に私はこれからどう頑張って行けば良いのだろう。

歌を歌う。

私は毎日家で歌っています。3月から4月にかけて私が好んで聞いていたミスチルは「旅人」と「worlds end」です。この2曲はかなりの再生回数です。なぜこんなにこの曲を聴いていたのか。自分の心情を合わせて出した答えは「多分私は今この状況を本気で変えたいと思っているのだろう」です。過去を思い返しても、だいたい4月に「旅人」を聴くことが多かったように感じます。たまたま4月かぶりだったのか。
でも大体この曲を聴くときはこの部分を聴いて歌いたいから。

「どうせ駄目ならやってみよう 数え切れぬ絶望を味わった 夢を追う旅人」

何かに挑戦したいとか、こうしたいとか何かしらの野望とか願望があるときこの曲を聴いています。東京に行きたい!!と思っていた時もこの曲を聴いていました。単純ですね。

12月は何を聴いていたか考えていたら「Documentary Film」でした。アルバムの中で一番聞いていたんですけど、今は「Brand new planet」に変わってます。

季節も関係あるのかもしれませんね。皆さんは何を聴いてるんでしょう。そして何をうたっているのでしょうね。

必ずしも新曲というわけでもないはずなんです。今の私の様に過去の曲を引っ張り出してきて聴いてる人もいるはずなんです。そんなことをここ3日考え続けてきました。

この間本当に嫌な事があった時「ヒカリノアトリエ」を歌いました。

私は自分を自分で励ますために歌う。人に話したり泣いたりももちろん励まされます。でも、歌ほど今の自分にピッタリの言葉で励ませる事なんで誰にもできない気がします。

これからも、私は私を励ますために家でひっそり歌うことにします。良い曲とであえますように。

歌って励まして、やるしかない。
人に誇れるほどの、成果ですとみせることの出来るほどの頑張りがないのだから。

これから

さて、元に戻って仕事を辞めました。
只今絶賛失業中。

一人暮らし。仕事がないことにささやかな不安はあります。

でも2つ面接に落ちても、仕事やっぱり辞めるんじゃ無かった…という後悔は1度もでてきません。

確かに辞めることを決めたとき、びっくりするくらいスルッと未練も何も感じませんでした。

不安もあるけど、何とかしてお金は稼ぐ方法はあると思いました。何せここは東京。

仕事はたくさんあります。

信じましょう。自分の歩く道を。今までも何とかなったんだから。

他人からみて頑張ってみえなくとも。

私は頑張ってるよね。

39歳。何もなし。やるしかない。

これからの人生で今日が1番若い日なのだから。

#創作大賞2023
#エッセイ部門

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