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「VRChatのアバター」に対する個人的な捉え方についての考察

自分にとってのVRChatが「イベントがある時に行く場所」から「とにかく理由をつけて居る場所」に変わってからだいぶ経つ。まだ「チュートリアル」は突破していないが、そこそこ長く遊んでいると、比例するように所持アバターが増えていき、改変の技術も身についていく。

では、いろんなアバターを買い、自分好みに改変するようになってから、自分にとってのアバターはどのようなものになったのだろうか。どう捉えているのだろうか。

少し気になったので、いろいろと考えてみることにした。ことわりを入れておくと、以下の長々とした文章は僕個人の見解であり、VRChatユーザー全体の見解を代弁するものではない。

「パーソナルカラー」の考え

なにかに使う予定だった素材

僕にはもともと『カスタムオーダーメイド3D2』で作った自分のアバターがあり、これが自分の中でかなりフィットした「肉体」だった。この「肉体」の愛着があるので、アバター改変時にはその面影を継承している。
具体的には、「水色の髪」「金色の瞳」を身体的特徴として定義し、しっかり使う予定のアバターはこの2点を必ず盛り込んだ改変を行っている。

自分ルールで改変したメリノ(左上)、舞夜(右上)、シエル(左下)、AR-15 blaze(右下)

厳密にカラーコードを指定していじってるわけではないので色はまちまちなものの、基本的に「髪」と「目」はこのパターンで統一している。なんとなくだが、「水色の髪と金色の瞳」という組み合わせが、自分の中で「パーソナルカラー」として定着しているような気がする。

シャア専用ザクⅡのHGUCってめちゃプレイバリューありますよね

最近気づいたのは、市販アバターにパーソナルカラーを適用する考えは、量産機のモビルスーツを自分のパーソナルカラーで塗るのと似ているような感覚がある。シャア・アズナブルがザクⅡをはじめとした乗機を赤く塗ったように、素体たるアバターを「自分の色」で染めているのかもしれない。自分の場合、その動機は「存在の誇示」というより「自己性の一貫」のだろうけども。

こうしたある種の「パーソナルカラー」をアバターに適用している人は、VRChatには意外といそうな気がしている(実際尋ねてみて「ありますね」と答える人はいた)。いくつものアバターを使い分けていても、遠目から見て「あの色はあの人だな」と思う人、フレンドに一人はいないだろうか。あとはワンポイントアクセサリーとか。

「普段使いアバター」の考え

2021年11月ごろの日産環境ツアー参加中の浅田
最近のライトセイバーを手にする浅田

最近は「路地裏で薬を売ってる人」と評された改変のメリノちゃんを使っている。ちょっと前まではミリタリードレスを着ていたものの、いまやチャイナ風のシャツとだぼパンツというスタイルだ。ついでに丸サングラスも添えて怪しさもプラスである。
変化としては「怪しさ」「パンツスタイル」だろうか。「怪しさ」は自分の中でピンときた要素で、「かわいさ」よりも重視したくなった。「パンツスタイル」はそこまでこだわりがないけど、最近VRChatでは座りっぱなしなシーンが増えたので、この方が落ち着く気がする。

「サイゼリアで喜びましょう」

あと、自分の中である程度の「カッチリ感」もなにか志向性がある気がする。舞夜ちゃんは『ブルーアーカイブ』のミレニアムサイエンスをオマージュした改変をしてみたけど、自分の中で「なんかビシッと決まってる感じ」があってお気に入りだったりする。でも普通にミニスカなのでおカタい感じはないはず。

ニヒルな笑い

最近買った子だとAR-15 blazeはデフォルトで「自分にハマってる」デザインだったりする。この子はフォーマルという感じはないものの、なにか一つ軸を貫く「かっこよさ」が感じられて、なかなかによい。

こうした傾向を考えるに、最近ある人に「カズラさんは雑然とした気質がある」と指摘されたのがひとつヒントになりそうだ。
ネクタイとかでなんか「なんかビシッと決まってる感じ」を出しつつも、全体で見ればボタンをきっちり閉じないとか、シャツをちゃんとinしないとか、ダボッとパーカー羽織るとか、そういった感じの「だらしなさ」がナチュラルに出ている……という仮説。
自分にとっての「なじむ」は、「取り繕わないあるがまま」に宿っているのかもしれない。お察しかもだが、リアルはユニクロボーイである。

「(あまり)誰にも見せないアバター」の考え

シエルちゃんは普段着モードもかわいい

普段遣いのアバターが前節のような感じなので、逆に「かわいさ」に振り切ったアバターは持っていない……と見せかけて、持っている。そこそこ持っている。上記で一例で挙げたシエルちゃんもその一体。

クラシックメイド服 "Lily Bell"

そして特にその典型例がクラシックメイド服のルシナちゃん(ご丁寧に浅田パーソナルカラー)だったりする。あまりに可憐でほんとに"善い"。一度「なって」みたが最後、あまりに可憐すぎる姿に軽く恍惚をしたのをおぼえている。

しかし、このメイドルシナちゃんは普段使いしていない。なにかしらの話題が出た時とかに、短時間切り替える形で使っている。理由はこのアバターを纏う「格」が追いついていないと自覚しているからだ。
ここまで可憐な姿だと、動き、姿勢、仕草、リアクション、あわよくば声もアバターに合わせたいと思う。しかし、両声類でもボイチェン族でもない自分はまず声を合わせられない。なのでせめてもと、動きとか姿勢をチューンすることにしている。その姿を見たあしやまひろこさんから「女装をはじめたての慣れてないあの感じ」と指摘されたのはナイショ。

自撮りの枚数がすごいことになった記憶がある

こうした考えはなにか思想あってのものでなく、単に「完成形をこだわりたい」という自分の欲求にほかならない。完成には程遠いゆえに、あまり表には出せない。たぶんこうしたアバターは「普段着」ではなく「勝負服」とか「コスプレ」に近い考え方を抱いているのだと思う。
そして、「コスプレ」と捉えているのであれば、人と会って話す時に使わず、invite onlyインスタンスで自撮りする際に積極的に使う、という使い方には納得ではある。実際、これらのアバターで人前に存在するのは、まだ落ち着かない。

「ひとつの存在」として確立してる(ように自分に見える)アバターについて

ただ、なかにはアバター改変に手がつけられない子もいる。
多くは単にコンセプトやインスピレーションが湧いてこないので改変できないやつだ。「買ったはいいけと積んでる」アバターのまぁ多いこと。いずれ地獄に堕ちるものと覚悟している。

卯兎デフォルトカラー

一方で、「確固たるひとつの存在」として自分の中で確立してしまったので、改変の手がつけられなくなったケースもある。
例えば「テアトロ・ガットネーロ -The Auction-」で見た卯兎はそのひとつだ。僕の中では、「ガットネーロの舞台で見たあの"卯兎"」が強烈にイメージとして残ってしまい、オリジナルからの派生(=改変)がまったく想起できなくなった。ちなみにシルヴィアとリリエも同じ事象が発生している。そのぐらい、「存在の確度」が激烈に高かったのだ。モーションアクターという仕事のすごさよ。

あと、ひゅうがなつみかんアバターの中で、まりえるちゃんだけは自分では「なれない」のではという強迫的な感覚がある。まりえるちゃんは一目見てからかわいすぎて気が狂いそうになったのだけど、それゆえに「生きた存在」として見なしてしまい、アバターとして採用できなくなっているのではないか……と自己分析している。

ガットネーロの記事でも書いたけど、僕はあの舞台で「アバターとはそれ自体一つの存在では?」という仮説を一つ抱いた。そこから派生し、アバターを「着る/纏う/使う」という行為は、アバターという一個の存在を「間借り」するような行為ではないかとも考えている。悪役令嬢転生モノであるような、「乙女ゲームのあのキャラクターに自分がなった」と、本質的には同じではないのか、という話だ。
そうなると、アバター改変という行為は、ひとつの存在に憑依した上で、自分好みに容姿をセットアップしていく行為なのかもしれない。そう書くと、非常に罪深いというか、「憑依TS」めいた業の深さを感じてしまう。

とはいえ、前節で書いたような自分の習性を踏まえると、「思い描くイメージと現在の自分との乖離」を極端に感じた結果なのかなとも思う。なにかイメージに接近できるブレイクスルーがあったり、乖離を無視できるような方法が思いついたら、取り扱いを変えるかもしれない。

「バーチャルな自分」はどこまで増えるか

最近お迎えしたサフィーちゃんは普段使いになるかどうか判定中だ

自分の場合、普段使いしているアバターも、そうでないアバターも、ある程度共通しているのは「自分からどこまで派生し、どこへ着地しているか」を意識しているのだろうかと、この記事を書き殴っていて思い至る。

「Ready Player Me」のようなデジタルツイン寄りのアバターと比べると、VRChatで主流なアバターは確実に現実の自分から離れた存在になる。だが、「現実の自分」と「バーチャルな自分」の距離は、必ずしも「自分との乖離度合い」と正比例を描くわけではないと思う。
ハマるアバターは、どれほど現実の自分からかけ離れていても、「ケの自分」として違和感なく受け止められる。一方で、コスプレのように感じる「ハレの自分」は乖離感をやや抱くけど、しかしハレの日の姿であるために「なってみたい」という欲望が生じる。そして、現時点の自分では「この子は"自分"にはできない」という感情が生じることもある。

いずれのケースであっても、それらはすべて「バーチャルな自分」なのだろう。「バーチャルな自分」とはなにか? スリープ直前のキズナアイの回答が、いまの自分にはこれ以上となく腑に落ちる。

――「バーチャルYouTuberとして活動を開始し、今やみんなVTuberと名乗るようになりました。キズナアイさんの影響がかなり大きいと思います。アイさんの中で今の「バーチャル」はどのようなものだと思いますか?

キズナアイ:
私にとっては「当たり前の場所」ですけど、人間のみんなにとっては「なりたい自分」「挑戦したい自分」「もうひとりの自分」になれる場所だと思います。いまは正直、「バーチャル」の方が不便じゃないですか。やりたいことをひとつするにも、準備やいろんな人の手が必要です。でも、私が生まれた時よりも、今はもっと手軽で身近なものになっているじゃないですか。だからやっぱり、素敵な、みんなの次の世界なんじゃないかなって思います!

「キズナアイさんからMoguLive読者に向けて 活動休止前のラストメッセージ」より引用

普段使いのアバターは「もうひとりの自分」あるいは「VRChatにおける自分」で、たまに見せるアバターはおそらく「なりたい自分」か「挑戦したい自分」なのだろう。

そして、「バーチャルな自分」は複数個所有できる。所有というより、「発生」と呼ぶ方が適切だろうか。VRChatのワールドインスタンスのように、現実の自分をブループリントとしたインスタンスたちが、僕がVRChatで用いる「バーチャルな自分」としてのアバターなのかもしれない。

となると、関心が湧くのは「バーチャルな自分」はどこまで増やせるか、ということだ。それは、「なりたい自分」「挑戦したい自分」「もうひとりの自分」を、これからどこまで増やせるか、ということだ。もっと言えば、アバターの使い分けにとどまらず、声や動きにまでメスを入れて増やしにかかるか……「やれるのであればやりたい」が、たぶんいまの自分の答えだ。

「自分を増やす」という行為は、きっとイレギュラーなものだ。あまりやりすぎるとそれは人体実験に近いものになるだろう。自分を被検体として、どこまでこの実験に取り組むか。深刻なリスクを抱えない範囲で、やってみたさはある。

「"私"は私から見てどこにある?」

と、長々と書いてみたものの、これらを常に意識して立ち回っているかと言えばそんなわけはない。アバターミュージアムに行けば興味本位で試着することもめずらしくない。
ただ、根っこには横たわっている考え方な気がするので、今後はもうちょい「自覚」しながらVRChatをしてみてもおもしろいかもしれない。

ちなみに、ここまで書いてきた考え方が「VRChatユーザーの一般的な考え」ではないことは、最後にあらためて書いておく。
実際、人にアバターについての考えや捉え方を尋ねると、自分とは全く異なる考え方が返ってくることが多い。ユーザーひとりひとりに、アバターに対する思想があるはずで、それはちょくちょくぶいちゃ上で聞いてみたいところ。

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