「読書という荒野」の先にあったもの
「読書という荒野」書評第二弾です。
今朝までかかって8割がた書き上げた下書き原稿。保存し、あとは帰宅して推敲しアップしようと家を出て。
通勤電車の中で大阪を中心に大きな地震が起きたことを知りました。
出社し現地の状況や店舗、スタッフの安否、友人知人を気遣いながら働き帰宅。書きかけの原稿を読み直し。
書き直そう。
「今」の気持ちをつかまえながら、大幅に加筆修正しています。
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「読書という荒野」(幻冬舎)を読み、いてもたってもいられなくなって書いた書評。
第一弾を書いてから、Twitterでみつけたこんなつぶやき。
すぐにコメントを差し上げました。
石川さんがおっしゃる、「相手にどう思ってほしいか」「何を伝えたいのか」と向き合った数日間。
”ケンケン”こと著者の見城徹さんの言葉を借りるなら、「ここではないどこかにいきたくて、自分ではない誰かになりたくて」物心がついたころから読書をしてきたわたし。
すこしだけ、自分のこれまでをお話しします。
父はわたしが生まれてすぐに事業に失敗し、借金を負いながら自営の道を選びました。2歳年下の妹が生まれてから母の負担が大きかったこともあったのでしょう、わたしは母方の祖父母宅にいつも預けられていました。
幼心にも自分の父や母が大変であることがわかっていたので、とにかく迷惑をかけないようにと考え、預けられるたびに本を静かに2階で読みながら、一日を過ごしていました。
静岡の小さな借家と違い、母の実家である横浜の家は大きく、祖父も健在で頂き物のウイスキーやヨックモック、風月堂のゴーフルがいつもあって、世界文学全集が全巻そろっていました。
ハイカラな祖母や祖父が元町や中華街に連れ出してくれるたびに、キラキラした世界に圧倒されて、静岡の自宅との差にショックを受けながらも、父や母を悲しませてはいけないとぐっとおなかに力を入れ、絶対にそのことを誰かに言うことはありませんでした。
小学校、中学校、高校に進学するにつれ、ふくれあがるコンプレックス。頭がよくてきれいな妹。真面目に実直に生きている父。趣味が良くてユーモアにあふれている母。
わたしだけが「はずれ」だ。そうおもっていました。
とくに何ができたわけでもない。引っ込み思案で、都会にあこがれて。なんにも持っていない自分を見すぼらしく感じていました。
ここではないどこかに行きたい、自分ではない誰かになりたい。
逃げた先が「読書」でした。
高野悦子さんの「二十歳の原点」は小学校時代のピアノ教室のテーブルにいつも置かれていて、ピアノは嫌いだったのにこの本が読みたくて通っていました。高橋和己さんの「悲の器」での読書グループもつくりました。五木寛之さんの小説を読んでは、こんな恋の駆け引きや男女の機微に自分もいつか経験できるかと夢想しました。「青春の門」シリーズは何度も何度も読みました。
角川の映画ブームを目の当たりにした時代。薬師丸ひろ子さん主演の「Wの悲劇」、劇中の”女優、女優、女優!”という三田佳子さんの名台詞はその後つらいことがあるたびに心の中でリフレインしました。「探偵物語」で赤川次郎さんを知り、以来ずっと、三毛猫シリーズも三姉妹も、名画シリーズもエッセイも読みました。
高校時代、進路をどうするか考えたときに「作家になりたい」と調査シートに書きました。林真理子さん、吉本ばななさん、に憧れて進学先を決め、大江健三郎さん、吉本隆明さん、三島由紀夫さん等、そうそうたる思想を持つ作家の作品を集中して読み込みました。
読んでいたんだから書けるはずだ、とおごる気持ちがあったことは否めません。
作家という、狂気と才能を持ち合わせた存在になりたかった。
自分の書いたもので世間を振り向かせたかった。
そんな自己顕示欲とともに進学した大学で、あっけなくわたしの「作家になる」という夢は実現することなく終わりました。卒業制作で小説を書き、中島らもさんと宇野千代さんをテーマに論文も書きましたが、わたしの「書く」活動はこれっきりとなりました。就職先でのテレビコマーシャルをつくる仕事が忙しくなるとともに、いつしか書くことを手放していました。
書く、という孤独な作業に耐えられなくなったのです。
あんなにひとりの時間が長かったのに。
「みんなで何か」をつくることの楽しさを選んだ当時の自分。
こうして「書く」ことを手放したわたしはさしたる目的をもたないまま再び読みはじめました。W村上(村上春樹さん、村上龍さん)、宮本輝さん、片っ端から読み直しました。北方健三”キャプテン”のダンディズムにしびれました。無頼派の中上健次さんに焦がれました。沢木耕太郎さんの乾いた視線に夢中になりました。
話題になった本は必ず書店に行き、冒頭・中盤・あとがきを読み購入すべきかどうか考えました。この癖が抜けず、今でも電子書籍がうまくなじみません。
こどもを出産してからも本が読みたくて、細切れになる時間をみつけては活字を追いかけて。娘のために買った絵本は、かつて自分が読んだ福音館書店のものばかり。彼女が成長するにつれ、一緒に重松清さんや住野よるさん。先日「盤上の向日葵」を持ってきたときにはここまで成長したのかと感無量になりました。
読んで、読んで、読んで。
読んだ先にあったのは。
ここではないどこか、でも、自分ではないだれか、でもなく。
逃れられない「ここにいる自分」でした。
本を読み、言葉を持ち。自分と向き合った日々。作家にはなれませんでしたが、読書のおかげで今の自分ができているのだとおもいます。
あの登場人物の、あの小説の、あのセリフの。
みっともなさ。不甲斐なさ。かけがえのない、まぶしさ。
読みたい本がある。幸せな人生です。
トリスと金麦と一人娘(2023 春から大学生になり、巣立ちます)をこよなく愛する48歳。ぜひどこかで一緒に飲みたいですね。