見出し画像

藤色の恋/カティさんへ

  しとしとと雨が降っています。コンクリートに散った花びらが雨に打たれています。
 とある藤の花が咲き誇っている公園の中、一人の男性が藤棚の下で雨宿りをしていました。男性の細長い手が煙草をつまんで燻らせています。
 塾帰りでしょうか制服を着た少女が、その様子を見ていました。そして、足を止めました。
「あの、傘入っていきますか?」
 おずおずと少女は男性に聞きます。
 男性は切れ長の目を伏して、紫煙を吐きます。
「いや、俺はここにいたいんだ」
「寒いから帰りませんか」
 少女はさしていた傘を男性に渡そうとしました。けれど男性は受け取らず、少女の手に再び戻しました。
「俺は大丈夫だから」
「ねえ。ここで少し、勉強していっていい?」
「なんで」
 男性は戸惑いながら、少女の分の座るところを確保しました。そして、少女は膝に塾の宿題を広げて、問題を解き始めました。
 雨は振り続けています。
 二人の間に沈黙が流れます。
 少女の問題を解く手は止まりません。男性も静かに、煙草をふかしています。
「……俺といるのはあんまりよくない。送るから帰りな」
「優しいのね。でも、私も帰ったところで、何もないから」
 少女の長い黒髪が揺れます。
「理由は聞かないぞ……」
「それでいい。少しだけここにいさせて」 
 少女は髪を小さな耳に掛け、再び問題を解き始めます。ふと、男性の指が少女のルーズリーフを指差しました。
 ここ、違うぞと男性は問題と解答をみながらいいました。少女は微笑みました。少女はありがとうと言い、落ちてきた髪をまた耳に掛けました。
 男性は少女のいじらしい姿にふっと笑いました。少女も、男性が笑ったのが嬉しかったのか破顔させました。
「やっと笑った」
 男性は、何も言えなくなって、笑ってしまい、少女の頭をわしゃわしゃと撫でました。少女は気が済んだのか、立ち上がって男性を見ました。
「もうここにきちゃだめだよ」
「おまえこそな」
 そして、二人は目を細め合って別れました。

 次の雨の日です。やはり藤棚の下に男性がいました。少女は男性を見、駆け出しました。
「だめっていったじゃない」
「なんでだ?」
「……ともかくここにいるのはよくないの」
 そんなこと言われても、と男性は煙草の灰を落としつついいました。
「俺は、わけがあってここにいるんだ」
「理由は聞かないんじゃなかったの」
 男性は苦しそうな顔をしました。
 少女はおとなしく、男性の隣に座って聞きました。
「昔、好きだった女がいて、引っ越すことを知らせず、いってしまったんだ。だから、待ってる」
「……ここで? 現れないかもしれないのに?」
 少女は男性の顔を覗き込みます。諦めたような寂しそうな表情をしていました。
「現れるんだ。雨の日になると」
「ばかじゃないの……待ってたって来ないわよ」
 男性はふーっと長く息を吐くと静かに呟きました。
「おまえを待ってたんだ」
 男性の目は真剣でした。
「おまえは覚えていないかもしれない。でも、おまえだった。昔も、雨の日に傘を忘れて藤棚の下にいたらお前が現れた。その姿で」
 この間も、現れただろ。あれで確信に変わったんだ、と目を閉じながら言いました。
「……待ってるなんて言わなかったじゃない私」
「忘れられなかったんだ」
「あなたはもうこんなに成長して、私は変わらない姿のままなのに? それでも、」
「それでもだ。おまえがなんであろうと、俺には関係ない」
 好きだ、愛してると男性が言い放つと、少女は笑って姿が霧のように見えなくなり消えました。その場にはほんのりと、藤の花の匂いが残っています。
「また、消えやがって」
 男性が藤の木に触れると、また来るからな、とぼやいて雨のもとへと戻りました。
「濡れちゃだめっていったじゃない」
 どこからか少女の声がします。
 男性は藤の木を咄嗟に振り返ると、少し大人になった少女がいました。
「私も愛していたわ」
 そう、藤の花の匂いを漂わせた少女はにっこりと微笑んで雨に消えていくのでした。

  おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?