枯れないで!ひとは永遠を願う
造花なら枯れないが、それは花じゃない。
木から1つ1つと枯葉が散って行く。ほろほろとほろほろと。
1.無理なお願い
荒井由実の『卒業写真』には、かなり無理がある。
悲しいことがあると開く皮の表紙だという。ほうほう。
卒業写真のあの人は、やさしい目をしてる。そうか・・。
町でみかけたとき何も言えなかった。ああ、、その気持ち、分かる!
卒業写真の面影がそのままだったから。うっ、健気だ。
とうぜん、わたしは、同級生のことを歌ったのだと思っていた。たぶん、片思いの。
でも、調べて見ると、「あの人」とは、荒井由実を厳しくしごいたアルバイト家庭教師の橋本先生(芸大の院生)のことなんだそうだ。
あれ?
勝手な女だなぁ~、とも思う。
人ごみに流されて変わってゆく私を、あなたは時々遠くでしかってねっていう。
あの頃の生き方をあなたは忘れないで、だって、あなたは私の青春そのものなんだものと。
私は生きたいように生きるから変わっていくんだけど、
でも、あなたは私の青春として変わらずに生き続けてと言う。
私は変わるけど。おい!
なんで、これが名曲としてわたしの記憶に刷り込まれたのかが分からない。
『海を見ていた午後』も同時に記憶されている。失恋したわたしは、かなりこれに参った。
あなたを思い出す この店に来るたび
坂を上って きょうもひとり来てしまった
山手のドルフィンは静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を貨物船が通る。と、小さな泡も恋のように消えていったと。
おお、、なんて健気なんだと、わたしのほろほろが全開になった。
あの時、あなたの目の前で思い切り泣けていたら、きっと今頃、ここで二人で海を見ていたはずだわと。
窓に頬寄せてカモメを追いかける、そんなあなたが今も見えるの、テーブル越しに・・・。
で、最後の1行がわたしを撃沈させた。
紙ナプキンにはインクが滲むから、「忘れないで」って、やっと書いた遠いあの日だったと。
ここでも、「あなた」は素敵なままに永遠に凍結される。
供に汗し、泣き、わめく相手ではないのです。
こんな”素敵な”彼と生身の夫婦生活はおくれない。
荒井由実は、鉄壁の結界を張り、他者の侵入を許さない。
「あなた」はマリア様、イエス様みたいに奉られ、その純な記憶を穢すことがけっして許されない。
へろへろとした女子のノスタルジーではなくて、
こりゃもう、気の強い荒井由実の歌ったメルヘンなんだと気が付く。
青年の時から、何十年も騙されてたような気もする。
ウブすぎたわたしだったのか。
2.枯れ葉にはバージョンがあるんだ
『枯葉』は、エディト・ピアフのものがスタンダードだと思っていた。
彼女の恋の苦しみが描かれる。
ミディアム・スローなテンポの短調で歌われるシャンソンバラード。
遠く過ぎ去ってもう還ることのない恋なのです。
恋への追想が、季節を背景とした比喩を多用して語られる。
素敵です。
きっと、人はこんなふうに情感たっぷりに生を振り返るんだろうと思ってた。
偶然、Mikaela Kahnの歌うAutumn Leavesを聞いたのです。最初、あまりに違い過ぎて気が付かなかった。
まったく別な曲だと思ったのです。
これには驚いた。これが、『枯葉』?
苦しく、切ない。まったく甘さを落としている。
人が最後に魂から絞り出して歌うならこれでしょう。
救いが無い歌を人は聞かないものだと思って来たけれど、違った。
もちろん、過ぎ去ったものに対するノスタルジーが底を流れている。
でも、甘くない。素敵だ。
わたしは、何十年もスタンダードな『枯葉』に騙されていた。
あれは、表の顔だったのです。
いや、裏の顔もジャズのスタンダードとしては既に有名だった。
わたしまったく何も知らない、ただのウブウブだったのだ。
いや、山手の静かなドルフィンに座っていた頃、きっとわたしはこれを撥ねつけたでしょう。
聴けなかったというより、聴く気がなかった。
ひとえに浸りたかった。
で、わたしの人生が周回終わりに近づき、ようやく聞いているような気がするほろほろ。
3.人の終わりに見るもの
遅い秋の陽が斜めに射す。お義母さんは枯れて行く様をわたしに見せてくれる。
先日、お義母さんは92歳になりました。
孫が大量に甘いものをおくって来た。ばあちゃん、大喜び。
関西に来てから、1年になろうとしていますが、この間、骨折や腸の出血で3度入院している。
入退院するたびに、体は細くなり、記憶が怪しくなり、耳が遠くなりました。
足や手に筋肉が無いので、骨ばかり。
デイケア施設に行く朝は、玄関まで歩行器で。ほとんど、トイレ以外は歩きません。
食欲はある方なので、3度食べますが、だんだん細くなってゆく。
実は、大好きな甘いものは手足に浮腫を起こす。
なので、娘(かのじょ)からほぼ禁じられてる。
痴呆ではないけれど、短期の記憶もとっておけない。
耳が聴こえないことが加速し、だんだん、かのじょとの会話も減っています。
で、お義母さんは寝てばかりいる。
こんこんと眠り続ける。
やっぱり、ふるさとに帰りたい?って聞くと、うんと言う。
山も川も人も家も、ここではまったく見知らぬものばかり。
じんせいの全記憶が剥がされているのです。
娘が細かく面倒を見てくれて、24時間看護師が待機している。完全フラットな住まい。。
でも、寂しいのです。
実家の兄嫁も、孫たちも熱心に帰ってこないかと誘って来ていた。
施設にだったら帰る、とお義母さん。迷惑かけたく無いんですね。
で、ようやく、施設が決まった。
来週、ふるさとに帰ることになった。
わたしたちは、荷物の送りだし、ケアマネの変更、市役所へ届け出を始めた。
たいへんなんです。
手足がほとんど動かせず、耳と記憶がいまいちになると。
どうしても、”執着”ということもあるし。
この人は”自分の娘だ”という構えも消えない。采配したがる。
こちらも、聡明だったお義母さんの記憶がある。他者の心配ばかりしてくれてた。
枯れて来たことは分かってはいるけど、何でと思ってしまうことがこちらにも多発する。
いろいろ、本人と家族の間には葛藤が起こるのです。
でも、職業として面倒を見てくれる施設なら、そこは割り切れるわけです。
ほんとは、実家に戻り、子や孫に囲まれていたいでしょう。
でも、あそこは仕事もたてこんでいる、ひ孫の世話までしている兄嫁。
その兄嫁も、脳に病気が・・。
枯れないで、とは、本人も周囲も願うこと。
でも、それは無理なお願い。
周回の最後には受け入れないといけない。
やがて、その人もここを去って逝く。
そして、残された者には、重なる思い出と、してはあげれなかった悔いが残る。その味は甘くない。
ソーダ水の中を人生が通る。
泡が重なる。