自分の腰と駆け引きはしません― マリアとの出会い、心臓、臨死体験のこと
1.マリアに会いに
もう10年前のこと。新聞でその像の写真を見ました。
その焼けただれた顔を見た瞬間、ぜひ原爆マリアに会いたいと思った。
わたしたちは、お義母さんと甥っ子を誘い長崎まで行きました。
お義母さんはツエつきながら、ヨロヨロと天主堂のある坂を上がった。
坂の上の教会の周りをウロウロしていると、信者の方ですか?と聞かれました。
いいえ、原爆マリアを見たくて来ましたと、返事をした。
一般の方には公開しないのです、と牧師さんらしい人が言う。
そうですか・・と諦めかけたその時、なぜかその教会の人は特別に許可しましょうと言い、わたしたちをマリア像まで案内した。
信者でもないのに恐縮ですとわたしたちは、恐る恐る教会の奥まで入ったのです。
思っていたよりもずっと小さな像でした。
ピカドンで教会は破壊され、その焼け跡から奇跡のように救い出されたマリア。
落とされた原爆の熱で目が空虚になっていました。
マリア崇拝は、今でも世界各地で根強い。
幼子を抱いたマリアの姿は、わたしたちを癒します。
古くから各地に伝わる女神信仰は、大いなるものをわたしたちにあらわしてきたのでしょうか。
2.心臓が
その頃、わたしは集団検診で心臓のビートに異常が見つかっていました。
早く精密検査をしてもらいなさいときつく看護師さんに言われ、病院に行き検査しました。
心臓の先端部の細胞は、がさがさ、スカスカの細胞に変わっていた。
まともにビートを打つことが難しいワケがはっきりしました。
心肥大した先端部の細胞は、だんだんと心臓の弁の方まで這い上がり、やがて室の弁がしまらなくなるという。
わたしを生かしていた心筋エンジンはパワーも出せず、全身への血のお勤めも難しくなってゆくという。
せんせい、治るのですか?と聞く。
いいえ、これは今の医学では治せません、原因もわかっていませんという。
“寿命”も短いでしょう、と。
病院は郊外の田んぼの中にあって、稲たちの間を歩いて帰りました。
近くの幼稚園では園児がお遊戯はじめていた。わぁわぁという幼い声がします。
すずめたちは地面をとびはねながら虫を探していたし、見上げると秋空に赤とんぼがすいすい飛び始めていた。
そのとき、じぶんのこころを黒雲が覆ってしまったことを知りました。
ああ、、きっとガン告知された者もこんなふうにこころをベールが覆うんだなと思った。
逃れられないという圧迫感がたしかにあった。
小さな子たちが遊び、スズメが飛び跳ね、赤とんぼが空を舞う、この美しい世界にもうわたしだけ居れなくなる。
わたしは、死を恐れていたじぶん自身を知りました。
人は生について恐れます。
自分が傷つけられやしないか警戒する。だから、わたしは結界を張り、自分を防御してきた。
人は死も恐れる。
でも、この「わたし」という意識が完全に消滅してしまうという理不尽さに対しては、結界は張りようもないのです。
3.『After』
臨死体験の話は、レイモンド・ムーディをはじめとしていろんな話があるのですが、帰って来た人たちのその後を分析した本は少ないです。
せんじつ、すこし触れた臨死体験の本のことです。
多くの臨死体験者は、「恐れ」が脱落してしまい、この生を愛おしく思うようになります。
何よりもお金や地位に関心が無くなり、他者を助けようとする。
誰がなんといおうと、不思議な“体験”があまりに強烈だった。
体験後、その人の死生観、人生観ががらり反転し、死は怖いものではなくなる。
そのような体験を大学生や高校生の授業で教えると、生徒たちは高い確率で死を怖がらなくなるという。
不思議です。
ブルース・グレイソンは50年近く事例を集めました。
欧米では日本と違い、彼のように多くの権威ある医者や科学者が真面目に臨死体験について研究をしてきました。
あの世や神らしき存在を体験する者も多い。
でも、グレイソン自身は人間の認識の限界というものをよくよく理解していて、スピリチャアルな話には向かいません。
それよりも、“体験”後の体験者の人生に対するチェンジを深く調べててすごく面白いのです。
そのグレイソンの新著『after』を1,2ページづつ読んで行きました。
英語なので読もうという気が失せやすいのですが、それを超える興味を起こして来る。
クリアでビビッドな体験をした者たちはなぜそんなにも死生観が変わるんだろう?
死と生を恐れなくなったら、なぜ他者への愛へと向かっちゃうんだろう?
グレイソンは90名ほどの10代の臨死体験者をヒアリングしていて、その20年後も追跡した。
あまりに平和で安らぎ安堵した瞬間の“体験”は、死生観を変え、しかも、その体験はずっと薄まらなかったそうです。
他者を支援しようという傾向は一貫して増えてゆき、世界の出来事に関する関心は一貫して薄くなりました。
90%の臨死体験者にこれが認められたのです。
4.グレイソンのある体験者
グレイソンの中に出てくるある体験者は、臨死(実際、脳も肺も動かず、機器は平らな音に落ちた)時、鮮明な人生俯瞰をしました。
もう自分では忘れていたことをありありと“見た”。
その男性の見た17歳の自分は、理不尽にも殴り掛かられていました。
お前、殴ったなということで、今度は彼は相手をぼこぼこに死ぬほどなぐり返した。
さらに、気絶した相手の髪をつかんで地面になんども叩きつけた。
人たちが集まってくる。
彼は、アイツが先に俺をなぐったからだといい、そこをゆっくり去る。。
そのライフレビューで、彼は相手が酔っ払っていたこと、妻ともめていてむしゃくしゃしていたことを知ります。
相手を見ている自分というだけでなく、この俺を見ている「相手の目」も経験した。
自分の目、相手の目とともに、それらを無心にみている目という3つが共存していたと、体験者はいいました。
この体験者は、かなり切れやすい乱暴者だったでしょう。
でも、臨死体験後、彼は性格と死生観を一変します。
非常に多くの体験者と同様に、彼はもう自分のことよりも他者を助けることに関心が移った。
死や生をもう怖がらなくなり、生と他者を愛でるようになったといいます。
性格は死ぬまで替えれない、とわたしは思ってきたのです。
しかも、瞬間の“体験”なんかじゃ、変わりようも無い、と。
でも、体験者が人生俯瞰した時、もう個別の“私”というものが、特別な1個じゃなくなってしまった。
多世界、多人生、それが事実なんだと分かったという。
わたし、俺、ぼくというような1極ではなくて、すくなくとも、俺もアイツもそれらを見ている目も居たんだと確信した。
個人という分離した存在が消えている。そうなると、もう“俺”だけ特別扱いできなくなります。
“アイツ”のことも同等に重要になる。
“俺”のための金集めや地位の獲得なんかは、もう意味をなさなくなる。
愛というのは、無条件で相手をサポートする行為でしょう。
それは理屈ではなくて、あなたが腰を痛めたとき、腰に“治して”やろうかとは言わないことと同じです。
わたしは、腰と駆け引きはしない。
腰をなぐったり脅したりしません。
それは“わたし”でもあるからです。
もし、すべての他者が自分であり、すべての花や虫や木や鳥がわたしでもあると体験したのなら、死生観も一変してしまうでしょう。
空虚の目を持つ像を見ていたわたしは、マリアに包まれた。
なぜにそこに深い安堵を感じたかというと、わたしがより大きなものの一部でしかないという事実(実態)を再体験したからかもしれません。
“わたし”に普段は囚われていているんだけど、自分が全体の一部でしかないという本来に安堵したのか。
家を出て外でもバカにされないよう、惨めな想いをしないよう、踏ん張るのですが、そういう個人というのは包まれた時、去るのでしょうか。
もしそうなら、”個人”という分離感は、思い込みでしかないということになります。
9割以上の臨死体験者が死を怖がらなくなり、生と他者を愛でるというチェンジを果たす。
急に慈悲心が目覚めたわけじゃなくて、じつに世界(他者)と私(個人)というスキーマが捨て去られたことによるとしか考えられない。
50年に渡る研究の結果、グレイソンは、わたしたちは携帯やラジオのようなチューナーを持つ生き物でしかなく、大本の意識が個々に伝たわって来て初めて”わたし”という個別感覚を持つに過ぎないのではないかという仮説に至ります。
人間とは、「脳無しの受信器」なんじゃないか。
意識が受信できなくなれば、もうその生き物(受信器)は死んでしまう。
臨死体験は、一時的な受信停止だったのです。
同時に、大元の”意識”に触れ、そして再び受信可能な個人へと復帰した。
つまり、「個々人」という感覚は、そもそも幻想なのではないだろうかと。
5.喜びから人生を生きる
出産時、あるいは溺れ、あるいは事故であるいは手術中に呼吸が完全に止まって死んだのです。
病院でモニターに繋がれて観察されていました。
そこから数分、あるいは10分ほどの間に“体験”して帰ってくる。
かんぜんに脳も心臓も停止し、精神活動が絶対なかったはずの間に、喜びと平穏に包まれる体験をした。
臨死体験者の話が興味深いのは、体験前のキャリアや性格がどうであったのかによらず、ほとんどが他者を支援しようとすること、生を喜びでもって見始めることに尽きると思います。
彼らにはもう恐れが無くなるのです。分離感がなくなる。
不思議な話です。
それは人によって異なっていて、神?とおぼしき光の存在に包まれたり、すでに亡くなっている親近者と会う。あるいは光のトンネルに包まれる・・。
それは様々な“体験”でした。
でも、とにかくあまりに強烈に安堵する。
愛に包まれるとは、ようやくこの自分が全体に回帰する時ということかもしれません。
ほとんどの人は、生まれてからは絶対的な癒し、完全なる愛に包まれた経験が無かったわけです。
この個人が踏ん張ってがんばるしかなかった。
そして、臨死のとき、“愛”としか呼びようも無い経験をした者は、喜びに振るえた。
もう保身としての地位や権力、財産なんかどうでもよくなるほどに、猛烈に感動した。
視座が自分へではなく、愛の対象となる同等にたいせつな他者に注がれるようにチェンジしてしまう。
だから“after”においては、性格やキャリアに関係なく、体験者は一様に他者を支援したがる。。。
ぜったい安堵の愛に包まれたなら、それは他者あるいはこの世界へと目が向いてしまうのは、わたしたちが本来、喜びの存在だからなのでしょう。
あなたの”ほんと”なるものは、今もあなたを通じてグレイソンのいう外にいるのかもしれません。
でも、もし出会っても、あなたはその経験を誰にも吹聴しないでしょう。
静かに他者をサポートし、日々のちょっとした相手の反応に喜ぶだけになるのですから。
そんな隅っこで輝いているあなたは、世間には知られず、そしてあなたはまたそっとそのまま光の世界に戻るのでしょう。
とても、興味深く『After』を読みました。
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