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新しい酒は新しい皮袋に盛ろう


さすがに時代の変化を感じる。

後輩男性の賃金がずっと低く抑えられたままでした。

女性の社会進出が進んだというより、男性の賃金がどんどん下がり、専業主婦なんかやってる場合じゃなくなった。

お嫁に行けば安泰、の時代が終わってる。

文化も変わった。

ドラマでは、女性が対等に男と渡り合い始めた。

女性の上司が颯爽と”指導”している場面も当たり前に。

でも、その姿は、女性が男化しただけのものだったりする。

女性たちが葛藤している。



1.都会だなぁと思う


田舎育ちのかのじょは、こんなことを以前言っていました。

電車が揺れ、隣に立っていた女性のハイヒールが自分の足を踏んだ。

「瞬間、踏まれてしまったわたしが思わずすみませんって謝ってしまったの。へんよねぇ。アハハ」。

田舎出の人は、人が好過ぎると都会が似合わない。


赤坂や六本木の地下鉄に乗ると、小学生の女の子たちの制服が凛々しいのです。

横浜でも、神戸でも、小さなハイカラさんたちがいる。

山奥育ちのわたしは、子どもたちの姿に「さすが都会だっ」と感心してしまう。

幼少のみぎり、棒きれ持ってチャンバラごっこに精を出していたわたしとはモノが違う。


セーラー服着て背筋を伸ばし、混雑する大人たちの間をすっすと屈託無く歩いて行く。

どう見られてるかという自意識を彼らからは感じない。

世界と自分とを分けていないから、俊敏で柔らかい感じを受ける。

その少女たちは、大人になると都会では歩き方が警戒へと急速チェンジする。



2.バッチイ話


横浜駅の朝はいつも混んでいて、電車が駅に着くたびにドアからサラリーマンがどっと吐き出された。

ある日、ドアから降りてホームを歩き始めたら前の方から女性の激しい怒鳴り声がした。

「ちくしょーっ」。

さすがに滅多に聞く言葉じゃなかったから、聞き間違いかと思った。

見ると若い女性が、若い男性を睨んでた。

若い男は、素知らぬふりしてさっさと遠ざかった。

でも、女性は鬼の表情だったから、聞き間違いではなかった。

びっくりした。昭和がとうに終わり、今は女性進出の進んだ令和だ。


たぶん、お互いの肩でもぶつかったのだと思う。そして、男はひどい言葉を投げた・・。

ぶつかったのだとしたら、狭い通路だったからどちらも譲らなかったのだ。

女性はぶつけられたと怒ったんだろうけど、女性自身、そもそも最初から譲る気が無かったのかもしれない。

おまえこそ、そこどけっオーラで歩いてたか。

若い男は謝る気も無いケダモノだろう。オンナをなめてる。

朝から、ばっちいウ〇コを、2個も見てしまった。お似合いのふたりだった。


びっくりしてから、「ちくしょーっ」と言ったその女性に対する怒りがもりもりと湧いて来た。

どちらにも非があったんじゃないのか?

100%男のせいだとしても、怒りを周囲にぶちまけるきみは何様だ!

朝からいきなり他人の怒りを聞くはめになる周囲の者の気持ちはどうしてくれるんだ!みたいな。

やられたらやり返すという、わたしたちは競争社会にどっぷり浸かっているままだ。

いったいその若い女性とかのじょとの違いは何んなんだろうかと思った。



3.起こることははじめから決まってた?


愛と憎しみは同時には共存できない。憎しみのある人に愛はありません。

愛というと抽象的すぎるけど、悲しみだったり慈しみだったりに彩られている眼差し、という意味で言ってます。

愛の人は、他者を攻撃すべき対象とは見ていません。

でも、怒り攻撃する人は、あらかじめ世界を敵視している。

譲る気もない。何か不都合なことが起こったら、相手のせいにし反撃するのが当然となる。

そうして、生成されてゆく出来事によってさらに世界を敵視してゆく。

その若い女性には、起こるべきことが起こったと見ることができる。

そんな憎しみを、わたしは「バッチイ」と感じたんだと思う。


「ちくしょーっ」といった若い女性は、周囲を信じられないという弱さを持っているとも言える。

威勢のいい表現を取りながらも、実は、自分が無い。

相手がひどければ仕返し、相手が親切にしてくれれば自分も丁寧に接するという受け身でしょう。

まるで、自動反応する人間機械のよう。


わざわざ周囲にそんな自分を伝えてどうしようというのか?

なにかをひどく恐れているのかもしれない。

いや、型にはめられ苦しんでいる。その雄たけびだろう。

でも、それは昭和の男モデルなのです。そんな男はさんざん見て来た。

女性も企業戦士でもなったのか?

バカな男族に、さらに同じような硬い者が追加されただけだとしたら、なんだか悲しい。



4.かのじょの秘密


自分の足を踏まれて思わず「すみません」と言ってしまうほどの必要は無いのです。

無いのだけれど、自分の囚われ、執着、恐れというものから自由になっていないのは辛い。

憎しみは根拠を持つ。愛は理由を持ちません。

お前に非があれば罰して良い、自分に正義があれば罰して当然だ、という単純な機械論だ。

それは強靭なたましいとは違う。


社会進出を余儀なくされた女性族には、依然として子を産み育てるという遺伝子が埋め込まれている。

理屈で子を産むわけでも、育てるわけでもないのです。

見返りを求めず子を育てる人たちです。

命を掛けて産み、たいへんな労力をかけて育てるんだから、とんでもなく見返りが少なすぎる役割。

女性という性は、打算では務まらない。

愛は理由を持ちません。


よく引用されるブルース・リーの「考えるな!感じろ!」ですが、これは禅坊主でもとても難しい。

思考が生み出すエゴ(自我)は、なかり巧みで悪賢いですから。

たとえば、自我は、相手がわたしのことを嫌ってるようだとか言って来る。

その気になりわたしは警戒する。

でも、話してみたら、そんなことは無かったということをあなたも経験していると思う。

仮説が間違ってた?とあなたも一瞬思うが、それ以上分析をしない。

いいえ、させなかった。

わたしの思考は、気のせいだったんだよ程度の扱いで終えたかったのです。

リアルを見るとを何か都合が悪かったのです。

自分にいつも横たわる不安というのを見つめ、そして自己を変えるということをしなくて済む。

気のせいとか、他責にしておけば、責任を担がなくて済みます。

結果、自分には何も学びが起こらず、また、同じような場面が再帰して来る。


とにかく、思考は怪しい。

だから、わたしはじぶんの考えを信用しない。許せないー!って思っても、その声を信用しない。

感じること、一瞬で洞察することはかなり信じる。

口の上手い人間を信用してはならないと同じぐらいに、自分の思考を信じてはならないと言いたい。

単純に相手が悪い、ちくしょーっとは判断させず、数分間反応せずにじっと感じ続けてみることも面白いかもしれない。

いったい、どんなふうに自分が感じるのか、どんなふうに行動が変わるのか、変わらないのか。

いっさい何も解釈させない。

一度試して見るといいかもしれません。

きっと、驚くと思います。


生き方を変えないといつまでも、世界を恨み続ける。

いいのです。ごめんなさいと自らあやまれば。

ばかにされたって、それは相手の判断だし。

こちらまで、卑しい相手と同じ次元を付き合うこともない。

かのじょは、どんな捕らわれからも自由でいたいのでしょう。


この世には、愛の人たちがいる。

そして、もし、自分に願いがあるのなら、相手に依存せずにそれをいつも一途に握っておく。

環境によらずに、強く生きてみる。

もちろん、既存の男性社会と伍して行くことはしんどいでしょう。

依然として、男女の賃金格差はまだまだある。

でも、負けないでとわたしは思う。

男のマネなんかしないで、新しい女性像をあなたに見たかった。



P.S.


お節介ながら、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」とは、新しい考えを表現したり、新しいものを生かしたりするためには、それに応じた新たな形式や環境が必要であることのたとえです。

この由来は、新約聖書―マタイ伝・九の一節なんだそうです。

「新しきブドウ酒をふるき革袋に入るることは為せじ(新しい葡萄酒を古い革袋に入れることはしない)」とある。

続く部分は、「もしそうしたら、袋が張り裂けて、酒が流れ出てしまうだけでなく、袋もだめになるだろう。

新しいブドウ酒は新しい革袋に入れてこそ、両方が無事に保たれるのだ」。


本来は、新しい酒はキリストの教えを、新しい革袋は洗礼により一新された心を表しているそうな。

革袋なんて日本では見たこと無いですが、中東では、ラクダで運ぶので陶器ではなく軽くて強い革袋にお酒を入れて移動しました。

今、その中東で人たちが理不尽に死んで行っている。

自分ひとりでは世界は変えれないというけれど、あなたの世界はあなたから始まっている。

先ずわたしたち一人ひとりが強くならなければ、この世界はいつまでも変わらないと思うのです。

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