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「ただ居る」ことを許さない


1.大荒れ


かのじょが、重度の知的障害者たちが通う施設で働いていた日々のこと。

その日、ある利用者さんが大荒れでした。

朝から、周囲に“お前なんか帰れー!”と叫び続けた。

そばにたまたま居た、おっとりした「まぁ~ぱぁー」君なんか、とばっちりで頭をポカリやられてた。

で、みやこさん(かのじょ)は、叫ぶかれのそばにいってじっと手をとった。

お母さんとの間でなにかの不安なり怒りがあったのかなと思ったそうです。

しばらく彼の手をとって“そうね・・”、“そうなのぉ・・・”と言っているうちに、大荒れくんはトーンダウンしていった。

落ち着いたのを確認して離れたのだけれど、しばらくすると、また、“お前なんか帰れー!”と叫び始めた。

なので、またまたみやこさんはそばに寄り添ってトーンダウンさせた。

かれはトーンダウンした。

終日、大荒れくんだった。



2.不思議


不思議なことに、かのじょはこの世界をコントロールしません。

子どもたちやわたしの在り様に合わせるだけで、とりたてて批判も判断もしない。

そうなの、そうなのねと言うばかり。

もしかのじょがわたしを判断や批判したのなら、こちらも反撃もできる。

だけど、かのじょは火に油を注いでくれないものだから、火は燃やせない。

こちらもそんな完全受容体相手にいつまでも文句ばかりいっていられなくなる。

そうこうするうちに、わたしはじぶんの囚われも苛立ちもどこかに消散してゆく。

やっぱり、わたしもかのじょの前ではトーンダウンしてしまうのです。

ただそばに居る。

そんなことが出来るかのじょは、ちょっと珍しい人種かもしれません。



3.福祉は慈善じゃなくてビジネスです


施設の利用者さんたちは、重度の自閉症だったりダウン症だったりしました。

かれらだってやっぱり感情はあるわけです。

モヤモヤもする。怒りもする。訴えたくもある。

痴呆のように、ただぼぉーっとブラックアウトしてるわけじゃない。

にんげんだもの、やっぱり受け止めてほしいでしょう。

でも、施設では手をとったり、利用者さんに添うことは禁止されていました。

緩やかに言えば、”強く推奨されない”。

そんなことしてたら“依存”が生じると言われる。依存??

にんげんの基本的欲求だったとしたら、どうするんでしょ?

もちろん、ただ居ようとしても、ケアする方にも特殊なスキルが必要です。

いや、そもそも職員の人手が足りない。

で、「利用者さんを依存させてはいけない」という命令が職場では貫徹しました。


大勢来てくれるほど、お金になるので、施設側は障害者を人数で見ています。

また、障害レベルが重度ほど、施設に入るお金は大きいです。

だから、施設側はおとなしくしていてくれる重度障害者を歓迎する。

大勢を面倒見るには効率がたいせつなのです。

だから、かのじょのようにいちいち添うような行為は煙たがられた。

施設自体は資本主義の効率の世界で生きていて、でも、そこを利用する者たちがいちばん求めているのは“居場所”でしょう。

効率的な、生産的な、合理的な“居場所”なんて、あるんでしょうか?

利用者を不合理にして置いてまで、お金がもうけたい?


かのじょは、人を采配する脳も工程を管理する脳もほとんどもらって来なかったひとです。

おおよそ、効率と競争の資本主義社会にはそぐわないひと。

だから、働くという社会にかのじょの居場所はあまりなかったのです。

いつも居づらくなってしまう。

でも、働きたいというかのじょ。

障害者にほぼ近い種族ともいえますが、代わりにただ居るということは出来る。

でも、それってこの地上では誰も価値を認めません。



4.わたしの生


わたしは、「成る」ばかりを追って生きる。

有名に成る、敬われる、一角の人物になる、お金持ちに成る、イケメンになる、社長になる、立派になる、頭良くなる。

いえ、無欲に成る、も。

まるで、「すごいと言ってくれ!」病かなと思う。

わたしは、「ただひとり在る」ということが出来ません。

「ただ居る」ことができる人は、もちろん、自分自身に対してもそう在れるでしょう。

じぶん自身に対していつも”強く推奨”しています。

だから、寂しさや途方に暮れた時、それが無い状態にしようとしてしまう。

そんなことは正常じゃないから、それはいけない状態だと自動的に処理が走るという感じです。


たぶん、人間は2つの面を両立しないといけない。

「ただ在る(居る)」という面を無視すると、それはずいぶんと精神的に病んで行く。

孤立化し、自分自身からも離れてしまうでしょう。

「何かに成る」という面を無視すると、それはずいぶんと経済的に病んで行く。

食えなくなるというのは、考えるだに恐ろしいです。

時代が令和となっても、「ただ在る(居る)」は難しいです。

経済的な基盤という掟が優先している。

資本というものが社会に貫徹させる“効率”と“競争”が許さない。

教育も会社も、「成る」こと「為す」ことを”強く推奨”してきました。



昨日は気分がすぐれず、こころが漂流しました。

やたらと、かのじょやお義母さんのことが気に障る。

わたしは、「ただ居る」ことを肯定することができない。

もちろん、ふたりを喜ばせたいという気もあるんだけれど、それと反対の気分も同居していました。

何かを「為さないといけない」という切迫感があるんだけど、何もやれない。

もし、ほんとのことをじぶんに聞いたのなら、きっとわたしは何もやりたくないのだと言ったでしょう。

でも、漂流する時、そんなことをじぶんに聞いて見ようなんて思いつきませんでした。

何か「有意義なこと」をしないといけないと声がし続けたのです。

そんな時はさっさと寝るしかなかったのです。

なぜ「ただ居る」ことを肯定できないのか・・と、なかば諦めながら振り返ってみました。

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