さようなら、と言えない
1.さようならの時
何時に行くのかい?とお義母さんが聞くので、日曜の朝7時半にタクシー呼びますとわたしは答えていた。
7時半、7時半。
お義母さんはもう何日も前から、繰り返していた。
きっと、ふるさとに帰るといっても、見も知らぬ施設に入るので緊張している。
うまくやれるんだろうか、職員にいじわるされやしないだろうか・・
すぐに参りますというので、マンションの玄関で待つと、ほんとにすぐにタクシーが来た。
日曜日の朝。雨も降ってて神戸空港に向かう道路は空いてた。
タクシーはすいすいと進んだ。
「ほら、お義母さん、あれがよく行ってたスーパーだよ、あそこが入院した病院だよ」とわたしが言う。
お義母さんは耳がこの1年ですっかり悪くなって、ときどき返事をしない。
「ほらほら、この病院にも入院したよね」と、また、わたしがいう。
ときどき、聞こえてる。
「何で入ったんだろう?」。
この1年ですっかり記憶も出来なくなって、もう思い出せない。
股関節を骨折して救急車で運び込まれたことを忘れてる。
ベッドからうっかりずり落ちた時、「ばかばか!」と自分をひどく叱ってたじゃないか。
骨にグリグリとドリルで穴を2か所開けられ、ボルトとネジで固定されたじゃないか。
術後、24時間後にはもうリハビリさせられたことも忘れてる。
わたしたちのことも、もうすぐ忘れるだろう。
40分ほど乗っていた。
運転手さんが後ろのトランクから車イスを降ろしてくれる。
障害者手帳を見せる。1割引いてくれた。
空港には、福岡から迎えに来ていた孫娘が先に待ってた。
ようやく結婚したのんびり屋さん。ぽっちゃりしてきた。
事前に、姪っ子(孫娘)に伝えていた。
「ばあちゃんは、この1年でひどく耳が悪くなったよ。そして記憶も難しいよ」。
祖母の顔を見て、孫娘にぱあっーと笑顔が広がった。
孫たちは、どの子もひどく祖母が好きだ。
こんなに祖母を慕う家族ってそうそうないだろう。
航空会社が用意してくれた、機内の通路を移動できる車イスに乗り換える。
お義母さんが、わたしにあいさつした。
「ほんとに、お世話になりました。ありがとね」
お義母さんの目に涙が溜まって行く。
空港は、大勢の人が忙しく行き来する。
「お義母さんのこと、長生きしてる人として新聞に出ることを楽しみにしています」とわたし。
もう十分に生き、十分に疲れたんだろうか。あるいは、よく聞こえなかったのかもしれない。
車イスにちょこんと座ったお義母さんが、ただコクンと頷いた。
わたしは、「さようなら」が言えなかった。
2.見送る
孫娘が押す車イスのお義母さんが搭乗入口に吸い込まれ、消えて行く。
見ていたかのじょが言った。
「はじめてね、わたしたちが母を見送るなんて」。
遠く関東に娘を引っこ抜いた婿の務めとして、年2回は飛行機でかのじょを実家に連れてった。
わたしたちが関東に帰る際、お義母さんは空港の登場口でわたしたちをいつも見送った。
お義母さんは、わたしたちがゲートを抜けてもずっと立って手を振り続けた。
熱心に手を振り続けるので、わたしたちはいつもゲートから遠ざかれない。
お義母さんはずーっと娘を見ていた。
お前は大丈夫かい?泣いては居ないかい?婿殿は優しいかい??
いや、婿は優しくない。
お義母さんは、不器用で優しい娘が小さかった頃のことを思い出していたのかもしれない。
学校から帰ると、娘はいつも駅前食堂の調理場に直行し、母のエプロンをしっかと両手で握り見上げた。
そして、今日はね、こんなことがあったの、あんなこともあったのと、娘は母に話した。
若かった母は、けっして話を遮らず、そうかいそうかいといつも聞いたという。
「わたしゃ、もしお前がいなかったら・・」と母はいつか娘に話したことがあったそうだ。
いつもお義母さんはふるさとの空港のゲートでは、片手で杖を突きながら、もう1つの手を振った。
当時はまだ杖をつけた。
やがて、わたしたちがゲートに消える。
お義母さんは、わたしたちが乗った飛行機が空に飛び立つ姿を、今度は屋上の展望台に行ってみていた。
飛行機がどんどん空に吸い込まれて行く。飛行機を見送るのは、いつもお義母さんだった。
お義母さんは92歳になった。もう、これが今生の見納めかもしれない。
わたしたちは「さようなら」とは言わなかった。
言ったら、ほんとにそう成る気がした。
3.バイバイ
お義母さんは、いつも孫たちから電話が来ては話した。最後に切る際、「バイバイ」という。
息子から来ても、その嫁から来ても、最後は「バイバイ」という。
90歳過ぎたおばあちゃんが、バイバイというのはなんだかハイカラだなと毎回、わたしは思う。
お義母さん自身は、女学生の時、久留米で米軍のグラマンに追いかけられている。
戦闘機が低く滑空してきて、容赦なく機銃掃射した。ばばばばばっ。
マジでやばかったのだ。
わたしゃ、逃げまどったよという人なんだから、敵国語のバイバイなんて絶対に使いそうに無い世代だ。なのに、最後はバイバイという。
お義母さんは、かなりオシャレさんだ。
デイケアに行く日は、毎回素敵な服を着て行く。
ぜんぜん頓着しない娘さんとは大違いだ。
関西に来る際、かのじょの兄嫁が梱包した数個の箱にはいっぱいの服が入っていた。
今回は、わたしたちが何回かに分けて段ボールを九州に送り返した。
昨日は、最後の2箱を送った。
リューマチで手が動かず、腰を骨折ばかりしたので、トイレに行く以外、動けない。
若い頃、もうすこし牛乳をごくごく飲んでおいた方が良かっただろうに。
が、年を取っても、素敵な服を着たがり、バイバイというのは素敵だ。
荷物を送りだすと、狭かった部屋が広くなった。
4.なんとかなるさ
昭和6年生まれは根性が違う。
戦争をはさんだ激動を生き延びたのだ。ぐっと耐えてやりすごす、その力は半端ない。
義理の親に、そして夫にかしずき、滅私奉公もいいところだった。
自分探しする暇も無く働き続けた。
悩むというのは、悩めるということだ。それさえ許されなかった。
いや、たまにはやっぱり辛さが昂じたそうだ。
姑や夫に腹がたつと、未だ小さかったかのじょを誘った。
「みやこぉ、ちょっとコーヒー飲みに行こうか」。
娘を連れて深夜、コーヒーを飲みに行っていた。ハイカラさんなのだ。
いくら毅然として忍耐力があるからといっても、にんげんだもの。
その心折れた時、娘を連れてプチ脱走していたのだ。
行けば、ケーキなりを食べたんだろう。
辛い時、やっぱり甘いものは必須だ。かのじょは、そんな母が大好きだ。
この1年でお義母さんは、筋力、記憶力、聴力、理解力がさらに減衰した。
「わたしゃ、もう覚えておらん」とよく言った。
生まれ育ち暮らした故郷を遠く離れ、なにかと寂しかったに違いない。
ましてや、遠く関西まで移住するというのはかなり決心が要ったと思う。
老人は、入退院で知能が劣化する。どんどん、体力、気力、知能が衰えて行く。
昭和の女子は口にはしないが、心配ばかりだろう。
また、いつ、腸が破裂するか分からないし、ねじれて閉塞するかもしれない。
この1年間に腸だけでも3回も入退院している。
ちょっとしたことで、コロリ転がって骨折するかもしれない。
足に筋肉が無い。骨だけだもの無理ない。年1回は骨折入院している。
入院のたびに、記憶と聴力と体力が衰えて行く。よくコロナ禍をしのげたものだと不思議だ。
不安?とお義母さんに聞いてみる。
聞くたびに、「大丈夫、なんとかなる、なんとかするさ」とお義母さんは繰り返した。
関西に来た頃と違って、今回は声に力が無い。確信は無いのだ。
なんともならない。劣化は止めれない。
九州に帰りたい?とある時聞いた。帰れるものならと、お義母さんは答えた。
で、あるならば、最後は生れ故郷に帰してあげるしかない。
5.さようならの来し方
「さようなら」は、「左様(さよう)ならば」の変化した語だとは気が付いていた。
それならば、それではという接続詞だ。
わたしたちの先祖は、「さようなら」を互いに口にし合いながら、別れ合ってきた。
素敵な言葉だが、ちょっとへんだ。
調べて見た。
この子は、「ごきげんよう」「のちほど」といった別れの表現と結びついた形で用いられていた。「さようなら、ご機嫌よう」というわけだ。
やがて、この接続詞が単独で、別れの意味として自立してしまったという。
英語でたとえると、「じゃ(then)、バイバイ(goodbye)」という定型があったとする。
が、いつの間にかgoodbyeがいなくなり、thenだけで自立した、、というようなものか。
なぜ、そんな下剋上が起こったんだろう?
単に長すぎて、ご先祖は後ろを省略しちゃったん?
きっと、わたしたちの先祖は、はっきり別れをいいたくなかったんだろう。
ずっと平均寿命が15歳ぐらいだった。(50歳も生きていたけれど、乳児死亡率が異常に高かったから、平均値が10代となる)
はやり病、飢饉、戦争、台風や地震が繰り返された。
特に衛生面が重要だった。明治以降に下水道が整備されるまで、人の寿命は短かった。
人の命が不安定で儚い、致し方の無い時代がずっと続いた。
だから、主役に下剋上したというより、「さようならば」で止めたくなったんだと思う。
再会なんかぜんぜん期待できない、という前提で生きていたんだもの。
願いとしての香りを残すだけ、という選択をご先祖たちはしたんじゃないか。
6.お礼の電話
ふるさとに帰るといっても、見も知らぬ施設に入るのだ。緊張していた。
姪っ子から、飛行機が無事に着いたよと連絡が来た。
さらに、兄嫁から、今、ばあちゃんが実家に着いたと。
夕方、お義母さんは施設に収まった。
翌日、かのじょが母と電話でいろいろ話した。
婿殿に代わってくれと母がいう。
お義母さんは、すこぶるハイだった。
実家では、みんなが居て、ひ孫が花の首飾りを掛けてくれたという。
そして、ケーキをみんなで食べたんだと。
施設も、安心したといった。
とにかく、食事、お風呂、スタッフ、夜中のトイレ。いずれも、案ずるより産むが安しだったという。
お義母さんは、深く安堵していた。
「どうも、お世話になりました。ありがとね」とお義母さん。
「あんまりしてあげれなかった。ごめんね」とわたし。
わたしは、始終イライラしてただろう。
いや、あれがわたしの精いっぱいだったのだ。。
おたがい、さようならもバイバイもなく会話を終えた。
やはり、お義母さんは、かのじょの兄夫婦にとっても、孫やひ孫たちにとっても家族なのだ。
お義母さんは、知ってる街と人たち、夫が先に入ってるお墓があるところが、いいのだ。
いくら、完全フラットで看護師が24時間常駐し、娘がそばであれこれしてくれたとしても。
いろいろ、ゴタゴタ問題は頻発するが、お義母さんは福岡のジグソーパズルの1つのピースなのだ。
いったい、引き取ったこの1年間は何だったのかなと思う。
でも、かのじょとわたしは、年を取るという意味を教えてもらった。
どこがどう劣化するか、どう運動や食事を取ったらいいのかを知った。
お義母さんは、娘にも息子夫婦にもこれ以上迷惑はかけれないと思っていた。
そして、実家の店はバタバタしているし、兄嫁も兄も体に病を抱えて孫たち(お義母さんからみればひ孫)を見ている。
だから、実家側は、施設に入れるという選択をした。お義母さんも了解した。
故郷の家族も、いかにばあちゃんが家族だったのかを、大事な人であるかを知ったでしょう。
そして、お義母さん自身も自分がふるさとといかに不可分であるかを知った。
人は、体験しないと腑に落ちない。
そして、「さようなら」と口が言わなくとも、胸が言う日がいつか来る。
P.S.
別れの言葉は、三つのタイプに大別されるという。
https://www.kamakura-u.ac.jp/common/pdf/tayori/tayori150.pdf
一つは「グッドバイ」(英語)や「アデュー」(仏語)のような「神のご加護を願うもの」
一つは「アウフ・ヴィーダーゼーン」(独語)や「再見 サンチェン」(中国語)のような「また会うことを願うもの」
一つは「アンニョンヒ・ゲセヨ」(朝鮮語)や「フェアウエル」(英語)のような「お元気でと願うもの」
でも、日本語の「さようなら」は、そのどのタイプにも入らない。
世界各国どこを探しても『さようなら』のような意味あいはきわめて珍しいのだそうだ。
ちなみに、「Good bye」は、「God be with you」(=神はあなたとともに)の短縮形だそうだ。
ただのバイバイじゃなかったんだ。
お義母さん、この軽やかな別れ方が気に入っている。
が、神様がその人のそばに常時いる状態はかなり、考え物だ。
神には、いつか会える程度がちょうどいいんじゃないか。
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