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ふつうです特殊ケースのほとんどは


1.ふつうです特殊ケースのほとんどは  佐藤みさ子


昨日も神戸近くの駅で降りて、ふたりで線路沿いを歩き出した。

ふーん、、こんなところにスーパーがあるのかと思っていると、後ろから声が近づいた。

振り向くと、それぞれ自転車に乗った小学生が二人、わたしたちを追い越して行こうとしていた。

「人にはそれぞれ考えがあるからね」。

一人の少年がもう一人にそう言った。

おお、、なんていうフレーズ!


まさか聞くはずもないような言葉が耳に飛び込んで来ました。

かのじょも聞いていて、過ぎ去る彼らの背中を見ながら、「深い。わ。」と言った。

普通の小学生はそんなこと、言わない。

横浜や都内で子どものそんなフレーズ、耳に聞いたことが無い。

いい大人ばかりの会社でさえ、そんな名文句、聞いたことも無い。

いったいきみは何者?

いや、さすが神戸だっ。

少年の出来からして違うのだ。

おそるべし、ハイカラ港町っ。

ということで、次は神戸の港が一望できるであろう山の方まで、六甲ラナイ―に乗って行こうという話になった。

(そのライナーというものに乗ればどうも山の方に行けそうだと勝手に思い込んでいます)


あの少年はひじょうに特殊な人だったかもしれない。

きっと幼少の頃、村上春樹はここら辺に住んでた。

たまたまあの日、少年の日の彼は壁抜けして自転車を漕ぎたくなっただけなんだろう。

そもそも特殊は、普遍の反対物じゃない。

特殊性だけが孤高にツンと立っているわけじゃない。

それは、いつも普遍性(あるいは一般性)と抱き合わせで存在してくるでしょう。

で、普遍の姿にうっかり騙されている時に、そこに特殊を認めると人はびっくりする。

あの子が村上春樹だったら、わたしは驚かなかった。

平凡な小学生と言う姿を介して特殊が現れたからわたしは驚いた。

エイリアンが脇を自転車漕いで行っても、わたしはその言葉には驚かなかった。たぶん。


かのじょを大切に思うという特殊をさいきんのわたしは日常で表現し出した。

きっと、積もりに積もった罪滅ぼしのつもりなんだ。

ほんと申し訳ないことした、特殊なわたしを許してください。。

でも、そんなことは恥ずかしいから口には出さない。

なんでも言えば良いというわけでもないし、仮に口に出してももう遅い。


小学5,6年の頃みなると、あなたの脳はネットワーク統合を果たし成長が終わる。

”じぶん”自身を見る目が出来、関係間の関係を紡ぎ出す。

母との一体化は終わり、自分と母との関係を見だす。

だから、もう脳の出来は、あの少年と大人とに差はないのです。

だから、あの発言はそんなに特別じゃないとも言える。

滅多に耳にしないだけで、きっとあの小学生はどこにもいっぱい居る。

じんせいに次の季節が到来しました。

わたしのような年取った反省組も、ふつうに居るはず。



2.キリギリスも蟻も生涯現役  森乃 鈴


たしかイソップ童話だったでしょう。

キリギリスは遊び惚け、怠けているヤツということになっていた。

将来に備えることの大切さを説く。

わたしもそう信じ働きアリをがんばった。

けれど、よく考えてみるとキリギリスだって毎日食べねばならない。

彼もその生が尽きるまで、がんばって毎日エサを探す日々だったに違いない。

この句のいうように、キリギリスも蟻も生涯現役だったのです。

停年退職なんていうお墨付きをもらって、もう働かないぞと言っているわたしなんかとはそもそも格が違うキリギリスだった。


たとえば、クジラはもう寿命だと思うと、クジラの墓場に自ら赴くという。

猫もすっと、どこかに消える。

野生の動物たちも群れからそっとひとり離れる・・。

でも、じんげんは食べれなくなっても切開して喉からチューブで栄養を入れる。

ボケてもだれかが世話をし続ける。

にんげんは、みずからの死を自分で処理しない唯一の生き物といえます。

にんげん種以外が、みな生涯現役であるというのは、死を自ら受け入れ、自ら実行するからです。

その間際まで、かれらは生涯現役を貫く。


いや、今でもインドの一部の人は、寿命を悟ると、山深くに入り絶食すると言う。

自分の生を自ら閉じる。水だけを飲み、お迎えを待つ。

ガンだ脳梗塞だ、医者頼むなんていう騒ぎをしない人たちがこの地上には未だいるのです。

病なら病を受け入れ、そっと身を引き絶食に入る。

それは、きっとお腹が空く。体が限りなく重く鈍い。

数日絶食すると、かなり意識が混濁してゆくのかもしれない。

ずっと食物を取らずにいるのだから、もう動くエネルギーが無く自然とエンディングに入って行く。

すぐそばに置いた水差しのような入れ物から水を口に含ませ、また、うとうととする。

この生命がすーっと消える様に添って行く。

そこには、悲惨さも無理も恐怖もないのです。

これが、人としての特殊な終わり方だとはわたしにはとうてい思えない。


動物としての自然な終わり方、身の処し方がある。

わたしは、じぶんの寿命はじぶんで決めたいのです。

プライドを持ったまま生涯現役を貫きたい。

食べれなくなったり、動けなくなったらそこが寿命点なのです。

その時、地上のすべての生き物と同じように、わたしも自然の摂理に委ねたままに土に還りたい。と切に憧れている。



3.迷ったら海の匂いのする方へ  芳賀博子


住むことになった関西の住まいは埋立地にある。

なので、周辺を歩いていると海の匂いがします。

「あっ、海の匂いがする」というと、かのじょはたいがい「しない」と言う。

わたしは、戌(いぬ)年生まれだから匂いに敏感なのかと思う。

(音と光にも敏感で単なる”感覚過敏”なのかもしれないけれど)

ほんとは、山奥育ちなものだから、海には強い憧れがありる。

見渡す限りの平らな水平線、開け放れた空、潮の香をこころはずっと求めて来た。

だから、「匂いはしない」と言うかのじょに、しつこくまた「海の匂いがするよね?」といってみる。

「やっぱりしない」とかのじょは首をひねる。

有明の海辺に生まれ育ったかのじょは、当たり前過ぎて、きっと潮の香は蓄膿症なんだな。


あなたも迷った時の処し方を自然と持っていると思う。

それは、あなたにとって無理が無い”自然”なものだと思う。

わたしは、迷ったら、じぶんの至らなさという特殊を普遍の中へと溶かせる。


わたしだって、根性悪や意固地や不安ばかりでもないし、狭い視野だけでもない。

怒ったりへこんだりしている自我が失敗してくるけど、それは大きなわたしの中の1つでしかないです。

ああああ、やっちゃったと言う時。焦った時。迷う時。苛立つ時。

それは自我がそんなふうに言っているだけで、わたし全体とはもっと大きなイメージのもの。

その大きなおおきなわたしには、いろんな子が中に居る。

だから、わたし全体で自我くんを見守っている状態に帰る。

自我はぎゃぁぎゃぁ言うのだけれど、それを無くしもせずに、批判もせず、ただわたし全体が自我を抱いているという感じに移行します。


自我(エゴ)は、思考(言葉)から成っていて、とてもずるく、また賢い。

だから、彼が騒ぐ話は否定せず、また、その気にもならないようにしています。

そうやって、彼を内包する大きなわたしが離れて見ている。

そうやっている内に、だんだんと相手にされない自我はトーンダウンしてゆくのがお決まりパターン。

大きなわたしが、騒ぎが弱くなって行く様をずーっと確認しているという感じです。


やってしまったことは、「自我がやった」という扱いをするわけです。

もちろん、それも「じぶんの一部」だから他者からの責め苦からは逃げれない。わたし全体は、もちろん責任を負う。

でも、怒りへこむのはわたしの一部(自我)でしかないのです。

そこの切り分けを、年取ってだんだん出来るようになった。気がする。

そうしているうちに、たとえば川柳なんか探していて「あっ」というのが見つかると、わたしは嬉々としてしまう。

わたし全体が喜びに包まれる。

一部の仕出かしたことなんかあまりにささやかなことになる。

自我は依然として内にあり、してしまったことは取り返せない。

が、もうその頃には、わたしは宇宙よりも大きくなっちゃってて、もうどうでも良いというふうな感じになるのです。

さあ、焼くなり煮るなりしてくれという腹もくくれて、また、1から再出発しようという気になっている。


わたしの弱いところ、至らぬところ、残念なところ、劣ったところは、ここに在るにも関わらず最近はあまり問題にならないのです。

自我の反応は特殊であり、わたし全体が普遍だという構造を最近は意識している。

そして、自我という特殊は消せないし、それを消したらわたしがわたしで無くなってしまう。

だから、あまり読んでもらえない記事を書いてはへこんでいますが、

しかし、そうだよねと包む全体があるようになってからは、立ち直りがかなり早くなりました。

ということで、さあ、明日も書くぞっ。



P.S.

古来、インド人は、人生を4期間に分けて考えるという。この「四住期(しじゅうき)」においては3つ目の「林住期」が人生の最高の期間とされます。

●学生期(がくしょうき)
 まだ一人前ではなく、学び、心身の鍛錬を通して成長していく期間。

●家住期(かじゅうき)
 仕事を得て懸命に働き、結婚し、家庭を持ち、子を育てるために頑張る期間。

●林住期(りんじゅうき)
 世俗を離れ、迷いが晴れ、自分らしく自由に、人間らしく生きる時期。

●遊行期(ゆぎょうき)
 人生の最後の場所を求め、遊ぶように何者にも囚われない人生の最終盤。

古代インド、バラモン教ではこの4期のお勤めをにんげんに課しました。

仕事を引退したわたしは今、林住期というセカンドライフに入りました。それはおそらく10年間ほど。

最後の遊行期(ゆぎょうき)の在り方は、とても大げさでなく素敵です。

そのエンディングの半年~1年ほどが、短いサードライフと呼ばれます。

その期間の身の処し方をそろそろ覚悟せねばなりません。

ずるずると長い入院や痴ほうでは、生き物としてかなり切ないのです。

山奥に行くんですかね?

わたしはいいのだけれど、白骨死体になっちゃったら、後で村人も困りますしね。

終わりよければすべて良しって、意外とその実現が難しいのです。



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