ガラス細工の恋人

「恋人」というものは、ガラス細工のようなものだと思う。

それは今まで自分が付き合った人間だとか、自分が今好きな人だとかに限らず、友人と恋バナをしているときにでさえ思う。

ガラス細工はとても美しい。
窓から差し込む光を透かしてみると、それが乱反射し虹を部屋中に散りばめる。

そんな感じで、特別に好きなもの同士、2人で作った思い出はその何十倍もの生活全体に光を放つように感じる。

そしてガラス細工は透明で、
多少形が崩れていたとしても、ガラスのもつ透明さと言うものは、それを見えづらくする。
あばたもえくぼ、という言葉のように。

見るべきものが見えづらい。
だからこそ、余計目を凝らして見ようとする。
大切だからこそ、丁寧に扱わなければいけないものだからこそそうする。

自分の尖った部分を見せないようにするし、
光が閉じないように、自分の闇の部分が相手に漏れないようにする。

そうしているうちに、自分自身が透明になってしまって、だんだん自分がどうしたかったのか分からなくなる。

透明な関係が、透明ではなく「見えないもの」になってしまう。

「私のことをわかってほしい」
「でもわかられた後のことが怖い」

「もっと私を大事にしてほしい」
「でも、相手がすでに自分のことを大切にしてくれているのはわかる」

そういった矛盾を抱えながら自分を隠して、きっと相手もそうだろうと邪推する。
そうしているうちに、2人の何もかもが見えなくなって、気づいたら、その精巧なガラス細工を蹴り散らかしていたり。

破れて粉々になった関係性を見て、初めて自分がどうしたらよかったのかに気づく。
あとの祭りではあるけれど、割れた破片が自分の心に突き刺さり、2人から血が流れ、ぼう然と立ちつくす。

恋愛には2つのゴールがあると言う。
一つは冷め切って別れること。
二つ目は結婚と言うゴール。

その2種類がないなんて悲しいよね、と言うコメントをSNS上に、特に最近たくさん見かける気がする。

秋風が吹いてきて、みんなもの悲しくなって寂しいのだろうか。

結局、好きって何だったんだろう?
子供の頃思い描いていた結婚生活とは一体何だったんだろう?

それがわからない限りは、私は誰かを好きと言う資格がないと思うし、もちろん、結婚をするつもりもない。

でもやっぱり、恋人と言うある種、特殊な関係性の中で、どこからどこまでのわがままを許されて、どこからどこまでが譲歩するべきことなのか。

それって恋人に限らず、考えるべきことではあるかもしれない。
それなのに、その特別な関係性に甘えてしまいたくなるのはどうしてなんだろう。

相手が好きなのではなく、「私が好きになるほど素敵な相手」が「私のことを好きである」と言う事実が好きなのだろうか。

なんだかとっても、恋愛に向いてないなとつくづく思う。
そんなクリスマス3ヶ月前の秋の始まり。

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