私自身の人生を振り返ってみれば、私は本当のことよりも嘘を放った方が多い気がする。

言い訳をするつもりではないが、これは幼少期、自分の思い通りの回答を得られなかったら折檻を喰らわす母親の元で育ったために、
不本意だったとしても相手の思うことに同意したり、自分はなんの感情がなくても、それっぽい声や態度で相手の望む言葉をかける癖がついてしまったのだと思う。

「宿題をやった」「嫌いな食べ物はないよ」という嘘から始まり、
「あなたのことが大好きです」という思ってもいない言葉を自分の顔を鏡で見るたびに、悍ましいほどドス黒い醜悪な化け物が映っているようで恐ろしかった。

あらゆる場面、あらゆる人に好かれる私という人間はあくまでも、嘘で塗り固めてできた「私」という存在であり、そんなユーモアがあり人の気持ちに寄り添えるような「優しい人」はこの世界には存在せず、
地に足をつかせ「ほんとうのわたし」を歩かせてみれば、みんなが鶏を追い払うかのように疎むのだろうと、そういう卑屈な気持ちを持っているのも紛れもなく「ほんとうのわたし」なのである。

自分自身に虚言癖があると、周りの言動も信じられなくなる。
これもまた、母親含めいろいろな人に期待を裏切られて、珍しく発動させた私の心からの優しさを踏み躙られた経験がものを言っている部分もある。

人間とはそういう生き物だ。
優しさは全員に対してではなく特定の人に与えられるべきものであり、本来はその無条件の愛を注がれるべき子供が、その後愛する人に対しては良い人のツラを剥ぎ、愛能う限り本当の愛を注ぐという仕組みだろう。
その子供の立場を全うできなかった人間が、心の中が気持ちの良いくらい空っぽな人間が愛を注がれようだなんて烏滸がましいにも程がある。

だから私は「愛されてきた人」を演じ、優しさを、その烙印を手に入れられるよう皮を被って来た。
いつか「ほんとうのわたし」がバレてしまうかもしれないという恐怖と隣り合わせで手に入れたそれはつまらなくてしかたがなく、楽して手に入れたそれを手のひらで転がしてバラバラに壊すということを繰り返した。最悪である。

人の気持ちをそんなふうに踏み躙れるのは、そこに信頼感を置いていないからであり、「どうせ…」と思うより先に出た言葉を盾に自分の殻に閉じこもり、信頼感がない言葉を重みのない言葉で返し、表面上で気持ちが跳ね返しているからだと気付いたのはここ数ヶ月のこと。

あるとき、深い仲の人に(些細なことで内容は覚えてないが)なにか嬉しいことを言われて、「本当に?」と聞き返したことがある。
「嘘ついてどうすんの?」と聞き返され、私としては「あ〜、この人『嘘ついてどうすんの』が口癖だなあ」とぼんやり考えていた。

冷静に考えれば逆である。「本当に?」が私の口癖だったのである。私が馬鹿の一つ覚えのように「本当に?」と言ってくるから、いつもと全く同じ回答をしているのだ。

さらに考えれば「些細なことで後に記憶に残らない」ような取り留めもないことさえ私は疑ってかかる癖がついていたのだ。
だから、その人の前で「本当に?」という言葉を投げかけるのはやめようと意図した。

私の虚言癖、特に家族の内容に関してしばらく彼の前で止むことはなく、「私、愛されてきたの」といわんばかりの幸せな話を彼は疑うことなく全て信じた。
その理由は、私が作り上げて来た「幸せな世界」は彼がなんの疑いもなく暮らして来た世界だったからだ。

絵に描いたような幸せ。信じてしまったら私が彼を憎悪の目で見てしまう。だから信じないし、聞かない。
しかし深い裂傷を絆創膏で応急処置してもすぐに傷口は開いてしまい、とうとう私は耐えられなくなり本当のことを話すことで八つ当たりをした。

私は泣いていた。終わったと思った。「ほんとうのわたし」を一番嫌っていたのは私自身だった。
恐らく彼も泣いていた。怖かったから彼の気持ちを見ないようにした。
そんな自己中心的な考えをしている「ほんとうのわたし」が醜すぎて殺したくなった。

「気持ちを考えてあげられなくてごめんね」が彼の第一声だった。
「なにいってんだコイツ」が私の気持ちだった。私とお前では住んでいる世界が違う、棲み分けるべきだという話をした。

その後色々話したけど、彼は棲み分けるなんてことは許しはしなかったから今も同じ世界で生きているんだと思う。
その後に「ほんとうのわたし」とその悍ましさを泣きながら話した。

「でも、その【演じてる方のあなた】も『あなたが考えてやっている】のだから、それはもうあなたなんじゃない?」と言われた。
私が嘘で塗り固めて来た話は全部が嘘なんじゃなくて、それもまた私なのだと思うと、呪いが外れたように私は私自身が見聞きして嬉しかったことを感じ、話せるようになった。

嘘をわざわざつく必要がなくなったのである。
裏を返せば、相手の言っていることが嘘であるかもしれないと疑う必要もなくなった気がする。

あれ以降私は、八方美人ではなくなったし、性格も「荒くなったように見える」ようになったと思う。
「こき使われると思われたら嫌だから」という理由でしてこなかった些細な頼み事もするようになった。

善意を奪うのではなく、「してもらった」ことが嬉しいから「何かをしてあげたいと思う」。
それを一つずつ重ねていく毎日の中で、私自身が課していた鎖を一本ずつ手伝ってもらいながら解く中で、幸せだと思える日常が崩れてしまうような嘘が降りかかって来ませんようにと本心から願うのである。

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