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『らんたん』を読みながら思ったこと|書評ではなく…

初めて柚木麻子さんの小説を読んだ。

今まで柚木さんの本は読んだことがなかった。
もちろん名前は存じ上げている。
というのも柚木さんの名前をあまりにもTwitterで見ることが多くて、そのツイート内容も共感することが多くてよく読んでいたので。

古い考えかもしれないが小説家がTwitterをやるのはブランディング的にどうなのかと思う。
Twitterでタダで文章を読むとその人を知った気になってしまい小説に興味が向かなくなる。
しかしそもそも小説が全然売れないこのご時世を考えれば、そんなデメリットよりとにかく知名度を上がるメリットの方が大きいのだと思うし、私のような偏屈が脱落する減り分より、「柚木麻子さんの本、読んでみよう!」と思う人の増え分の方が多いのだろう。

結論からいうと『らんたん』を読んでいる間、誇張なしに涙が止まらなかった。
私は小説を読んで感動することはあっても感涙するということは全然ないのだけど。

『らんたん』の主人公は恵泉女学園の創立者・河井道で、前半は河井道が教鞭を執った女子英学塾(現・津田塾女子大)を舞台に、女学校での日々が描かれる。
その部分で本当に涙が止まらなくて自分でも笑けてくるほどだった。

私は津田塾の出身ではないが、似たような古い女子校(中高一貫校)の出身だ。明治期に女子教育の先駆として建てられたキリスト教主義の女子校だ。

だからか『らんたん』で描かれる女学校時代が本当に懐かしくて心を動かされた。

いやいや、まさかまさか。
『らんたん』は大正の話で、私の高校時代は平成終盤というかもはや令和に差し掛かっていたんだぞ。
それなのに懐かしいなんてまさかそんなわけ。

しかし女子校の本質はそんなに変わらない、少なくとも私にとっては。

高校時代の私は学校の外がどんなものかも知らずに、学校を社会の全てだと思って毎日を過ごしていた。つまり社会が男性中心であることさえ知らずに女だけの花園の中で生きていた。

もちろんその日々が楽しかったばかりではない。
あの頃は「上へ、上へ」と必死に頑張っていて、それがすごく辛かった。頑張れないときには自分を責め、常に何かに追われているようだった。ただ上だけを見つめて這い上がろうと必死だった。

高校の頃の担任教師が定年近い女性教師だったが、彼女が本当に厳しくてウザかった。漫画の中の女学校の教師みたいな人だった。
聖書を忘れると物凄く怖い目で叱って外で立たされたし、献金を強要してくるし、掃除でもチリひとつなくなるまで居残りさせられて…

私と同じ高校を出ていても母校に対して全く違う印象を持っている人が多くて、みんなが口を揃えて「自由な校風でした」と言うのだが私にとってはとんでもない。

全く自由ではなかった。過干渉そのもの。

私が受験勉強に熱心なこともその先生は嫌がっていて「勉強ばかりしているとバカになる」「だからおまえはバカ」と面と向かって罵倒してくる始末で…

「勉強ばかりしているとバカになる」はその当時から同意だったが、しかし受験勉強はしないといけない。私には行きたい大学があるのだから。
という話をすると「なぜその大学に行きたいのか」と聞いてくる。

理由なんかない。ただ「上へ」という私の欲望だ。強いていえば「ナメられたくないから」と返すと、「ふん、なるほど」と納得してはくれるが、
「しかし神にとってあなたの価値は大学名では変わらない…」とか言ってくるのだ。無神論者の私に向かって。

まあ私も悪くて、他の授業中に過去問とかやってたから喧嘩になるわけだが。しかし私にも言い分があって、学校の授業はつまらなかった。あまり体系的ではなくて、ただ先生がとりとめのない話をしているばかりだったので「上へ」という感覚がなかった。

しかも先生の話は必ず「神のご加護」に帰結する。先生は骨の髄までキリシタンだった。

とにかく受験勉強をしたい私と、絶対にさせたくないその先生とのバトルはクラス内で名物化するほどだった。

忘れられないやりとりがある。

私が授業中に関係のない受験勉強をしていたとき、先生が教材を取り上げ、「今後は絶対に内職しないと誓え。そしたら返す」と言ってきた。
私は「そんな誓いはできないので返さなくていい。それは差し上げる」と言い返した。(今思えば、この頃は血気盛んで、一生懸命生きていたものだ)
そしたら先生が「受験戦争に洗脳された哀れな子羊」と私を呼び、私は「キリスト教に洗脳されているのは先生の方」といい、しばらく言い合いをした。
クラスの皆は大喜びで、一部の良心的な私の友達は私を心配して窘めようとしていた。
結局、教材は返ってこなかった。もちろん私は謝らなかったし先生も折れなかった。

そんなやり取りがあったのに先生は私のことが好きらしく、ことあるたびに絡んできた。私は嫌いだったけど。
「あなたは本当は優しい子だと知ってる」とか言ってにて、それもウザかった。しかし私は心根まで不良というわけではなかったので嬉しい気持ちもあった。

先生は私は絶対に浪人すると言ったが私は浪人することなく(命を懸けているのに失敗してなるものか)行きたい大学に合格して母校を笑顔で去った。

受験のとき私はその大学にしか願書を出さなかった。その先生は「一枚でいいの?」と笑いながら言った。私が頷くと、「落ちたら浪人?」とまた笑いながらきいてきた。その笑い方にイラつきながら私は「落ちませんから」と言った。(今とは別人のように活力にあふれていた)

高校を去るときなんの未練もなく、二度と校舎も見たくないと思ったが(実際、卒業式以来一度も見ていない)別れ際に先生が言った。
「嬉しいことがあっても報告しにこなくていい。彼氏ができたとか弁護士になったとか結婚したとかそんな報告はいらない。ただ悲しくてたまらないときにいつでも帰ってきなさい」
私はそれなら帰ってくることはありませんと言って背を向けたが、それが先生との今生の別れになった。

それから数年後、たまにくる母校の同窓誌をどういうわけか眺めていた。いつもは丸めて捨てるのにそのときはあまり忙しくなくてわざわざ読んだ。最後に「今年亡くなった卒業生」の一覧があって、そこに先生の名前があった。まだ50代だったが亡くなったらしかった。しばらく言葉が出なかった。

今思えば先生はなんというか、最後の「女学校の先生」だったという感じがする。先生はべつに私を更生させたわけでもなく私の人生に大きな影響を与えた人でもないが、『らんたん』を読んでいてその先生のことを思い出した。『らんたん』に出てくる厳しい教師たちはその先生のようであり、女学生たちは先生の学生時代のように感じられた。ただ男社会にあってわざわざ女子校という教育機関を準備し、そこに入ってくる少女たちを厳しく鍛えて「どこに出しても恥ずかしくない女」に育てあげようとした昔の女性教育者の気迫を感じる。
先生は今の基準でいえばそれほどリベラルな思想の持ち主でもなく、フェミニストとも言い難かったが、確固たる政治思想はあり、それを生徒に悪く言えば押し付けるようなところがあった。

当時はひたすらウザく、今思い返しても教育者として理想的とは思えない態度だったが、彼女の切実さだけは私の胸に刻まれて消えることはない。

その先生との日々を含めて女子校での年月は私に一人の人間としてのプライドを与える時間だった。「いい女」ではなく「立派な人間」になりたいというプライドである。その年月は恋愛や結婚について考えたことは一秒もなく、容姿や美容のために脳みそを使ったこともなかった。私は男社会の男のようにひたすら「上へ」と渇望し、ひたすら毎日頑張った。

ある程度社会の複雑さがわかってしまった今はそんながむしゃらになることはできないが、あの年月がなければ今の私はもっとプライドの低い人だったと思う。それが不幸かは分からないが。

これまで戦前の女性たちの女性解放運動について尊敬はしてもあまり感謝したことはなかった。というのも戦前の婦人運動は結局は身を結ばず、婦人参政権は日本の敗戦と連合国の統治によって実現されたからである。

しかし婦人参政権はともかく、日本の少女に女子教育を与えようとした人たちの努力は数々の女学校として実を結んだ。
私はそんな背景も知らずに母校に入学したが、そこで彼女たちが私に与えようとした光を受けたことは間違いない。
あの先生は明治大正の時代に少女たちにプライドを与えようと尽力した彼女たちの意志を無駄にするまいと少なくとも頑張っていたことがよくわかる。

だからといって先生にもっと優しくすればよかったとかは別に思わないけど。戻りたいともそんなに思わないけど。
ただひたすら懐かしくて泣いた。あの頃は面倒ごとばかりで規則も多くて少しも自由ではなかったが、ただ魂だけは自由であったように思う…

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