見出し画像

ラジオ、環八、夜更けのTSUTAYA

 三十歳になるまでには家を出て、ひとり暮らしを始めなければ、と思っていた。
 私はずっと東京で育った。当時の実家は練馬区光が丘の、十四階建ての巨大団地の一室で、都営地下鉄大江戸線のおかげで新宿まで乗換なしで三十分足らず、地理的な不都合はない。
 子どもの頃の私に「十八歳になったら家を出るものだ」と言っていた母も、五年かけてなんとか大学を卒業し、その後もいわゆる「正社員」として就職することができず、月収十万円程度にしかならないアルバイトをしながらふらふら生活している私を無理やり追い出すようなことはしなかったし、言わなかった。
 つまり、家を出なければならない切迫した事情はなかった。それでも、私は「大人になったら家を出るのだ」と思っていた。「家を出る」と「大人になる」が私のなかでわかちがたく結びついていた。
 現実には、二十九歳になっても時給で働く派遣社員で、貯金はなく、奨学金の支払いは残っており、部屋を借りるための初期費用はとても手の届かない大金だった。これはもう、ひとり暮らしなんて一生無理なのかも、と諦めかけていたころ、運よく勤め先が直接雇用に切り替えてくれることになった。都内でひとり暮らしできるくらいの月給をもらえる見込みがたち、また派遣から雇用が切り替わる月は、給料の支給日のタイミングで一時的にまとまった額が手に入ることもわかった。今しかない、と思いたって部屋を探して、家を出た。三十歳の誕生日を迎える三ヶ月前、八月の終わりだった。

 お盆休みに一日かけて不動産屋を訪ねてまわった。私は部屋探しなどしたこともなく、右も左もわからなかったので父がついてきてくれた。せっかくなら知らない街に住んでみたいと思っていたのに、気がついたら実家からひと駅しか離れていない、歩いても十五分ほどの距離のワンルームに決まっていた。内見した物件は三つぐらいだったと思うが、暑さと慣れない体験とで疲れたのか、最後の物件のときには私は相当疲れていて、父の「ここがいいんじゃないか、いや、ここがいいと思うぞ」という熱烈なプッシュと、「すぐに契約してくれたら家賃を一万円値下げする」という担当者の提案に、もうそれでいいような気がしてうなずいたのだった。
 私に払える家賃の範囲内で借りられる部屋は二十平米程度のワンルームかよくて1K、私は一間で生活するということをまるで具体的に想像できておらず、案内された空間のコンパクトさに驚いてしまった。そうか、寝起きするのも、ごはんを作って食べるのも、本を読んだり文を書いたりするのも、生活がすべてこの一部屋で完結するのか、ということを内見してはじめて悟り、紹介された部屋はどれも同じように思えたというのもある。
 できるだけはやく入居してほしいと言われ、翌日からあわてて準備をはじめ、二週間ほどで引っ越した。ものすごく高いハードルに思えていたひとり暮らしは、あまりにもあっけなく始まって、拍子抜けした。
 東向きのあかるい部屋だった。環八に面していて、最初のうちは夜、眠れるかどうか心配だったが、実際には車の音にも階下の居酒屋の物音にもすぐに慣れた。
 最初に準備できたのは冷蔵庫と洗濯機と電子レンジとカーテンだけで、本をいっぱいに詰めたダンボール箱を食卓にしていた。座椅子、ちゃぶ台こたつ、本棚と少しずつ家具を買い揃え、部屋はしだいに整っていったが、TVだけは最後まで買わなかった。かわりにポータブルラジオを買って、平日の朝、仕事に行くまでの時間や音がなくて寂しいときにはラジオを聴いていた。
 引っ越してしばらくは週末のたびに実家に戻っていたが、やがて生活のペースができてきて、友だちが遊びに来るようになると帰らなくなった。この部屋で暮らしたのは三年半あまり、正月は四回迎えたが、四回とも三が日は実家に戻らなかった覚えがある。友だちが部屋にいたり、友だちの部屋に行ったり、カウントダウンライヴでそもそも部屋にいなかったり。
 徒歩一分の大江戸線の駅が最寄り駅だったが、二十分ほど歩くと東京メトロの有楽町線の駅にも出られ、友だちはもっぱらそちらを使っていた。終電で帰る友だちを途中まで見送って、ひとりの部屋に引き返すために歩いた深夜の環八沿いの景色は忘れられない。ひっきりなしに大型トラックが走りすぎる幹線道路は夜でもあかるく、道路沿いには深夜営業のミスタードーナツとTSUTAYAが並んでいて、用もないのに立ち寄った。
 実家にいたとはいえ、大学生になってからはとくに門限もなく、ライヴのあとなど余韻でぼんやりしていて終電を逃し、ファミリーレストランで始発を待って朝帰りすることもあった。夜中に出歩くことを制限されていたわけではなかったのに、それでも午前零時をとっくにまわった夜更けにあてもなくTSUTAYAのしらじらした店内を歩いているとき、どうしようもなく自由だとおもえて、うれしかった。

 狭いことと、浴室がユニットバスでトイレとわかれていないこと以外には大きな不満もない部屋だったけれど、二度目の更新を目前にして出た。ひとと暮らすために引っ越したのだが、共同生活は半年もたずに破綻し、以降実家への一時撤退も含めて毎年のように住居が変わるはめになる。
 二十代のあいだじゅうずっと「三ヵ月先はどこで働いているのかわからない」と思っていた。ようやく長く働けそうな職場に落ち着いて三十歳になった途端、今度は「三ヵ月先はどこに住んでいるのかわからない」という状況になってしまった。おかげですっかり部屋探しにも慣れ、内見も契約も一人で行けるようになった。
 四十歳の誕生日は、大学と墓地と川が近く、狭い坂道が多く、路面電車が走っている街の1Kで迎えた。十八平米と手狭だが、クローゼットが使いやすく、風呂とトイレは別で、洗濯機置き場がベランダなこと以外はとても気に入っている。家賃も手ごろだ。はじめて借りた部屋以来で更新できたのだが、二度目の更新はおそらくかなわない。
 経済的にも多少は余裕ができたので、TVとブルーレイ・レコーダーを買い、衛星放送も視聴できる環境をつくった。誰に遠慮することもなく見たい番組を見たり録画したりしている。それでもなぜか、はじめて借りたTVさえない部屋で、ちゃぶ台にポータブルラジオを載せて、FM放送を聴きながら朝ごはんを食べていたことを懐かしく思い出してしまう。実家暮らしの高校生の頃には思ってもみなかった生活だった。あの頃よりよほど快適に、気ままに、不自由なく暮らしているのに、あのワンルームで過ごした日々はやけに懐かしい。遊びに来ては終電で帰っていった友だちとは、いまは会っていない。環八沿いの真夜中のTSUTAYAにも、きっともう二度と行くことはない。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?