父のこと。


実はわたし、先々月、2019年の6月に実父を亡くしました。
その時の、出来事とか、自分の気持ちを残しておけるように、この記事に書きとめます。

今年、父に会ったのはたったの3回でした。
お正月と、5月26日と6月3日。
このうち、父が元気だったのは、お正月の時だけでした。

元々、ガンを患い、手術をし
治療のため月の半分は入院するような暮らしをしていた父。
それはずっと続くものだと思っていました。

5月の下旬に入った頃、母から連絡がありました。

 「最近お父さんの顔見てへんし、帰って来れる?」

聞くと、鎮静剤を使った治療に入ることになりそうで
それを使うと眠ったようになって、意識がふわふわして、
そのまま目を覚まさないことになるかもしれない、
鎮静剤を使う前が、確実に意識のある父に会う、最後のチャンスだから、と。
(鎮静剤について、わたしも母も
正しい認識になるのはもう少し後のこと。
わたし自身、ふんわりとそういう治療もあるのかー
としか考えていませんでした)

週末、夫と一緒に帰ることに決めました。


何となく、嫌な予感がして、検索画面を開きました。

 ガン 鎮静剤

表示された検索結果には、『最終末期』の文字。
怖くなって、記事は一つも開けず、そのまま画面を落としました。


まさか、そんな

という気持ちでした。そんなはずはないだろうと。
受け入れ難いことで、そんな風に考えてしまうことは
父にとって失礼なことのような感じがしていました。

日曜日。
母と合流し、車に乗って父の入院する病院に向かいました。
院内を歩きながら、なんの気なしに母に

「お父さん、どこに入院してんの?」

と聞くと、

「…、3階。緩和ケア病棟。」

と返答がありました。


『緩和ケア病棟』

医療ドラマでしか耳にしたことがない言葉でした。
浮かぶイメージは、治療の手の施しようがなくなった患者さんが
最期を少しでも苦しまずに迎えられるように過ごすところ、というようなもの。

思わず口をついて出てきたのは

「え…?それってお父さん、マジでやばいやつ?」

でした。
それを聞いた母は、言葉は悪いけれど、『やばいやつ』だ、と言いました。

病室について、そこで目にしたのは、
自分では身体の向きも変えることができなくなった、弱った父の姿でした。

衝撃でした。
こんなに弱ってしまうのかと。

発語が多少ゆっくりなものの、会話は問題なくできる状態だった父は、
自分の身体のことについて、わたしたちに話して聞かせてくれました。

ガンが、骨に転移し、今は肺にも転移していること。
そのせいで、肺に水がたまってきていること。
それは、薬やその他の治療では、どうすることもできないこと。
水がたまると、いずれ死んでしまうこと。

「(お腹の子の)予定日、いつって言うたっけ?」

と、父は問いました。
(このとき、妊娠5ヶ月目に入ったところでした。
妊娠が分かって少しした頃に、両親には報告済み)

「11月」

と答えると、

それには間に合わへんなぁ、と悲しそうにわらいました。

このとき、いろんな感情がせめぎあっていました。
上手く言葉では言い表せないですが、

どうして、こんなに早く、とか。
なんで、お父さんが、とか。
孫の顔見せてあげたかった、とか。

悲しい、寂しい、つらい、悔しい。
そんな、名前のある感情ばかりでは、到底なかったと思います。


わたしは、昨年結婚したばかりだったのですが、
今年のお正月、親戚が集まった場で、父は
「次は孫やなぁ」と嬉しそうに口にしていたことを思い出していました。
叔父に、「お義兄さんさすがに気が早いですよ(笑)」とたしなめられていた父。

せっかく、子どもを授かることができたのに。
誰より楽しみにしてくれていたであろう父に、会わせてあげられないなんて。

奇跡が起きて、子どもが生まれる頃でも、父は生きているんじゃないか、と思っていました。

このあと、親戚の方が父を訪ねてきて、少し席を外しました。
母と夫と3人で、談話スペースで話をしているとき、気になったことを訊いてみました。

「お父さん、11月まで難しいかなぁって言うてたけど、具体的にいつぐらいって言われてんの?」

母の答えは、

「うーん、、夏ぐらいかなぁって」

「夏?誕生日くらい?」
※父は、8月中頃が誕生日でした。

「うーん、、それはどうやろなぁ。。」

誕生日ですら微妙なのか、とさらに衝撃でした。

親戚の方が帰られたあと、再び病室に戻ってまた4人で話をして、その日は帰りました。
この日、父がわたしたち夫婦に遺した言葉は、

「添い遂げるように」

でした。

もちろん、未来予想図ではそのつもりでしたが
改めて夫を大切にしよう、と思いました。

父は、夫をとても気にいってくれていました。
これはわたしの推測ですが、父の子どもは、わたしと妹の、女の子二人しかおらず、
義理とは言え、息子ができて、より嬉しかったのではないかと思っています。


病院から駅まで送ってもらう車の中で、いろんな人の気持ちを考えました。

母はどんな気持ちだっただろう。
ひとり、病院からの帰り道、運転しながら泣いたりしたのだろうか。
妹はどんな気持ちだろう。
バージンロードを父と歩くことが叶わない妹。
父は、どんな気持ちだろう。
自らの母より先に死ぬことを。
妻をのこしてしぬことを。
子どものこれからを見守れぬことを。
定年も迎える前に。
これから母といろんなところに出掛けたりするはずだったろうに。

ただただ、悲しみにくれた帰り道でした。


後日、妹と電話で話をしました。
このとき、鎮静剤をうつということが、ほぼ最期のときになるのだという認識になります。
この認識も正しいものではありませんでした。


そして、6月3日、午後5時を迎える少し前、母から電話がありました。
病院から母のもとへ連絡があり、父が自らの希望で鎮静剤を打ってほしいと申し出たこと。
担当医師は、長女さま(わたしのこと)がまだ来ていないがどうするか、と気にしてくれていること。
母自身は、ここまで弱り切っている父の姿を、特に妊娠中のわたしに、見せたくないこと。
鎮静剤の投与をしたあと、一度投与を止めること、そのあと目を覚ますかどうかは、その人次第であること。
これらを母から伝えられました。

わたしは、今から行くから、待っていてほしいと伝えました。
そして、夫に連絡をとり、帰宅を待ってからタクシーで病院へと急ぎました。

病院では、先に夕飯を済ませるよう母から促され、母、妹、夫とわたしの4人で売店のお弁当を食べました。
そして、父の弟である叔父と、祖母と合流し、病室へ向かいました。

そこにいたのは、あまりにもやつれて、弱りきった父でした。
酸素マスクをつけられ、荒い呼吸を繰り返すだけで精一杯の様子で、
意識があるといっても、会話なんてもはやできる状態ではありませんでした。

それでも、「お父さん、来たよ」と声をかけると、
あぁ、とも、おぉ、ともつかないような声で、反応をくれました。

父をかこみ、声を掛けたりしながら1時間ほど過ごして
鎮静剤の投与が行われました。
翌朝9時に、一度投与を止めることが決められ、わたしたちはそれぞれ帰宅しました。
わたしと夫は、自宅には戻らず、わたしの実家へ。
翌朝父の様子を見てから、夫のみ仕事へ行くことにしよう、と話をしていました。

ですが、23時を過ぎた頃、母の携帯電話に着信が入りました。
病院から、父の呼吸状態が危なくなっているから来てほしいとのことでした。
急いで準備をし、病院についたのは、0時を少し過ぎたときでした。


病室で、父は、既に呼吸することを止めていました。

最期にそばにいてくれたという看護師さんからは、
眠るように、穏やかに、息を引き取られました、と告げられました。

悲しいけれど、痛みに耐え、病気と闘った父へ、ただただお疲れさまでした、という気持ちでした。

その後、医師より正式に死亡宣告を受けました。

父の表情は、数時間前に見た苦しんでいる時の姿よりも、とても穏やかなものになっていました。
本当に、昔よく見ていた、昼寝をしているときの顔と同じかお。
楽になったんだなぁ、と思いました。

その後、父の身体は葬儀場へ運ばれ、通夜・告別式を経て、火葬されました。

父は本当に真面目でマメな人でした。
自分の身辺整理は自分で行い、
調べ物をした結果の印刷物は丁寧にファイリングし、
旅行に行けば、写真を印刷してポケットアルバムに仕舞い。

実家では、思い出を振り返っては笑い、
悲しみの波にのまれて涙し、
それでも、あんまり悲しんでばっかりだとお父さんに怒られるね、と泣き笑い。

今は、父が楽しみにしてくれていたお腹の子の誕生に備えて日々を過ごし
無事に生まれてきてくれた時には、父に会いに連れて行こう、と思っています。

これで、父の話はおしまいです。

ありがとうございます!あなたにも嬉しいことがありますように。