泣くこと

泣くこと。

いま世界中の人たちと共に直面している日常を前に、泣くことは、誰もがお金をかけずにできることで、それでいてかなり重要な行為だと思っている。

日本で最初の緊急事態宣言が発令されるよりも少し前から、東日本大震災の経験に、あの日、いのちに、私は何を学ばせて頂いたのだろうと考えることがある。

尊く大切ないのちに想いを巡らせ、あの日、東京で暮らし、身をもって学ばせて頂いたことのひとつは、押し寄せる膨大な情報量と、目の当たりにする数々の困難な現実を前に、私のこころとからだの声に常に慎重に気を配っていられることの大切さだった。

誰かを守りたい、助けたい、励ましたい、支えたい、力になりたい。

ひとを救えるかもしれないなんて、なんておこがましくて、愚かな考えなんだろう。

ひとはひとを救えない。

そんなことはもう何度も失敗を重ねてとうに分かっているつもりなのに。

それでもじっとしていられないのなら、それはもう性分なんだろうから、致し方ない。

ならば、状況に応じてしなやかに戦いかたを変え続けることで、体力と精神力が擦り切れてしまうのを淡々と回避しながら行動を重ねていくまでだ。

私のこころもからだも健康でいて、さらには自分が生きるために最低限必要なお金が手元にあってはじめて、誰かの健康を想い、無事を祈る気持ちは結実するのだと思う。

いま、立ち止まって、自分の胸に手をあてて聴いてみよう。身体が伝えてくるこえに、耳を澄まそう。


心臓の音、いつもよりも音が大きく波打っていないだろうか。テンポは普段どおりだろうか。

黒い靄が胸の奥あたりをずっと同じところでぐるぐる回ってはいないか。

頭皮や肩は、カチコチの岩のように固まってはいないだろうか。

ゆっくり、慎重に、スキャンする。

ちいさな疲弊のサインにどうか気付いて。そしてもし、その身体から発せられたちいさなこえに気付くことができたのなら、どうか、いったんすべての手を止めて、ひとりになろう。

自分以外のすべてからいったん離れて、世界とのソーシャルディスタンシングを恐れないで。

ひとりになれたら、泣く。

写真、美術、音楽、映画やラジオにドラマ、芸術、文化やエンターテイメントの力を借りてもいいし、植物や動物のそばでなにもしないでいるのもいい。ひとりになるとは言ったけれど、家族や友人、もう何年も連絡を取っていないあの人に電話をかけてみてもいい。大切なことは、誰かを助けるための勇気とおなじくらいに、自分を助けるための勇気を持つこと。

いま物凄い速さで身体中へ流れ込んでくる世界中のかなしみは、たくさん、たくさん泣いて。一度で泣き切れなければ、まる一日、いや、数日かけてでも何度でも泣けばいい。

涙は身体の深いところでパンパンに膨れ上ったかなしみを、穏やかで平らかな清流へとやさしく導いてくれるから。

たくさんたくさん泣いたあとは、ちいさなこどもを自分に重ねて、自らの手と腕でぎゅうとやさしく力を込めて、たったひとりの「あなた」を抱き締めてあげてほしい。

かなしかいんだねって、どんな気持ちもやさしく受け容れて、どこまでも。

ひとを救いたいなんて、おこがましいことこの上なき醜い妄想を、いま改めて私の家のベランダから宇宙へとかなぐり捨てながら、それでもいま私が「わたし」を深く愛することが、いまこの世界のどこかで同じように必死で生きているたったひとりの誰かの存在を、愛することに必ずつながっていると思うから。





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