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泣くということ

悲しいとき、悔しいとき、泣く。
ただ、感動してもあまり泣かない。というか泣けない。
泣くってどういうことだろう。皆はどんなときに泣くんだろう。


感動すること

感動というのは、ある出来事を受けて心が動かされている状態と言えよう。喜怒哀楽、あるいはその4種に当てはまらない、言葉にならない感情でもよくて、なにかに心を動かされて感情が生まれたら、それはもう感動と言っていいと思う。「感じて動く」と書くのだから、人である以上きっと誰もが経験しているのだろう。

ただ近頃は「感動」という言葉が、本来の意味とは異なる表現として使われることが多いように感じる。それゆえに「感動」という言葉が本来持つであろう、真に迫るような、純粋な心の動きというニュアンスが少しずつ薄れているように思う。
僕は感動したとて涙を流すことは少なく、「感動して泣く」ということは相当心が動くんだろうと思って生きてきた。自分もそれを味わうべく「感動の」映画を観てみたり小説を読んでみたりしたけれど、泣くには至らず、滅多に泣けないがゆえにいまでも「感動」という言葉からは圧倒的に純度の高いニュアンスが拭い去りがたい。

さらに僕は、当時の感動の代名詞、卒業式でも泣くことはなく、僕は感動できないんだと子どもながらに思った記憶がある。のちに考えは変わるが、子どもにありがちな大きな誤解である。
それでも、心が動いていると感じることはたくさんあった。鳥肌が立ったり、言葉を失ったり、瞬きを忘れたりする。そうして生きているうちに、僕も感動しているんだと思えるようになった。そしてだんだんと「泣くこと」だけが感動を測る尺度ではないんじゃないかと考えるに至った。


感動するから泣く

映画を観て感動した、音楽を聴いて感動した、小説を読んで感動した、素敵な会になって感動した、どんな場合にも、少なからず感動と泣くことはセットで語られることが多い。そして、「感動する→泣く」の関係の中で「泣く事は感動する事の十分条件」ではなく、「泣く事は感動する事の必要条件」にすり替わっている(ように感じられる)ことも多い。

感動するから泣くのであって、泣かないから感動していないとは一概に言えないと思う。昨今の映画や小説の「泣ける〇〇」という謳い文句は、泣くまでに心の中で起こる大事な部分が全て抜けていて、結果だけを求めたチープな表現に感じてしまう。だからなんだか辟易してしまうし、作品に対するハードルが変に上がってしまうのもよくない。「さあ感動してください」と言わんばかりの煽り文句がつくと、手を出す気が薄れたり、失せたりする。
子どもの僕がしていた誤解は、そういった誇大表現の溢れた広告や関係のすり替わりによって生まれたのかもしれない。世間一般の人たちはこれを観て泣いて感動したと言っているのに、僕は泣けない。つまり感動できなかったのか…と。

映画を観ていて、主人公の心情を思って泣いたことはある。ただそれを感動と呼ぶのかと言われると、違うんじゃないかと当時は思っていた。心を動かされたとはいえ、それは共感であり、明確な感情を説明できる。どうしようもなく悲しいシーンがあって、自分も悲しくなっただけだ。と、思っていた。
でも、いまならあれも感動の一つと数えていいんじゃないかと思っている。というか、未だに自分の中で感動の定義は曖昧で、昔は泣くことだけが感動だったのが、歳を重ねるにつれてその定義の幅が拡がったという方が正しいかもしれない。


泣くという現象

前に述べたように、感動を測る尺度は泣くことだけじゃないと思う。
ただ、泣くこと、つまり涙を流す事に意味が見出されるのはわかる。泣き顔が常態の人は少ないし、涙を流す程の出来事が日常に多いわけではないから。

僕が思うに涙というのは溢れてくるもので、制御できる部分ではない。堪えることはできるけれど、泣くことって自発的には難しいし、そもそも心が動いたときの体の反応であり、自分の意志とは関係なく出てきてしまうことから、もはや現象なんじゃないかとさえ思う。日食とか光芒とか雷とか、そういうのと同じ類のもの。
誰かが泣くのを見ているという事は、その人の心が動いている現象を観測しているということなんだろう。


感動を表現する

感動ってなんだろうとインターネットでなんとなく調べていたら、感動創造研究所というサイトと出会った。

感動創造研究所によると、

なにかに深く感じて心が受けた衝撃から生じた混合感情が感動である。
その心的作用の瞬間的な衝撃強度と混合感情の複雑さがとらえきれないとまどいから「言葉ではいい尽くせない」ものとなる

『なぜ感動はいい尽くせないのか』感動ラボ / 感動創造研究所

ということらしい。

なるほど。
やはりなにかに心を動かされて感情が生まれたら、それはもう感動と言っていいってことなんだ。感動という感情があるわけではなく、その原因たるなにがしかの感情があるわけで、しかも混合感情だから言い表すのが難しいというわけか。心的作用の衝撃強度というのも「衝撃で言葉を失う」とはよく言ったもので、言い表せない複雑さと併せて、余計に感動を表現しづらくなっているんだろう。

「人が泣くのは、悲しいという気持ちを他人に表明したいからだ」というような話をどこかで聞いたことがある。ソースは思い出せないけれど。
涙の理由は悲しみだけじゃないと思うので、「その人の感情のキャパを超えた出来事に対峙したとき、その感情を他人に表明するために、体の反応として泣くという現象が起こる」と言い換えた方がなんとなくしっくりくる。


涙の理由

たとえば、想像しやすいことから。
卒業式で泣くことは寂しさから来る涙。永遠のお別れに際したときは悲しみに由来する涙。悔し泣きや嬉し泣きなんてのもある。物語に感情移入した場合はそのときどきの対象の感情によるけれども、そのどれもが様々な感情に起因して泣くことという現象が起こる。

でもなぜか、「卒業式で感動した」は素敵エピソードとして語られるのに、「お葬式で感動した」はともすれば不謹慎とも言える、誤解を招きかねない表現に聞こえてしまう。映画を観て泣いたとき、たとえその涙の理由が悲劇からくるものだったとしても、ハッピーエンドじゃなかったとしても、「映画を観て泣いた」というだけで「いい映画だったんだな」とか「意味が感じられる映画なんだ」とか、決してネガティブなだけではない、よい捉えられ方をする気がする。心は暗い気持ちになったとしても、マイナス方向にふれたとしても、それはちゃんと感動だし、でもいまやそういうネガティブめの気持ちに感動という言葉を当てはめることは少ないんじゃないかと思う。だから「感動」という言葉の使い方に違和感が生じるのかもしれない。

もちろん、たとえ悲しかろうと、泣くほど感情を動かされる作品であったという側面をみて、よい作品なんだな、とよい捉えられ方をすることはあるけれど。


泣くということ

涙の理由を知ってるか
俺には解らないが
この心の温かさが
そのまま答えで良さそうだ

ダンデライオン / BUMP OF CHICKEN

やっぱり泣くことの原因は言語化しがたいものなんだと、この詞を読んでまた強く思った。

でもそれはそのままでよくて、言葉に直せなくたっていいと思う。代わりに涙が表現してくれるから。

その感情を言葉にできないから泣くのかもしれない。

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