見出し画像

早歩き書き 2021.05.06 Thu

素材の特性を生かした立体構成を模索し、制作する授業のTA(Teaching Assistant)をやっています。

そのとき限り

今日、ある学生の作品を見ていて、うっかり触ったら崩してしまった。当然めちゃくちゃ謝ったけど(ほんとごめん)、素材が壊れたわけではなく(よかった…)、その子はもう一度組み立て直してた。
組み立て直すのがちょっと難しそうで、見ている僕はどんどん罪悪感でいっぱいになっていくのだけど、同時にこれは微妙なバランスの上に成り立ってたのか、と一度限りの儚さみたいなものも感じた。けど、僕が触っていなくとも次回の講評ではこの形を再現できないだろうな、とも思った。
あ、いや、いずれにせよという話ではなく。反省はしています。ごめんね。

試行錯誤

素材の組み合わせには接着剤を使わないという制約があるからか、バランスをとりながら組み合わせていくと、そのとき限りの構成を作ってしまいがちな気もする。加工の精度が悪いと、組み合わせたときに安定しないから余計にそのとき限りの構成になってしまうのかも。工作機械の使い方を覚える授業でもあるので、加工の良し悪しというところはあまり問題ではない気もするけれど。僕も全然失敗ばかりだし、狙い通りの加工って難しい。

副次的に、施工の悪さ故に偶然いい構成に出会えることもある。でも施工の悪さによる余白は、遊びを意図的に作ることとは異なる。素材どうしがしっくり収まる加工ではないわけで、次に組み立てるときには微妙に再現できないことの方が多い。偶然とてもぴったりいくこともあるけど、狙ってそれを出せたらやっぱり気持ちがいい。そのためには試行錯誤を重ねて、素材の特性を理解して、それに合った加工を施す必要がある。加工の精度よりも、試行錯誤の質が問題なのかな。
と考えていたら、精度は後からついてくるものなんじゃないかという気がしてきた。

構成の解像度

先生が毎回お手本としてご自身の作品を置いておいてくださるのだけど、それはばらばらの素材の状態で箱にしまわれていて、先生はその箱から出して組み立てている。いつも同じ構成がそこにあって、やじろべえのように触れるとゆらゆらとバランスを保っている作品ですら、毎回同じようにそのバランスを再現できる事に感嘆する。考えて作られている事がわかるし、構成の中で素材がその位置に在る必要性がわかるというか、それぞれがあるべくしてぴったり収まっている感じがするから綺麗だと感じるのかな。無駄がないというか。なんとも形容し難い。

例えば学生の構成は「この素材がこう組み合わさっている事」が満たされていればいい、という感じのものが多いように感じるけど、先生の構成は「この素材がここにこの向きと角度で組んであって、それがこの部材にこう効いている事」を満たすように作られているような、構成の解像度が違う感じがする。だからきっと再現可能なんだろう。

再現可能性

再現可能性という観点で見ると、受講生の中には、次回も同じ形を再現できそうにない、不安定な作品が多いなあと思った。微妙なバランスの上に成り立つ構成は、綺麗だし繊細で魅力的ではあるけれど、それは不安定という事と必ずしも同義ではないんじゃないか、と考えていた。
もちろん安定感があればいいというわけでもないところも、難しいところだと思う。でも不安定に見える事と実際に不安定である事は違う。例えば土台のようなものを据えて安定を得る事と、構成の妙で安定を図る事は、その本質が全く異なる。
再現可能であるということは、安定しているということと実は繋がっているんじゃないか、という気づきを得た。

まとまっていないまとめ

二度と再現できないとか、二度と同じものを見ることができない、そのとき限りだからこその美しさというものは、あると思う。たとえば自然現象。空の色とか雲の動き、稲妻の軌跡みたいな。
再現できるという事は、前提として再現しようとする意志のもとに成り立つものであり、それはつまり人の手を介しているという事でもあると言えるのでは。突き詰められた美しさを持っているんじゃないでしょうか。

いや、どうだろう。ここまで述べた事は全然普遍的なものじゃないかもしれないですね。僕の主観に基づいた感想です。


ノートの片隅の走り書きのように、頭の片隅で考えていた事をさくっと言語化してみた。けどまあ、走り書きほどスピード感のある感じでもないので、早歩き書きくらいかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?