最近のネット内議論への考察

ここ最近。SNS(僕が確認しているのはTwitterです。)でいろいろな議論が飛び出していますね。

わかりやすいところで、政治思想について、表現の自由について、パワハラ等のハラスメントをめぐる労働について、フェミニズムを中心にしたジェンダー論について……etc

色々と思うことがあったので僕なりに考察したことを記していきたいと思います。

はじめにですが、特にきっちり記事としてというわけではないため、取り留めない部分がある事、社会学・政治についてはかじった程度であり一部曲解した、間違ったファクトを引用してしまっている可能性もあります。その場合はご教授頂ければ幸いです。まずは、お詫び申し上げておきます。

まず、なんでこれについて触れようと思ったかというと。あまりに目にすることが多いのと、どの議論もまた収束する様子もないところを見て、そもそもどこかで発展した何か形になるものが社会に反映されているのだろうか?と言う事に疑問があったためです。

もちろん今の日本も日進月歩と……はいかないものの、日々変わっていき、よくなったり、あまりいい方向に進まないものがあったりと社会の動きは様々です。
ですが、それがネット内の議論が元に反映されているというようには、なんとも言い難いなという状況かなと感じています。

前置きはさておき、まずはどんな議論、対立があるかなと言う事を。Twitterで見かけるものから話を進めていきます。

まず最初に、というか僕のTLの構成上当然だったのだろうとは思いますが、表現の自由とフェミニズムの対立構造です。

個人的にはこの両面に友人ないし知人のいる僕はいつも胸を締め付けるような気持でした。

ただこの対立構造の中身はどうも文字通りの存在の対立であるとはどうも思えないのは確かかと思います。

言葉を濁さず言うのであれば、「ミソジニー」VS「ミサンドリー」と言うような……そこに上記の要素を純粋に持った表現者、そして女性活動家が入り込んでいるからややこしい。

次によく見るのはいわゆる「ネトウヨ」と称される保守陣営と、野党支持者の対立。……これも文字通りとはいかないのかなという印象が強いです。

というのも、本来的には保守派とリベラル・革新派という形で分けるべきですが、片方が極端に保守的な発言をしていると言う事でも、革新またはリベラルな発言をしているわけでもないからというところです。

ただ今回ネトウヨVS野党支持者としたのはある一定の代替の分け方にあまり適当なものが思いつかず、苦肉の策としてこうしました。

この二つは今後の日本の政治体制に意味のあるものなのかなとも思います。

そして、労働や社会保障をめぐる格差問題も、この部分に内包されていると言えそうですね。

あとはこれは結構もう下火なのかなと思いながらも根強いのは「喫煙者」VS「嫌煙者」という構造。

あたりまえながら、利益を共有できていない部分で対立は起きているようです。さらにそれが、自らを発信者として発言し交流を生み出せるSNSの場で言葉を波及させると言う事が一般化されたことによって、起こった問題なのでしょう。

まさに、昇華される前のモノが民衆に散布されたことで生み出された混沌といったところなのでしょうか……

そもそもなぜこんな対立が起こるのかは先ほども出した通り利益が背反しているという点でしょう。

そして、なぜ終着点が見えず、恒久化してしまっているのかという点については、まず一つとして、対立構造の中で現実的な諸問題に対する構造の最適化のなされた末の世界観をだれ一人持っていないからなのではないかと感じます。

対立が膠着化して達成目的が無制限なものになればなるほどに「講和」という選択がなくなっていくのは世の原理かなとは思います。ですが、ある程度の条件がなければ、「敵の殲滅」が達成されない以上、どこかで講和を考える必要がお互いにあるはずですが、その意識がどの陣営にも見えないのは大きな問題に見えますよね。

二つ目に、イメージと問題の規模が釣り合っていない。という点が挙げられるのではないでしょうか。ここでいうイメージとは、ウォルツの3っつのイメージの事をさします。

特に政治面に反映されやすい事柄なのかなとは思います。それから日本という国の持つ「職人文化」も要因になるかなと……この職人文化は近年否定され始めているものでもありますが……
つまり個人の技術を重視する国民性が、我々日本人には結構強く残っているなという話なのですが、それによって、ウォルツの3っつのイメージの中で言えば、ファーストイメージ(現実に起こる現象を個人の関係などから分析する考え方)が先行している状態でSNSなどの広い範囲を観測することができるようになってしまったために、そこに言いえない誤差が生じているのではないかと言う事です。

残念ながら、国際的な問題を語る面でも、よくてセカンドイメージ(国内での組織間のあり方などから分析を行う考え方)をもって論じていることが多く見受けられるように思います。

つまり、目の前の事象を語るには分析のスケールが見合っていない。その為に相手の分析もうまくできずに泥沼化してしまっている。と言う事です。

つまり、個人やごく狭い範囲で展開する組織の一端でしかないファクトばかりに目がいっているため、語られている主語は大きくなれど取り扱われる事象についてはどんどん視野が狭まっていっているのではないでしょうか。

そしてもう一つは、「話し合い」「議論」というワードも少しづつ変化をしているようにも思います。

どう変化しているのかというと、話し合い、議論を重ねると言う事も、最初は譲歩を引き出す一つの方法でしかなかったのでしょうが、その色合いが昨今では「相手にわからせる」とか「相手を論理でつぶす。」と言った方向に変化してしまっているように感じます。

まさに「絶対戦争」ならぬ「絶対論争」とでも言うところでしょうか。

その状況になれば、議論の目的は、お互いの落としどころを探すところから、相手を殲滅する。相手を完全に言い負かして考えを変えさせる。というフェイズに移行してしまいます。

正直そこまでいけばもう解決はしないのでは?

と、個人的には思います。

と言うのも、思想の問題に関しては、完全に論破することが難しいので、相手を完全に屈服させ意見を変えさせる、ということ自体まず不可能であろうという事が言えるからです。

さらには、どの陣営に属する思想を持っている人間であっても必ずパブリックな場面に出てこない方もいるでしょう。そういう観点からみても全面降伏、殲滅と言う事は考えられない。それこそ言論統制に近い協力な措置を取らなければ不可能でしょう。

まとめてみると

1.思想という物自体を完全に変えさせることは難しい。
2.どの意見を持つ人間もπが多く、暗数が多いため、すべての人の意見を変えさせることはできない。

以上の点から、僕が定義するところの「絶対論争」では、現実的な状況変化にはつながらず、もし意味があるとするならば、不満のある人々のガス抜きくらいにしかならない。と言う事が考えられますね。

ただ、現実にはガス抜きの効果もさほど効果を示していないように思います。少なからず、一つのエンターテイメントの側面はあったり、ビジネス的な面が見えてきているものもあれど、本質的な社会改革には至ることはなさそうなものが増えているという印象があります。

色々と書いては来ましたが、意見をぶつけるだけの論争にはあまり意味がなく、広い視点を持って落としどころを探る、ある意味での懐の深さみたいなものが現在では必要となってきているのではないでしょうか。

今、話題になっているものだけではなく、日常様々な事が議論され、多様な問題を抱えている文化が混ざり合う現代であるからこそ、自らが属する国の共有可能な「未来像」を浮き彫りにさせるような議論ができるように、日々勉強していく事が、より良い社会を作ることにつながると思います。
僕も日々の読書などで意識して考えていきたいなと考えさせられています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?