僕的演劇論 その1
僕なりにここ最近の備忘録も含めて現在の考えを記していこうかなと。
お芝居について、とりわけ演技についての考察を書いていきたいと思います。
今回は「基礎」とは何だろう?と言う事を書いていきます。
そもそもお芝居、演劇って何でしょう?
例えばそれは【総合表現】なんて言葉で語られたりしますが、何が【総合】なのでしょうか?
昨今の、いわゆる小劇場演劇も含めた現代日本演劇を見ていると、その色合いはかなり偏った形で表れているようにも感じます。
例えばエンターテイメントを軸とする演劇(特に商業演劇で多い印象に思いますが)では、とりわけわかりやすさ、所謂【記号的表現】に焦点を当てているように見えますし、舞踏などを取り入れているようなコンテンポラリーなタイプの演劇では【身体的表現】が主に取り入れられていることが多い傾向にあると感じます。
文学的な要素を多く持つお芝居ではよりエモーショナルな【感情的表現】を大切にするでしょう。
さらには声の要素として【音階としての表現】【言葉を使う表現】なども含まれます。
一つの公演全体で言えば美術的効果なども含まれそれらが全て合わさって一つの演劇として成立していくわけです。
ここでは役者一人の行う「芝居」に焦点を当てて話をしたいと思いますので、演劇と言うよりは、あくまで「演技」についてに絞って話を進めます。
役者と言う存在が演技のみで表現し得る部分として、【身体】【感情】【記号的表現】【声】と言う四要素を大きなくくりとして考えるとき、総合表現足り得る演技とは、つまり自らの肉体【広義としての身体】【精神】【脳】【声】と言うおおよその体一つで行うことができる事を総動員して行う事を総合表現足り得るのではないでしょうか。
ただ、現実はそうはいきませんね。
例えば、それは戯曲の要求するものであったり、演出が要求するものであったり、はたまた、その時代が要求するものであったりと、上記で触れた要素の全てに同じ熱量を持って臨むことが難しい場合が多くり、そもそも、その内のいくつかの要素は使われなかったりとすることも多いでしょう。
では、現代の演劇では総合表現足り得る演技は生まれることはないのでしょうか。答えは否であると言いたい。
ただし、多くの形があってよい。というのであれば、明確で普遍的な基礎と言ううものは存在しえないようにも感じます。
どうでしょうか?
基礎を語るうえで例えばスタニフラフスキーシステムなどが思いつきますが、今日では優れた思想もメソッド化されてしまい、体系的な要素が多くなっています。上記までの考察を考えるのであれば、それを基礎としてしまうのは、少し乱暴なようにも思います。
長々と書き連ねてきましたが、僕の思う基礎とは、つまり「メソッド」ではなく「マインド」にこそあるのではないかと言うところです。
マインドと言っても、所謂「意識の問題だ」とか「情熱」だとかの予測の建てずらい部分ではなく、もっと根本的で影響度の高いもの【基礎】と捉えるのがよいのではないでしょうか。
つまりメソッドとは家を建てる場合で言えば壁を構成するブロックであったり、屋根を支える柱になったりはするが、マインドとは家を建てる土地そのものに打ち込む基礎工事のようなものである。と考えたわけです。
僕はそのアイディアを、戦略学の知識から次のように考えました。
1.お芝居というものの構造は、体系的に有形なものと無形なものがある。
2.有形な要素は技術的であり、それらは家に例えれば資材にあたる。
3.無形な要素とは世界観に通じる、家に例えれば基礎工事にあたる。
メソッド=有形要素
マインド=無形要素
と言うように分けて考えてみたわけです。
これは、奥山真司氏の著書 「世界を変えたいなら一度"武器"を捨ててしまおう」で紹介されている【戦略の七階層】を元に考えたわけなのですが、それについての詳しい解説は省き、ざっくりでお伝えすると
7つの階層を二分した時の【戦略階層】と【戦術階層】を元に
有形要素=戦術的
無形要素=戦略的
と置き換えたわけです。
では、そもそも【有形要素】とは、【無形要素】とはなに?という話になりますが、【有形要素】とは技術的、物理的な板に立っている際においてのスキル。(発生や筋トレ等もここに含まれます。)
【無形要素】とはそれを際立たせる為の下準備や運用を考える為の考え方、そして何よりも自己を立たせるための重要なセオリーの事である。ということです。
結論が出ていないようにも感じられる散文になりましたが、僕はここでいう【無形要素】こそが、演劇、とりわけ演技における重要な【基礎】である。と考えています。
では、【無形要素】とは具体的にどんなものなのか。僕は次のような要素に分けております。
1.戦略的な事項で言う「世界観」自己アイデンティティの表層化
2.舞台上を含めた人間同士の間の力学の予測
3.自己バイアスの整理、理解、できる範囲でのコントロール
大きく分けて以上のようなものとしてとらえております。
それぞれはわかりやすく、当たり前ともとられやすいものではありますが、わかりやすく習得のできるメソッドと比べて「教えられる」または「教える」機会も少ないのではないでしょうか。
一観客としても今こそ武器を捨て、戦略的世界観を開くことができる役者を見てみたい。と感じながらここまでを書かせていただきました。中途半端に終わってしまいましたが、各部分の詳しい解説においては、またの機会に、
以上。最後まで読んでいただけた方には感謝いたします。
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