ここ1年くらいのアウトプット
これが自分自身だ。と信じて疑わなかった僕の外郭と言うものが……いや、それはただの枠に過ぎなかったのかもしれない。それでもこれが僕だと思っていた、僕自身を形作るために必要であった型が粉々になって、そこからあふれ出したドロドロの液体みたいな僕自身の目の前に見えたのは、大量の本と、まるでアメリカのアニメーションのチーズの様に穴だらけの「今までの僕」の古ぼけた肖像だけだった。
まず最初に、とりあえず僕自身の事を話しておいた。これと言ってドラマティックなことがあったわけでもないけれど、それが必要だと思ったからだ。
誰にだって挫折の一つや二つはある。なんて、ありきたりな言葉を使うことに少々の違和感はあるものの。今の僕の現状を話すなら。それ以上の言葉はないように思える。
さて、穴だらけになった過去の自分を目の前にして、まるで形も力もなくしてしまった僕に何ができるだろうか。その時の僕はそれを必死で考えていた。
自分が信じ込んでいた世界観は実は嘘っぱちで何の価値もないという事を突き付けられたわけだ。
ただ一つの救いとしては。僕には「本」が残されていた。
最初に僕は「大量の」と言ったけど、本当はそんなに沢山あるわけじゃなかった。僕は多読派ではないし、自分自身は幼稚園で配られる絵本よりも薄っぺらなんだから……少なくとも僕の人生を表すためにはA4のコピー紙が一枚あれば足りるだろう。最後に〆の言葉を書いたら余った空白と裏面に、なにか象徴的で意味ありげなイラストを描くのもいいかもしれない。
いや、それはやめておこうと思う。僕には絵の才能が毛ほどもないのだから。
僕はこれまで、表現活動の一環として「演劇」に携わってきた。それが正しかったのか無駄な時間だったのかはさておき、僕は悪くない時間だと思っている。それと同時にとてつもない囲いの中にいたようにも感じている。
そうだ!世界は広い!
と、思ったのは随分と前の話で、実際の僕の世界は随分と小さく、まるでくすんだビー玉みたいなものでしかなかった。
別に今をときめく彼や彼女らに何かを言おうとも思わないのだが、少なくとも僕らの世界は急激に収縮しているのだという考えに大きな間違いはないだろう。
世の中にはまるで世界を切り刻むような「言葉」が大量にあふれて、それを鼓舞するように極端に閉じこもった自閉症の子供の様な「芸術」があれやそれやに絶え間無くひっかけられていた。
皆が普遍性なんて言葉を忘れて、思い思いの柄杓とペンキをバケツ一杯に持ってきて、相手に引っ掛けてはその色を塗りたくろうとする。
素晴らしい!世界はなんて自由なんだ!
本当にそう思う。でも、それで本当にいいのだろうか?
世の中には「あの人たち」と「この人たち」で満たされて。それを見つめる「わたしたち」がいるわけだ。
いつの間にか分断が優とされ、誰もが普遍を否定した。
永遠なんてない。すてきな響きだと思う。常識なんてない。そうだ!人を縛り付ける権威をこわせ!自分の考えに素敵なものをトッピングしてそれを哲学と呼ぼう!古臭い古典的な考えなんて燃やしてしまえ!!
それで?
僕のビー玉の外側には、いくつもの普通があって、いくつもの平穏があって、そのはしっこの窪みに溜まった汚泥とそれと同じくらいの宝石がある。
それらは別に幻なんかじゃないわけだけど……誰もがそれを幻覚だと言っていた。
だからって言うのは言い訳になるけれど、僕は次第に声を発することを止めた。
嗚咽をもらしながらこの1年間……いや、正確に言えば半年とちょっとの時間を過ごしてきた。何度も吐き出しそうになった嘔吐物を飲み込むことができたのは、たぶん意志の力とか、無気力なんかじゃなくて……それが結局みんなの持っている「バケツの中身」なんだと気づいてしまったからだったのだと思う。
僕は定期的に押し寄せるその嘔吐物をなんとか抑えようと「本」を読みふけった。なんでもよかった。不思議と活字を見ている間は落ち着いていられた。
時にはどうしても口内からあふれ出したそれを、友人にふき取ってもらったりもしたのだけど。様々な要因があって、僕はそれを世にまき散らさずにいられた。
いや、今こうして文字を連ねている事も本当はそれをただ悪戯にまき散らす行為に他ならないのかもしれない。
なんにだって疑う事と検証することは必要だ。だから、今ここで僕がこうしていることは、疑いながらも検証のために続けよう。それが僕のこれからの生き方なのだから。
話はそれたけれど未だ形を取り戻せない僕から見た世界はちっぽけな銀河に過ぎない。
メン・イン・ブラックのオリオンの首輪を粉々に砕いた後の一粒のガラスの粉でしかない。
それは言いすぎだと思われるかもしれないけれど、それが現実に僕の目の前に起きているすべてなのだ。
ネットは普及して、僕らは外を見なくてもその日の天気を知れる。遠く離れた友人の家の周りに降った雨の量だって簡単にわかってしまう。
でもそれが本当に「知った」と言えるのだろうか?
僕は確かに大切な人がここ数年で体験した猛暑の温度を調べることもできるし、その周囲で起きた記録的な事件の詳細も難なく理解することもできるだろう。
それでも、僕はその人が刻んだ鼓動の熱さも、その人に起きた悲しい出来事も、その人が流した涙がいったい何㏄に上るのかも、何一つ知る事が出来ない。
そうだ、僕らの世界は収縮している。世界はインターネットの普及で便利に快適に、距離さえも超越した。けれど、その削り取られた距離と同じだけの広さの、僕らの感じている。僕らの心の中の世界観はいつしか肉眼で見ることも難しいほどに収縮してしまったのではないだろうか?
それが、つい最近の僕の気づきだった。その気づきが正しいかどうかなんてことはこの際どうだっていい。そう思ったときに、僕はなんとなく僕の本来の形があるのではないかと思えるようになった。その断片をその目に映したような気もしたくらいだった。
そうやっているうちに、僕はまた言葉を放つことができるようになった。
それもまだ正確ではない。言葉を放てるようになろうと思えるようになった。というのが本当のところだと思う。
ああ、久しぶりに口を開けばこれだ。ずいぶんとダラダラと溢れてくる。取り留めなく流れ出て、サラサラのグランドの上に放った小便みたいに無軌道に広がっていきやがる!!
そう!ダラダラと語ってきたはいいが結論がない。いや、つまり今までを要約してしまえば、僕は随分と長い間、言葉と音と光の中で溺れていた。いつの間にか「本」は「章」に区分けされそれがさらに「文」に引き裂かれ、「語」に分解されて、「字」へと砕かれて、更にそれらは一つ一つの線へと解体された。それが大きな海になって、波を作って、渦を起こして僕を巻き込んでしまった。
なんてことだ!たったひとつの線だけをみてそれがどの本のどんな一説なのか判別できるわけがない!これは悲しい事実だ……
いや、また長くなってしまう。だけど、つまりそういう事なのだ。
僕は息継ぎもできない言葉の海の中で大量の水を飲み込んで、もう見るに堪えないくらいの水膨れになって、それでいつの間にかどことも知れない場所に打ち上げられた。
そこはガリヴァーの訪れたリリパット国ほどメルヘンチックでも残酷でもなくて、何の変哲もない説明するのも億劫なほどの場所だった。今ならば理解はできるが、それこそが世界だった。
さあ!これから大冒険だ!とはとてもじゃないが思えなかった。それでも、そこでは確かな息遣いを感じることはできた。なんの?と言うところは今のところは気づかなかったことにしておく。いや、実際にわかったわけじゃないのだから。それでいいのだと思う。
こうして、何もかも引っぺがされ、何もかもを洗い流され、やっとたどり着いた、なんの変哲もない島こそが、僕の新たな出発点となった。
そこではあらゆることが当たり前にしか起きなかった。当たり前に日が昇れば沈むし、沈んだらまた昇った。そしてあらゆるものは、あらゆる力学の中で動き続ける。それはドラスティックでもなければドラマもロマンも関係なく絶えずゆっくりと移動する。
そして僕もその中で、ゆっくりと、その力学の中で、時に作用され、時に反発し、時に引き付けられてゆっくりと形を変えて、ゆっくりと動かされていく。ただ、そこには確かに僕の意志の中の力学も存在していた。
あらゆるものに作用して、時に反発し、引き寄せられ、弾かれ、弾き、ゆっくりと世界の方も動いていく。
世界は確かにあらゆる初動とあらゆる反応によって理路整然と統制されていた。
僕は何が言いたかったのか。つまりは僕は吐き出してしまいたかっただけかもしれない。それでもいい。それでいい。それがいい。
僕はまだ話したい事もたくさんあるし、たくさんの伝えたいこともある。それはまだ僕のどこにも記されてはいないけれど、確かに生まれた僕の形だった。ダラダラと言葉を連ねるのは楽しいが、同じくらい疲れてしまう。それならこれから語ることを一字一字しっかりと記していこうと思う。
そうすれば、薄っぺらで価値のない僕自身の人生も、幼稚園で配られる絵本くらいには厚みを持つかもしれない。分厚くかしこまって提言があるってわけじゃないけれど、子供の笑顔を見ながら一生を終えるのも悪くないかもしれない。
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