12.『同日 谷田遥香』



 同日 谷田遥香


「ごめんね」
「なんで? なんで謝る?」
「巻き込んだ」
「仰向けの蝉は、蝉はね、お寿司っぽいけえのお。ぽいから摘んで大将おあいそ!」
 なにを言ってるのだろう。彼女はずっと、なにをそんなに頑張ってずっと意味不明なことを言い続けているのだろう。
 佐伯は毎日、毎日毎日こんな、意味不明なことを考えているのだろうか。誰かが目の前にいる限り、できる限り以上の力を尽くして、その誰かが誰だろうとその人がたとえ微量でも笑うまで、言い続けているのだろうか。
 変な言葉。変な動き。行為は時に間違っているしやり過ぎで場違いな時もある。でも非難されようが関係ない。その行為は誰かを救う。その行為は気持ちが良い。彼女は彼女なりにそう強く、強く強く信じている。溢れる自信。その自信からくる温もりや心強さ。保健室で最初に出会った時から既に感じていた。
「大将当然困るけえのお。注文してないウニイクラねぎトロ出してくんろ」
「軍艦限定?」
 佐伯は微笑む。
「軍艦嫌い?」
 私も微笑む。
「好きだよ」
「やったらウチが奢っちゃる」
 佐伯を見る。わたしは気づく。わたしは、笑いながら泣いていた。
「あ、北沢だよ」
 佐伯は意味も的もなくショットガンを構えていた。銃口の先には駐輪場があって、その駐輪場裏の屋根を見上げる小さな子供がいた。
「え? いやぁ、え? 子供じゃ、え?」
「違う上上、上」
 慧くんだ。慧くんは屋根の傾斜にしがみつき、溝あたりでなにかしてる。もう少し近づいてくと慧くんは屋根から子供に向かって野球ボールを落とした。
「おーい北沢ー!」
 慧くんはこちらに向かって手を振ってる。ポケットからガーゼを出す。間に合うか。
「どうしたのその傷」
 間に合わなかった。
「オズワルドに襲撃されたんだ!」
「オズワルド? いつから谷田は大統領になったの?」
「ウチな! ハルちゃんのボデーをガードしてたんやけど弾が体をすり抜けて大統領に当たってしまった」
「じゃあ佐伯はクビだね」
「クビクビ! クビやからウチ帰る!」
 佐伯は来た方の道にダッシュして、途中なにもないところで躓きそうになっていたが変なステップでカーブを曲がりきった。佐伯が見えなくなったあとに感謝したがやっぱりいてほしかった。「パスパス!」という子供の声が少し遠くで聞こえる。
「このあとなんだけど、なにかあるの?」
「いや、ないけど」
「そっか。あ、ちょっと」
 慧くんは駐輪場に行って自転車をとってきたが、すぐそこに留めなおし、二三歩いたがすぐに止まり、難しく両腕を組んだ。わたしも慧くんの動きに合わせ動いたがぶつかりそうになってやめた。
「なあ谷田、あ、谷田って呼んでいい?」
「いいよ」
「なあ谷田。カトエマ達になんかあった?」
 さっきのことが浮かんだ。どこから話していいものか。
「みんな家いなくてさ、もしかして今、大変?」
 焦燥が夕闇に絡まる。慧くんからすずしい匂いが焦げた匂いと石鹸の匂いは仄か、わたしの鼻頭は火傷せざるをえない。



「結局。そいつは何者だったんだろうね」
「わからない」
「やっぱさぁ、オカルト?」
「そうかもね」
「マジでマジで!? あ、ごめん。俺そういうの昔っから好きで」
 なにから話せばいいのかわからなかったから全部話した。今までのことをばらばらに。電話でカトエマに話した時もたいがい酷くしどろもどろになったけど歩きながら、しかも慧くんの隣だとさらにあやふやになってしまった。
 蝉らの声がこの町のBGMみたいでわたし達はまるでこの町にはじめて訪れた勇者達の様相で、風は涼しいを更新していって、慧くんの後ろ髪がガソリンスタンドの方向へ靡いてった。
「あのね、あの日」
「あの日? どの日?」
「カラオケの日」
「ああ、あの日。どうかした?」
「あの日、その、なんて言えばいいのか」
「マイク?」
 ハンドルを傾かせて慧くんは少しだけ笑った。
「ごめんなさい急にあんなこと」
「アラケンも悠馬も言ってただろ? 面白かったって。それでいいじゃん」
 夜になりかけの空を見て慧くんは「なんて言ってたのか気になるけど」と呟いた。言葉が出ないままコンビニの光を見ると眩しかった。
「教えてくれないの?」
 道の真ん中で急に止まるから慌てて慧くんの隣に自分の位置をもってって、距離の目測を誤ったのかさっきよりも近い距離の隣になってしまった。この道が明るくなくて本当によかった。
「教えてよ、谷田の夢」
 わたしの顔の前に慧くんの顔がある。心臓の動きはこんなにも激しく大きく体内で暴れている感覚はプールで溺れたとき以来だ。でも溺れてるときは加速気味だった。今の心臓の動きは遅すぎてその一発一発がでっかい。
「わたしの夢は」
「うん」
「わたしの、夢は、ね、えっと、ね、タ、タレント?」
「タレント? ほんじゃあ大原のライバルじゃん」
 慧くんは笑いながら歩みはじめた。心臓の動きはいつもみたいになってくれず暴れ続け、視界の周りに白っぽいがかかってでもそれ以外は色濃く車のライトや建物の輪郭はくっきりと見えすぎているが慧くんの後ろ姿はどれでもなく、霞んでもなく、存在がはっきりするわけでもなく、慧くんの背中は慧くんの背中でわたしの方が速く歩いているはずなのに慧くんに追いつけないという感覚だけが両脚を重くそして鈍く酷くまとわりつき、さっき出した一歩目も次に出した二歩目も次々におかしくなって走ってしまった。慧くんはそんなおかしなスピードに自転車には乗らずに並走してくれた。
「変わったな」
「え?」
「いやそんなに谷田のこと知らんけど、でもやっぱり変わったと思うな」
「そう?」
「学校だとすげえ静かだから毎日楽しくないのかなとか思ってたんだけど」
 静かな自分が急に明るく振る舞うのを想像すると、高校デビューのヤンキー野郎と同じようでなんだか恥ずかしくなった。
「なんかそういうのって良いよな。谷田のこと昔っから知っててそういうのやられたらびっくりするけどさ、俺からしたらまだセーフというかさ。前の谷田もクールでよかったけど今の谷田もなんか良いな」
「北沢くんはどうなの最近」
「北沢でいいよ。えぇ~最近、かぁ~、なんだろうね、あ、でも今の話で言うと俺は谷田とは逆かもな」
「静かになった?」
「前よりかはね、小学生のときはもうちょい可愛げあったかも。サッカー以外のこと知ってからだな変わったのは」
「どう変わったの?」
「そう言われると困るね」
「ごめん」
「ん~そうだなぁ、重さ。」
「重さ?」
「重さ。体重とかじゃなくて人の重さって増してってると思わん? なんていうのかな、心の体重ってのかな、あれ、これ意味不明だな」
「覚えたことがたくさん増えて、でも言えないこともあって、知りたいことも覚えたことと同じくらい増えて、でも話しても話しても体の中の言葉や情報はちょっとずつしか消えてくれないから、だけど体の大きさは少ししか変わっていかないから内側が重くなっていく、ってことかな」
「やっぱ変わってんな谷田は。なんか、もうちょい話さない?」
「いいよ」
「ごめんな付き合わせて」
 慧くんはバスの停留所の側にある自転車が連なる場所に自分のを留めた。
 わたしは自分がさっき言ったことと慧くんに言われたことを頭の中で反芻させていた。
「北沢でいいから」
 慧くんは少しの不安とそれより多くの幸福を含んだ笑顔でそう言った。



 耳元に慧くんの声があるかのよう。バスはのろのろ進む。
 一番後ろの広い席が良いと慧くんは言った。なんかわかる気がした。窓側を譲ってくれたが本当はわたし側に座りたかったんだと声で気づいたがこの温もりを、優しさを、無理に押し返すなんてもったいないと黙った。
 窓側にある方と逆側の手のひらが慧くんの指を探ろうとしてる。気持ち悪いなあ、わたし。
「今日はよく救急車が通るね」
 停まっては進み、停まっては進み、人が降りて乗ってまた降りて、この箱は空腹を満たしたりして満腹になるとわたし達にアナウンスをする。信号。配達員のヘルメット。白線。看板の輝き。空と同化しはじめる電線の色。歩きの学生と自転車の主婦。マンションの明かりとマッサージ店の明かり。車内の冷気が夏の夕をぐらつかせてる。さっき買ったばかりのサイダーはもうぬるい。
「兄貴と話した?」
 慧くんは多分、料金表を見てるかも。見てる顔は別に笑ってもない。
「お兄さんいるの?」
「いるよ。そっか」
 笑顔が良い。でも笑ってない慧くんも良い。どちらか選べと言われたらどっちも選ばない。
「兄貴が母さんと話してたんだよ。面白い女学生を二人見たらしくってさ。話最後まで聞いてたけどなにが面白いのかわからなかった」
「仲悪いの?」
「悪い、とかじゃない。そういう問題じゃなくてさ、それ以前の問題。あいつ人として終わってるから」
「終わってる?」
「みすずの寺塔で高校生が飛び降りた事件あったろ?」
 いつかクラスの誰かが誰かと話していたのを聞いたことがある。その高校生が慧くんのお兄さんだったことは知らなかった。
「情けないよな、ダサいよ。飛び降りなんて」
「でもあれって確か」
「そうだよ。だからダサいんだよ。好きな人にフラれたんだってさ。落書きとか張り紙とか変な留守電とか色々やられたよ。でもそんなのどうでもよかった」
 バスが停まる。ドアが開く。慧くんは景色を見て息を吸うように「いやどうでもよくないか」と見なおった。
「許せないんだよ。母さんも父さんも兄貴にどう接していいかわからなくなって、それで周りがどんどん壊れていって。終わってるのにあいつさ、人として終わってるのにヘラヘラ生きてんの。ヘラヘラ生きながら夢追いかけてんの。ありえねえだろ? 馬鹿みてえ。東京行って夢叶える? 元自殺志願者がか? ふざけんな!」
 乗客がこっちを見てる。色んな顔の形の色んな表情がある。ミラーに映る鋭い両目がわたし達を睨んだ。前席にいるおばあちゃんが「大丈夫?」と車内の静寂に一言添えてくれたが慧くんはさっきよりいくらかましになった、が、まだまだ興奮気味のようだった。慧くんは「すいません」と謝り空気を吸ってそして吐いて深く座りなおした。
「迷惑かけたって意識が無いんだよ。だから終わってるんだよ。なれるわけないよ。散歩して夜勤行って飯食って風呂入って糞して寝て起きてまた散歩行って。なんの意味があるんだよ。なにが楽しんだよ。あのとき」
 言葉の先がわかったから口を塞いであげたい。わたしはわたしの耳を塞いであげたい。そうしないと慧くんがそういう人になってしまうから。わたしの中の慧くんが変態していく。
「死んでくれたらよかったのにな」
 慧くんのザラつく乾いた声はあまりにも冷たくて、わたしの内側が震える感覚があった。冷房のせいなんかじゃない。慧くんの体が発した殺意の冷たさ。
「ごめんな、こんな話して」
 慧くんがあったまりますように。でも溶けないように、壊れてしまわないように、わたしのじゃない人さし指をわたしの5本の指で包んだ。鳥肌がとまらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?