11.『同日 加藤瑛眞』

 同日 加藤瑛眞



 
歩道橋に全身黒い服の男がいた。
 男の両目は前髪で隠れているが歯をむき出しにして笑っているのが厭になるほど十分に見え、男は、私を見上げるように体をこちらに向けていた。
 前髪のせいで見えるはずないのに、あそこから私が見えるはずないのに、なぜか私だけを見ているように思えた。
 彩花は隣で上手に寝ている。それはいつものことだから講師はあえて注意せず、昔に誰かが残した格言を授業に絡ませながら進めている。
 私だけ、あの男に気づいている。
 どうすればいいのかわからず、わからないまま考え続け、もう一度歩道橋を見ると男はもういない。
 いや、いる? いやもういない。いやでもまだいる? 違うあれは別の人だ。あの人じゃない。
 じゃああの男はどこへ? もしかしてもうこのビルに? 大丈夫警備員がいるからここは大丈夫。でももし警備員を抜けまさに今この教室に侵入してきたら? 逃げる? 逃げれる? 逃げ切れる? 私は私を助けることができるだろうか? 私は私の隣にいる彩花を助けることができるだろうか? 講師は私達を守ってくれるだろうか? 何か持っている? 凶器を? 刃物? 銃? まず筆箱を放り相手の視界を錯乱させそっから男に飛び込んでシャーペンの先を男の顔におみまいする。いや、違う? 先に脚をかける? どうする? どうすれば? どうすればいいの? そもそも相手は男でおそらく大人。勝ち目なんてあるのだろうか? ピアノと一緒に空手もやってればよかった。
「カトエマ? ねえ。ねえってば」
「え?」
「聞いてる?」
「う、うん」
 いつものこの時間は塾帰りの学生と会社帰りの大人でいっぱいになる。この疎らな乗客と誰も座っていない空席は不気味だ。
「まだ気になってんの?」
「うん。ちょっとだけ」
「さっきも確認したやん。そんな男いなかったって」
「そう、なのかな」
「つーかさあ。そんなことよりさあ。退屈よねここの講師の授業。駄弁ったらすーぐお金の話するやろあいつ! こっちだって好きで通っとるわけじゃないっつーの!」
「私は好きだけどなあ勉強」
「マジで言ってる? あとウチの親さ、本当ミーハーやから周りが通いだしたら血相変えて申し込んで、勝手によ? 信じられる!?」
「彩花の親っぽいね」
「でさ、当然ダダこねるやん? したら好きなもん買ってやるって物で釣り始めてさ、やったらニューヨーク買ってっつったらもうブチギレ! まあゲームとおニューの靴でなんとか手は打ったけどさ」
「地球って言ってやればよかったんじゃない?」
「意外とアナーキーやね、でもさすがに地球はいらんやろ」
「いるよ」
 痛っ。
 細い針が刺さったような痛みで振り向いたが誰もいなかった、が、彩花のちょうど隣を下車しようとしている人がいた。
 あの、男。歩道橋にいた男だ。
 体が動かない。動いてくれない。視界が揺れる。呼吸がなんか変だ。音が奥まって水中みたいだ。
 ダメだ早くしないと。早く誰かに伝えないと。指が、動く。そうだ鞄にブザーが入ってる。一度も鳴らしたことないけどこのブザーならみんなに伝わる。男が笑ってる。私や彩花を見ず笑ってる。前髪で両目が隠れ、口だけ歪ませ歯をむき出しにしてヒクヒク笑っている。男の歯と歯の隙間からなにか生えている。なんだあれ? 細くて、長い、茶っぽい。あれは、あれは私の、私の髪の毛だ。


 あの日鳴らせなかった防犯ブザーを握りしめてる。恐ろしい出来事がこの町でまた繰り返されないために。
「ドッペルゲンガーだったら加藤は死ぬね」
「縁起でもねえこと言うな佐伯」
「それどこで買ったの?」
「エアガンショップ」
「あ、ラーメン屋近くの?」
 佐伯はケースからショットガンを取り出し私にも銃口を向けた。
「かっちょいいやろ? ロメロよロメロ! ジョージ・A・ロメロ!」
「まだそんなのやっとんか佐伯」
「ウチとてサバゲーくらいするわい!」
「ほんとガキだよなあ」
「サバゲーがどれだけ楽しくてどれだけ危険か知らんからそんなこと言えるんだ! 適当こくな!」
「やめろって! お前らどんだけ相性悪いんだよ」
 朝とお昼で雨が2回この町を通ってった。空気が異常に湿気ていてその空気でうがいをするように乾いた声でカラスが鳴いている。
 佐伯ちゃんが何回か谷田ちゃんに電話しても出なかったらしい。彩花は悠馬の誘いを断った。悠馬からの誘いなら必ず乗るのに。
「カトエマ」
「なに?」
「親以外の物で武器になりそうなのこれしかなかった。ごめんな」
「それ本当にいいの?」
「いいよ。壊れるとしたら誰かの為になったときだ。それに、このラケットは小5のときから壊れてない丈夫なやつだから」
「心配すんな荒垣! そんなの使わんでもウチのでヘッドショット食らわせて終わりにするんじゃ!」
 下で犬が吠えてる。夕方のチャイムが鳴っている。道のまんなかに、誰かいる。
「谷田ちゃん?」
「ホントだ! おーいハルちゃーん!」
 その人は佐伯ちゃんの声にはすぐ反応せず、少ししてからこっちを向いた。確かに、谷田ちゃんだ。でも、本当に谷田ちゃん?
「ええええぇ!? どしたのその顔!」
「喧嘩して、昨日」
「勝った!?」
「わからない」
 谷田ちゃんはガーゼをとってみせた。まるで私達に笑われたいかのように。
 私はその腫れた瘤の色に疎ましさを感じる。
「谷田ちゃんも来てたんか。助かるぜ」
「ハルちゃん見てほらぁ! これであいつを懲らしめちゃろ!」
「あのね。ちょっと聞いてほしいことがある」
「え、なに?」
 続く言葉がわかったからか言い方がキツくなってしまう。
「みんなには悪いけど、頂上へは行かせない。あそこは危険だから。あいつはこの町で最も悍しいものかもしれないから。わたし達なんかが触れていいようなものじゃないかもしれないから。あいつがカトエマじゃないってもうみんなわかってるから、だからお願い、これ以上は行かないで」
「最も悍しいものかもしれないから確かめて通報する」
 自分の脚がしゃしゃり出ていた。私は一体なにを言っているのだろう? 谷田ちゃんの言葉がすべてなのではないか?
「だったら今しよ。知り合いに警官がいる」
「その人が今日勤務していなかったら?」
 私は何を馬鹿なことを言っているのだろう?
「してる。してるからお願い。わかってほしい」
 もう、これで終わりでいいのではないか? それなのに、どうして、どうして私の脚はこんなにもしゃしゃり出ているの?
「わかんない。大体なんで警官と知り合いなん? そんなのおかしいよ」
「両野と喧嘩して、それで警官に止められて、傷の手当てしてもらって、それで、だから、だから、やから、行けな、かった。カトエマの家に。行けなかった。行ってあげたかった。もし行ってたら、わたしがみんなのこと説得できた。ごめんね」
 谷田ちゃんは言いながら膝をついて泣いた。人前では泣かないような人だと思っていた。私は脚を少し引っ込めてしまっていた。
「今なんてった? 両野って、言ったか?」
「ごめん。向こうはその、興奮してて、抑えるすべ知らなくて」
「彩に怪我は?」
 私の後ろから悠馬の脚が出てきた。
「脚にちょっとだけど、怪我してる」
「そうか。なあ"谷田"。そこ、どいてくれ」
「悠馬?」
「どいて、くれるよな?」
 悠馬のこんな顔、出会ってからはじめて見た気がする。
「彩が谷田を怪我させたのは想像つく。それはもうしわけない。ほんで谷田がやり返すのもわかる。それはいい。でも、彩が怪我すんのは、わからねんだわ」
「ちゃんと謝る。悠馬君の前で、ちゃんと謝るから!」
「これは、これは言いがかりかもしれないけどさ。なんかさ、なんか、谷田が俺らのグループ来てからおかしんだわ。なんとなく面白いやつだって思えたけどやっぱり。よくよく考えてみりゃあの日から彩がおかしくなった。だから今日。できれば今日。すぐにでも今日、今日が良い。今日ですべて終わりにしたい。どいてくれ」
「どかない」
 谷田ちゃんは膝をついたまま座りなおした。
「大丈夫だから、あとは俺たちに任せてくれんか?」
「いやだ」
「ハルちゃん一緒に行こうよ! ウチらの問題終わらせよ?」
「行かない」
 なんだろうこの気持ち。体の中がグチャグチャ言ってる。
「谷田、どけよ」
 座ったまま谷田ちゃんは額を地面に打ちつけた。体を支えている手が震えている。
 なんだこの気持ち。
「谷田ちゃんお願い。どいて」どうして、
「やだ!」
「お願いどいて!」どうしてこんなに、
「やだ!!」
「お願い!!」
「佐伯貸せ」
「ちょっと!!」
「どかないなら撃つ」
「やめろ悠馬!」
「お前がどかないなら撃つ、何発も撃つ。どくまで撃つ」
「やめろって!」
「撃っても良いよ、でも、ここは、どかない!!!」
 カシャンという物騒な音が鳴る。
「ウチのやろが!」
「本当に撃つぞ」
 谷田ちゃんはまっすぐを睨み、口もとだけで笑った。
 すばやい弾のゆくえの最後が谷田ちゃんの額に当たる。谷田ちゃんは声も出さずに額を地面に打ちつけた。
「どけ」
「いやだ」
 今度はつむじ。谷田ちゃんは地面に額を打ちつけた。
「頼むどけ」
「い、やだ」
 首もと。谷田ちゃんは地面に額を打ちつける。
「どいてくれ」
「い、や」
 腕。谷田ちゃんは地面に額を打ちつけ唸る。
「どけってば!」
「い! や! だ!!」
 佐伯ちゃんが真ん中に入り悠馬は打つのをやめた。佐伯ちゃんはショットガンを地面に叩きつけ悠馬を睨んだが「ウチのだった!」と叫びそのまま銃のボディを愛でた。
 アラケンがなにか呟いて前に進むが谷田ちゃんはアラケンの脚を両腕で掴んだ。アラケンは戸惑い、でも両腕を脚で引き剥がした。谷田ちゃんは地面に倒れる、が、もう一度、もう一度アラケンの脚に飛びつき両腕をクロスさせたが掴んだのはなんにもない空間だ。
 悠馬は「ごめん」と言った。誰に対してなのかそれはもうわからなかった。
 谷田ちゃんが地面を這いずって、佐伯ちゃんはそこに駆け寄る。私はそれを横目で見ながらいつから鳴いていたのかわからないひぐらしの声を聞いていた。
 空の下に橋がある。

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