8.『7月30日』


 7月30日


 
後ろにいる。なにかいる。消えてくれない。
 考え過ぎだろうか。
 おんぼろ川を通り紫の斎場を抜けても、家族とか友達みたいな馴れ馴れしい音が追ってくる。
 振り向きたい。でも振り向けない。橋での出来事が頭から離れない。後ろを確認したい。いやでも既に、わたしは生活のなかで無意識に、振り向いてしまっているのかもしれない。あるいはもうあの日に。
 瀬下にあの日のことを明瞭に、いや、多分、曖昧になりながら話したがまともに取り合ってくれなかった。佐伯と話し合い、結局カトエマ本人に直接確認した方がいいのではないかと結論だったがこんな話、一体誰が信じるだろうと自身を疑いはじめたが優先輩が信じてくれたので、もう一度、三人で話し合い、やっぱり本人に伝えるべきだということになりカトエマに電話した。
 あいつの正体が本物のカトエマだった場合を考慮した。考慮してる時点で誰かに話せるような精神状態ではないような気がした。あいつに「やめろ」と言われているようなそんな気もした。でもあいつを生活に含めてしまった言動や思考はそれこそあいつの思うつぼのように感じたけどウダウダと、わたしはわたしの身の周りのことを話しはじめることにした。
 カトエマは柔らかい相槌を打つ。打ってほしくない箇所はやたら打たない。何分経ったのだろう。カトエマはしばらく押し黙って「大変やったね」と呟いた。涙が出そうになった。その一言であいつがカトエマじゃないって理解できたし、この話を1パーセントでも飲み込んでくれたことに感謝の気持ちが溢れ出た。でも、次の言葉で体が酷く強張った。
「私をそこに連れてってほしい」
 涙が出た。カトエマの声とあいつの声の間でわたしは二つの温度を感じ、今、暖をとって泣いているのか凍えそうで泣いているのかわからなくなり、真ん中の温度はこんなにも不気味なのだとやがてひび割れた地面は大口を開き、真っ暗闇の谷に落ちるイメージを浮かべ、震えて、そこからは一層慎重になり、なんとかそれはやめてほしいとカトエマに懇願したがカトエマにも思うところが絶対あるから、それは受けいれてくれそうになかった。カトエマの声にはなぜか、緊迫した決意のような、そういう自分自身以外砕けない意思の強さを感じた。だから今日、わたしはカトエマのそれを壊しに行く。行って粉々にしなければならない。今日のみんながカトエマに賛同してしまう前に。
 なにかいる。後ろのじゃない。あじさい公園のベンチになにかいる。なんで気づいてしまったのだろう。こちらに向かってひらひらと片手を動かしている。
 人の形をした黒っぽい塊が灯りに照らされそれは、こちらを意識したのか動きをやめ、一気に項垂れた。
 この塊をわたしはどこかで見たことがあるような気がした。今時間に生きていけないような、空間を歪ませるほどの猫背だったからとても覚えがある。
「やあ」
 男の声から布が焼け焦げた匂いがした。
「水かなにか、持ってきましょうか?」
「水? ああ、水ね」
 男は胸ポケットから出した煙草の先端に火をつけた。別に吸いたくも無さそうな表情で苦しそうに煙を吸うからわたしも少し苦しくなった。
「不良、ですか?」
「俺のこと知ってるの? どこかで会ったかな?」
「いや」
「制服」
 男がそう言うから制服を着ているように思えたが、着ているのは制服ではない。
 男はずっとわたしの首から下らへんを見てる。
「空っぽなんだ」
「空っぽ?」
「だろうね、でもね、俺にはそう見えるんだよ」
「なんの話ですか?」
「ヤバいんだよあいつは」
「あいつって誰ですか?」
「あいつがそう叫んだからあのデブリは特別になった。あいつにはそういう力があるんだよ。ただの石ころを宝石に変えてしまう力がね」
 男は尚もわたしの首から下を見ながら話し、伸び濡れた髪を耳にかけなおし、唇を舐め、こちらに向かって煙を吐いた。目がしばしばする。
「田舎に芸能人が来て一泊して恩をかえすって番組あっただろ? 覚えてる?」
「覚えてます」
「俺ね、あの番組が嫌いだった。芸能人が嫌いってわけじゃなくてね、旅人じゃなくて、嫌いなのは住人なんだよその村や町の。自分の生活を自分で蔑んでまるで都会に比べたらこんなとこのこんな生活クソみたいって。ごめんねぇ何もないのよ~って、虫が多くて嫌でしょ~って、こんな生活都会じゃ考えられないでしょう~って、そいつのこと何も知らないくせになんでもうすでにそいつに負けてなきゃならんのだ。あんたらがそんなだから馬鹿にされ続けるんだよ。言ってやればいんだよ、この町がただ好きだから、ただ居心地良いから住み続けてるって。そんなだからゴミ捨て場だとか簡単に揶揄されるんだよ。」
「どこか、遠くへ行きたいってことですか?」
 男はずっと同じ目のまま住宅地を見はじめた。
「『未来世紀ブラジル』観てたら安心するんだよ。あの映画に出てくるディストピアはこの町に存在するしあの映画にもこの町が存在するんだって。そう思わない?」
「観たことないです」
「こんな負けだらけの町を否定しながら肯定してくれてる。あいつも言ってたよ、そういうのが撮りたいって。あいつだけは今でも優しいよ。こんな町で今も戦ってるんだから」
 先端から灰が折れて、それは男の服に落っこちた。
 さっきと逆だなと思った。
「あいつはここにいちゃダメだ。俺みたいになる。だからさっさとこの町から出ないといけない。そうしないと不安になるんだ。だからあいつは俺が守る。あいつはここにいちゃいけない」
「なにやっとん」
 振り向いてしまった。
 彩花がいた。
 男は一度だけ彩花を確認すると顔を震わせた。彩花のことが怖いのかもしれない。
「取り込んどるなら後にするわ」
「待って」
 彩花は一層怪訝な表情をした。
「あいつが怖いんですか?」
 男の震えがひどい。
「どうして怖いんですか?」
「あんさあ、イチャイチャするならウチがうせてからにしてくれん? 目障りなんやけど」
「訛り」
「訛り? 訛りがどうかしたんですか?」
 男はヒヒッと短く笑った。
「その訛りが! キツイんだよ!」
「なんこいつきしょっ」
「そのしゃ、しゃべり方が鬱陶しくてヒ、ヒヒ、し、しくてヒ、しくしく、て、きもち悪いんだよ!」
「お前マジでさあ、こんなんと友達なん? 縁切った方がいいんやない? 息できてないやん」
 彩花はきっと捨て猫を見ても立ち止まらない人だなとなぜかそんなことを思ったが、それはわたしも同じような行動をとるだろうなとも思った、けど彩花はもう一度その猫がいる道に戻って「ごめんね」と言える人でわたしは多分戻るけどそれさえ言えない人だと感じた。
「そいつ、変態?」
「へ、変態じゃな」
 男が言い切る前に彩花はブランコの鉄柵を蹴り上げた。彩花は怠そうに「痛ってえ」と脚先を抑え男の方を睨んだ。
 わたしは自然と男と彩花の真ん中にいた。
「警察呼ぶわ」
「よ、呼んでみろよ、俺はべ、別に変なことしてないし、ヒヒ」
「あんな、おい、あんな? 変なことしそうはもうしてんの、わかる?」
 彩花は乱暴に地面を蹴る。わたしは男の方に寄る。
「驚きだよ。こ、こんな町にもヒ、ヒーローっているん、だな、『キックアス』かよ」
「谷田さんちょっとどいてくれん? 別に助けるとかやないけどこいつはぶちのめす」
「やめて」
「いややめんね、最近さ、ろくに口聞いちょらんのよ」
「え?」
「別にさ、お前のことどうだっていいしお前らのあのクソ話とかもどうでもいい。でもお前と悠馬が同じ空気吸っちょるのが気にくわんのよ」
 違う。彩花は勘違いをしている。そんなつもりはまったくない。
「一年のとき同じやったろ? 出会ってすぐお前が好きじゃなかった。教科書読む声も嫌やったし、バレーでミスしたらちょっと笑うとこも、牛乳ジャンケンちゃっかり参加するとこも道端の猫に給食のパンあげるとこも全部じゃ全部! でも、でもでもお前の一番嫌なとこは学校で”空気”みたいやのにそれを自覚しとらんとこっちゃ! 陽だまりで笑っとるときの顔で毎日過ごしやがってさ! コソコソ物陰に隠れて”らしく”しとればいいのに気持ち悪いんじゃお前らみたいなのが一番!」
 確かに教科書読むときはうまく声を使えないしバレーは得意じゃないし牛乳は好きだからジャンケンには参加する。ただ最後の猫の話は多分わたしの話じゃない。
「それでもまだよかったよ。お前とは無関係やったしクラスも別れた。でも、お前が、なぜかウチらのグループに来た。なあ、お前さ、マジであの日どういうつもりやったん? マジでありえんのやけど。きしょいんじゃずっと。ウチらがさ、お前のこと本気で認めとるとでも思っとるん?」
「思ってない」
「志乃が、カトエマが、アラケンが、北沢くんが悠馬が、お前を認めるわけないやん。みんながお前のこと本気で好いてるとでも思っとるん?」
「だから思ってないって」
「勝手にしゃべんなカス女。いいか、お前はな、海の底の、更に底に住む名前も色も無い雑魚やから、お前みたいなゴミは一生じっと岩場に隠れてゴミ同士ほくそ笑んどけばいんじゃ」
「彩花ちゃんお前ってやめて」
「やったらちゃん付けやめろや」
 彩花は唸り、誰かが焼き払った屑灰を蹴り潰した。蜘蛛の巣だらけの電灯がひとりでに明滅を繰り返し、この町を威嚇するようにチチチと不規則なリズムを立てた。
「おいクズ女。チャック開いてるよ」
 彩花はズボンを見ず舌打ちをして唾を吐き飛ばした。次には蹴りが来ると予想して構えたが頬が痛み、わたしはそのまま後ろに倒れた。勢いついた彩花の手が迫り、それを自分の手で防ぎ、彩花の指爪が指と指の間に沈み込む。
 彩花はきっとこの町すべてで、彩花もわたしのことをこの町すべてだと勘違いしているような気がして両目で構え、捉え、見定めなおした。
 公園を抜ければホタル川に着く。そのあと蛇腹坂を登って藪を通り越せばカトエマの家に着く。わたしも彩花も目的地は同じで、でもきっと、わたしか彩花、どちらかしか目的地にたどり着くことができない。
 わたしはわたしの中にある押し付けがましいプレゼントをカトエマに届けなくちゃならない。彩花も彩花で悠馬に送る慈愛のプレゼントを拵えている。
「譲らん。てか譲れん。お前なんかに譲ってたまるかよ。お前なんかにわたしと悠馬とみんなの世界を壊されてたまるか! なにもかもきしょいんじゃ糞野郎! 死ね! 今すぐ死ね野糞女!」
 今ここで彩花を殺すしかないのだろうか。
 でも腕っ節じゃどうにもなりそうにない。
 目を動かす。
 少し太い枝があるけどここからじゃ遠いしホッチキスのようにくねった彩花の片脚がわたしの両脚を押さえ込んで蹴りを入れることができない。ならば。
 ほとんど0の距離だけど在る距離から助走をつけて一気に顔を振り上げた。額が痛み、奇妙な音が耳元で鳴って、もう一度額に痛みが来てもう一発頭を振り上げたが、さっきの痛みよりも更に強い痛みがきたので頭を地面に置いた。頭のなかで高い音が鳴っている。うるさくもないが静かでもないその音は脳内全体を支配して、それに気をとられ目の前のことに集中できない。視界が眩む。
「おい! お前らなにやってんだ!」
 誰の声だろう。
「お前両野んとこの、そっちは谷田んとこか!」
「るっせーな! 喧嘩じゃねーから!」
「喧嘩じゃねーってお前腫れ上がっとるっちゃ、来い」
「やめろや!」
「いいから来い! おい右近寺うこんじ、谷田んとこ頼む」
「はい!」
 頭が痛い。体が浮く。
「やめろや触んなおっさん!」
 ベンチを見るといつからなのか、男の姿はもう無かった。地面にある吸い殻の煙が夜に燻る。

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