見出し画像

町歩きで知る感染症

新型コロナウイルスによる感染症の影響で、今年の夏に開催予定だった東京オリンピックは延期となってしまいました。さらには東京都知事みずから会見を行い、外出自粛を要望する事態にまでなっています。

町歩きと街道歩きのイベント開催を業務とする当舎においても、これらのイベントがこれまでもお客様の減少で経営が悪化し、さらには外出自粛要請によって当面はイベントの中止をやむなくされ、目下仕事もない、収入もない、という状況に陥っており、来月以降の事業存続はむむむ・・・、といったところです。

これほどの影響を及ぼすのですから、目に見えないくらいの小ささでありながら、ウイルスは私たちにとっては大変な脅威となる存在です。

これらウイルスや細菌がもたらす病気は、現在は「感染症」という呼び名が一般的ですが、かつては「疫病」と呼ばれることが多かったようです。

オリンピックが延期になり、多くのイベントが中止に追い込まれ、外出自粛で経済的困窮を余儀なくされている昨今だからこそ、これまでの東京の町歩きで仕入れた情報の中から、歩いてわかる感染症(疫病)について書いてみようと思います。

言わずと知れたことですが、日本は高音多湿の国ですので、さまざまな疫病が蔓延しやすい環境にありました。「疱瘡」と呼ばれた天然痘、「瘧」と呼ばれたマラリア、他にも水疱瘡や麻疹、インフルエンザなども流行したでしょうし、幕末には外国船が持ち込んだコレラも大流行をしました。


茅の輪くぐり

まずは不思議な伝承のお話から。
古事記・日本書紀には素戔嗚尊(スサノヲノミコト)という神様が出てきます。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と退治した神様として知られています。祀られている神社は八坂神社、氷川神社、須賀神社などがあるのですが、実はこの神様、疫病除けの御利益のある神様なのです。

古事記にも日本書紀にも出てこない素戔嗚尊の伝承があります。素戔嗚尊が旅に出て、ある日着いた村で一番のお金持ちの巨旦将来の家に行き、一夜の宿を頼んだのだそうです。

ところがお金持ちの巨旦将来はケチで、この頼みはけんもほろろに断られてしまいました。。

そこで素戔嗚尊は、巨旦将来の弟で貧しかった蘇民将来の家へ行き、同じように一夜の宿を頼んだところ、蘇民将来は快く泊めてくれたのだといいます。

そして翌日の朝、素戔嗚尊は出立するときに蘇民将来に茅でできた輪を渡し、こう言いました。

「この村にはやがて疫病が流行る。しかしこの茅の輪を身につけていれば、疫病の災厄から免れることができるであろう」

はたして村には疫病が流行りました。しかし茅の輪を身につけていた蘇民将来とその家族は疫病にかかりませんでした。一方で素戔嗚尊に冷たかった巨旦将来とその家族は、疫病によって全員死んでしまいました。

画像6

夏と冬に神社に行くと、こういった草で作られた大きな輪を見かけます。最近はプラスチックでできているものも多いのですが、本来は茅で作られていましたので「茅の輪」といいます。これをくぐってからお参りすると無病息災に過ごせるというのですが、それはこの伝承から来ているのです。

それにしてもこの伝承の不思議なところは、素戔嗚尊が出てくるのに、巨旦将来・蘇民将来の兄弟は、日本人らしくない名前であることです。将来が苗字?なぜ名前の下に付く???

※この伝承に関しては、旅に出たのは素戔嗚尊ではなく牛頭天皇という話もあります。また、茅の輪くぐりの起源については、茅の葉は先がとがっており剣の形と似ているので、この葉を破邪の剣に模して、その輪をくぐると災いを払うからという説もあります。茅の輪に関しては私の知らない別の話もあるかもしれません。


平将門の祟り

大手町に平将門の首塚と呼ばれている場所があります。

画像5

東京で一番のオカルトスポットと紹介されることもありますが、東京都の文化財に指定されており、歴史・文化を伝える上で重要な場所という位置づけがなされています。

平将門は平安時代中期に実在したと考えられる人物です。一族間の争いが朝廷に対する反乱にまで発展し、将門は関東8か国にあった国府を占拠し、朝廷に派遣されてきていた国司たちを追い返してしまいました。

しかし下野(現在の栃木県)の豪族藤原秀郷と戦って戦死し、首を京都に送られてしまったといわれます。ところがその首が故郷(茨城県の坂東市付近)を懐かしみ、京都から空を飛んで帰ろうとしたところ途中で力尽きてしまい、首が落下したところが現在の大手町だというのです。

こんな話はどう聞いてもウソ・・・、いやいや歴史を語る上でなかなか興味深い話ですが、その首は墜落した場所に埋葬され、それが将門首塚だというのです。

※現在「将門首塚」と呼ばれている場所が、本当にこの伝承に出てくる「首塚」に当たるのかについては疑問があるのですが、ここでは割愛します。

こうして築かれた将門の首塚なのですが、将門が死んで数百年も経つと、首塚は人々から忘れ去られ荒れ放題になってしまったそうです。

すると恨みを飲んで死んだ将門の怨霊によって、祟りが起こりました。付近の村々に疫病が流行ったのです。

そこへやってきたのが時宗第2世遊行上人の他阿真教上人です。時宗というのは、小中学校の歴史の教科書に一遍上人の踊り念仏が出てくる、あの時宗ですね。

他阿真教上人によって将門の首塚をきれいに整備し直され、塚の脇には将門を祀る祠も建ち、塚同様に荒れていた日輪寺という寺も建て直されました。

この祠が現在の神田神社(神田明神)。いわずとしれた「江戸の守り神」です。いまもお正月には都内の企業の人たちが満員電車なみの行列をなして初詣でに訪れます。

画像3

ちなみに日輪寺は徳川家康による江戸の町づくりの中で、浅草に移転しています。

画像4

この「江戸の守り神」ですが、日本特有の怨霊信仰からきた考え方です。日本では古来より、恨みを飲んで死んだ人物は怨霊となって祟りをなすと思われていました。そこで怨霊を神として祀り、つまりはおだて上げておとなしくしてもらい、祟りをなすほどの強い力を自分たちの願いを叶えるために使ってもらおうという「怨霊信仰」が生まれたと考えられています。

ここでいう「祟り」とは、気象現象などの天災もあったのでしょうが、多くは疫病だったと思われます。多湿で当時は衛生環境が悪く栄養も少なかった日本では、疫病が流行ることを止めるすべもなかったのでしょう。そこで疫病は祟りと考え、すがる神として怨霊を信仰することになったと考えられます。

こうして「祟りをなす怨霊」だった平将門は、人々から神として祀られることによって、疫病除けをはじめとして人々の願いを叶える「江戸の守り神」へと変化を遂げてきたのでしょう。疫病の多かった日本ならではの信仰といえるのではないでしょうか。


一口神社

もはや絶対的な難読地名ですが、「一口」と書いて「いもあらい」と読みます。東京のあちこちにある地名なのですが、最近では難読過ぎて「千代田区の一口坂」のように「ひとくち」とストレートな読み方をさせるところも多いです。

画像7

たとえば駿河台の坂の下にある太田姫稲荷神社。ここは太田道灌が自分の娘の疱瘡治癒を願って京都の一口神社に家臣を派遣して代参し、その結果娘の疱瘡が治ったので、そのお礼に建てた神社だといわれています。

画像8

そのため、太田姫稲荷神社の別名を一口(いもあらい)神社、昭和初期に現在地に移転するまで神社があった坂道を一口坂(いもあらいざか)と呼んでいます。


歌川広重

「東海道五拾参次」「江戸名所百景」で知られる浮世絵師の歌川広重は、本名は安藤重右衛門、江戸幕府の御家人で定火消し同心でした。しかし絵師になりたい気持ちが強く、若くして隠居すると浮世絵師歌川豊広に入門し、歌川広重と号しました。

広重は売れっ子の絵師となり、日本橋の南にある大鋸町に住みました。かつてはこの場所に説明板が設置されていたのですが、ビルの建て直しによっていったん説明板は撤去され、説明板の写真が工事現場の塀に張り付けられていました。最近この場所に行ったことがないのですが、どうなっているのでしょう?

画像1

画像2

さて広重は、安政5年(1858)10月に死んでいます。この年は6月に日米修好通商条約が締結されています。あまり知られていませんが、広重は幕末近くに活躍した浮世絵師なのです。

この年、日本はアメリカを含む5か国と修好通商条約を結んでいます。これによって日本の鎖国政策をは終わりを告げ、日本にも欧米諸国から近代文明が入ってきて、日本も近代国家としての仲間入りを果たさんとする中で戊辰戦争勃発など動乱の寺大を迎えることとなるのです。

ところでこの5か国の中にイギリスがありました。イギリスとは同年7月に修好通商条約を結んでいます。ところがこれがとんでもない厄災を日本にもたらしました。コレラの流行です。

当時イギリスはインドを植民地として領有していました。このインドの奥地にあった風土病がコレラでした。

本来だったらインドの一地域の風土病として終わっていたはずのコレラが、イギリスからやってきた船員たちがインドの奥地にまで赴き、そこでコレラに罹患し、その後の航海で世界中に立ち寄ったことからコレラの世界的大流行が始まったのです。

こうしてコレラは安政5年に日本にもやってきました。このコレラに広重も感染し、彼は人生を終えることになったと言われています。


近代水道

さて、歌川広重の命を奪ったとされるコレラですが、安政5年だけではなく明治になっても数度の大流行をしています。

江戸は上水道が発達した町でした。徳川家康は丘陵が海に落ち込む地形だった江戸において、その海を埋め立てることで新しい町づくりを行いました。しかしこのために井戸を掘っても良い水がでず、そのために江戸の町には上水道が発達することとなったのです。

当時の上水道は木製の水道管(「木樋」といいます)を地下に埋めて、その中に川から引かれた水がそのまま通っていたのですが、さらにその上の地面に溝を設けて下水を流していました。しかしこれが、疫病が江戸で蔓延する一因にもなったのです。

新橋発掘上水道

画像10

上水道に浄水施設がなかったことに加えて、下水の溝から地面にしみ入った汚水が、その下にある上水の木樋にしみこんだことで、上水道を通じて疫病が流行ることにつなかったようなのです。

そこで明治政府も対策に乗り出しました。それが浄水施設を備えた近代水道の設置です。これまで川の水を直接引き込んでいた神田上水、玉川上水から、近代上水への切り替えが行われたのです。その結果、日本最初の上水道ともいわれる神田上水は、生活用水としての使命を終えて、昭和8年に廃止されるまで工業用水として利用されることとなりました。玉川上水は現在でも上水として利用されていますが、江戸時代の流路から離れ東村山浄水場を経由して東京都内への水の供給をおこなう形に変更されています。

御茶ノ水駅の近くにある東京都水道歴史館に隣接する本郷給水所公苑は、その名のとおり近代上水設置の折に建設された本郷給水所の上にあります。公苑内には付近から発掘された神田上水の石組みの溝が保存されています。

画像11

また、江戸川橋駅近くの文京総合福祉センターの敷地内には、ガラス張りの床の下に神田上水の石垣を見られる場所があります。

神田上水石垣出土場所

こうして町を歩くだけでも、この国が過去に疫病と隣り合わせにつきあい、そして戦い、克服してきた長い歴史があることがわかります。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、外出も自粛がもとめられ、収入が激減した人も大勢いる現在ですが、こんなときだからこそ、疫病について学び、ことが沈静化したら町に出て歩いて欲しいと思う次第です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?