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人との距離感で失敗したお話

 「人間関係は難しいものである。」これは、どこかの偉い人が言ったのか、ずっと昔から思ってたことなのかは、忘れてしまったけれど。最近はそう感じることが多くなってきたように思える。なんでだろうねぇ。たぶん昔に比べて、いろんな人と関わることが増えたからじゃないかな。布団に入るとそんな考えが頭をぐるぐる回ってってなかなか寝られないのが、最近の悩みかも。頼んでもいないのに、頭が勝手にしゃべり出してしまうんだよね。僕の頭は、すごくおしゃべりなようで。それも寝ようとしたときに限ってしゃべり出す。まったく、迷惑なやつだよ笑。まあたぶん、僕だけじゃなくてみんな一度は経験したことあるような、あるあるなんだろうとは思うけど。

 そんな前置きはこの辺にして。今回は、人間関係において大きく後悔いていることを勝手に語っちゃおうと思って、放置していたnoteを久々に開いたわけで。じゃあ、本題に入ろうか。大後悔を大公開!(これが言いたかっただけ)

 僕は子供の頃に「誰に対しても平等に接すること」という方針があった。今も根底は変わっていないのかも。子供の頃っていつからだろう、中学生?小学生?。振り返ってみると、小学生の頃からだった気がするのだけど、正確には思い出せそうにないや。とにかく、かなり前からってことはたしか。平等に接することを目指していた小学生の頃の僕は、人に嫌われるのが怖かったのかな。社交辞令の塊と言っても過言ではないこの考え方は、敵を作りづらいと思う。人に対しての好き嫌いは特になく、誰かに自分から話しかけたり、遊びに誘ったりはしなかった気がする。つまり仲良い人はいなくて、文字通り「誰に対しても平等」だった。自分と他人の間に壁を作って、自分の考えはできるだけ外にださずに、一定距離以上相手を近づけさせない。そんな立ち振る舞いをしていたのかもしれないね。人との距離が遠いから、意見の食い違いだとかいざこざだとかが起こるはずがなかった。最初から、意見や思いを相手にぶつけていないのだから。今思うと小学生の頃の自分は、子供ながらに器用にやっていたと関心してしまう。自分で自分に感心するのは、どうかと思うけど。かなりストレスフルな生き方をしていたように思えるけれども、当時の自分は平気だった。むしろ、それなりに楽しかった気がする。でも、親と一緒の買い物でクラスメイトと出くわしそうになったら、気まずさから見つからないように隠れてたっけ。学校での自分とプライベートでの自分はまるっきり別人で、どちらに合わせれば良いのか戸惑ってしまう。まとめると、話しかけたら割と親切に返してくれるけど自分の事は語らずに、性格をつかむことができない。そんな小学生だった。と、思う。たぶん。

 いつから人に対しての好き嫌いが生まれたのか、それは思い出せそうにない。明言できるのは、今は人に対して好き嫌いがあるってことだけ。この好き嫌いが人間関係の難しいところだと思う。昔の僕は考える必要がなかった、人との距離感を考えなくちゃいけない。世の中の人の大半は好き嫌いがある。食べ物だったり、色だったり。それは「人」に対しても同じことが言える。まあ、当たり前のことだね。当たり前体操だね。むかしむかしあるところにA氏がいて、B氏と仲良くなりたいと思っていました。しかしB氏はA氏のことが苦手でした。そんなケースはとっても悲しい。でも、世の中にはそんなケースがあちこちに転がっている。むしろ、このケースの方が多いように思える。本当に世知辛い世の中だ。

 僕は今までに、心の底から仲良くなりたいと思った人が何人かいる。具体的な人数は分かるのだけど、ここで言ったらいろんな友人関係に変な影響が出るかもだから、伏せておこう。そのうちの二人に対して、同じ失敗をしているんだよね。以前の僕は、一定以上仲良くなった後は「自分の気持ちを包み隠さず伝えること」で、より仲良くなれると勘違いをしていたように思える。とんだ勘違い野郎だ。仲良くなったと錯覚するのは僕だけで、対象の人からしたら何も変わらないのにね。むしろ迷惑かもしれない。二人には、別に悪口を言ったわけではないのだけれど、実はあのときこう思ってたとか、こんな気持ちであの行動に至っただとか、胸の内に秘めておくべき事まで、伝えてしまった気がしてる。今考えればすぐに分かることなのだけど、あのときは相手の気持ちを考える事をどこかにおいてきて、ただひたすらに突き進んでいたように思える。まったく子供だ。大人になったかと思っていたけれど、まだまだ足りないみたい。主に失敗経験が。小学生の頃に人を避けていた影響がでたのかもしれない。僕は人との距離感をみつめることを放棄して、「仲良くなりたい」という気持ちの暴走トラックで突っ込んでしまった。トラックを仲良くなりたい号とでも呼んでみよう。もちろんその二人は、米津玄師になった。きちんと着地して、何事もなかったかのように走り出していることを願う。

 「B氏は、A氏と仲良くなりたいとは限らない」だ。
B氏は社交辞令がとても上手で、A氏に苦手意識を悟られないようにしているとしよう。その前提で、A氏がB氏に「仲良くなりたい号」で突っ込んだらどうだろう。A氏とB氏の関係は終わりを迎えるんじゃないかな。B氏はきっと生き方が上手だから、終わっている事も気づかせないうちにそっと離れるのかもしれない。A氏はB氏に自分の事が苦手か問いかけたとしても、帰ってくるのは否定のみ。もう一度言おう、B氏は生きるのが上手だ。B氏の心の内を確かめるすべを、A氏は持っていない。

 人間関係は、吊り橋みたいなのかなって思う。
人と人の間にかかっている吊り橋は、実は穴だらけ。仲良くなるには、その危険な橋をお互いに渡らなくちゃいけない。穴の大きさもいろいろで、大きい穴は見つけやすいけど小さい穴は、注意しないと見つけられない。生まれながらに目が悪かったら、見つけられない可能性だってある。さらに厄介なのが、社交辞令という幻術を使ってくる人もいる。距離感を見誤ったり、幻術で穴が見えなかったりすると、たった一歩で奈落へ真っ逆さまに落ちてしまう。一度落ちると這い上がってくるのは簡単じゃなくて、険しい崖をよじ登らなくちゃならない。それには相応の根気と技術が必要になる。もし、よじ登れたとしても橋が落ちていたら、修復は不可能に等しい。もしかしたら、やってのける人もいるかもしれないけれど、僕にはその技術がない。

 人との距離感を保つのは大切だ。ただひたすらに距離をつめるべく、突っ込むだけでは破滅を生むだけである。時には自分の気持ちを隠蔽することだって大切で、俗に言う嘘も方便というやつだ。人と仲良くなるというのは、適切な距離感を保った上ではじめて成り立つということを、忘れないで生活していきたいね。


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