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3大欲求を開放する
自分がこの世界を創造しているという仮説は、どうやら本当らしい。
もちろん何でも瞬時に思い通りになるわけではないが、一定のプロセスや時間を経て、やがて当然のように目の前にその「現実」が現れるということは、もはや日常茶飯事だ。
何が変わったのだろう?
思い返すと、昔は、今より感情の揺れ幅が大きかった。
ネガティブな感情が心に刺さると、なかなかトゲが抜けず、辛い時間を過ごした。
プロレスやサッカーやボクシングを見て、強く感情移入し、激しく喜んだり、激しくがっかりしたり、そういうことも多かった。
今は「悩み」が無くなったというか、手放したというか。
迷う前に決めているというか。
落ち込むことはほぼない。
サッカー日本代表の試合に没頭してゴールを喜ぶぐらいはするが、長くその余韻に浸るようなことはない。
淡々とした平和な時間をじんわり味わうような時間が増えた。
穏やかな幸せが長く続く感覚を大事にしている感じだ。
人に期待することがないので、怒ることもない。
自分のすることは全て許しているので、人も許せる。
だから、人を責めることもない。
数ヶ月前のこと。
実験的に、食欲、性欲、睡眠欲の「煩悩3大欲求」を開放することにした。
以前は開放したらえらいことになるんじゃないかと思ってできなかった。
発想さえなかった。
でも今は、開放しても大丈夫だと分かっている。
いや、開放してみなければ分からないことが分かっている。
人生でやりたいことは全部やると決めている。
ならば、3大欲求の開放ぐらいさっさとやってしまおう。
そう思って、ここ数ヶ月、色々な初体験をしている。
ワクワク計画して、ささっと実行している。
毎回新鮮で、すごく幸せを感じるけれど、
結局それは、落ち着くところに落ち着く。
食欲も性欲も睡眠欲も、ほどほどが一番いいと気付く。
「無駄」をしたいと思わない。
そして「ほどほど」は、
それまでの日常とさほど変わらないと気付く。
孔子は論語で
「十有五にして学を志す」
「三十にして立つ」
「四十にして惑わず」
「五十にして天命を知る」
「六十にして耳順う」と続き、
「七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず」
と言っている。
「ほどほどが一番いいと気付く」というのは
「己の欲する所に従えども矩を踰えず」という感覚だ。
確かに若い時は、欲に溺れやすい。
易きに流れやすい。
経験を積むのが面倒なので、手っ取り早くやろうとしてしまう。
歳を取ると、それほど欲に振り回されなくなる。
いや、「歳を取ると」、ではなく、「経験を積むと」だ。
七〇歳にならなくても、心の声を聴き、余計な我慢をしないでいられれば、3大欲求を開放しても、つまり、心の欲するままに行動しても、
道徳の規準をはずれるようなことがない、
つまりそれまでの日常とさほど変わらない
と分かる。
経験量がある基準を超えると、経験を積むこと自体がとても愛おしくなる。
そうなると、手間を惜しむことがなくなるので、
結果的に側から見ると、すごく勤勉な人になる。
本人は全く勤勉な感覚はなく、
ただやりたいことをやっているだけなのに、
そんな感じになる。
勝手に評価される。
嬉しいが、気にしない。
やりたくないことをしている人は、それが当たり前だと思っているので
勤勉な人を見ると、「頑張ってる」ように見えるのだろうが、
そうではない。
3大欲求を開放して
実行してみることを是非オススメする。
何事もやってみないと本当のことは分からない。
「本当のこと」とは、
やってみた時に、自分がどう感じるのか、ということだ。
ただし、溺れてはいけない。
溺れると、自分がどう感じているのかを正確に掴めなくなる。
僕の実験は今も続いている。
毎日、あたらしい。
PERFECT DAYS であることが
答え合わせになっている。
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