哀愁しんでれら

映画「哀愁しんでれら」を見た。
途中何度もいらいらが沸点に達し、鑑賞を中断しようかと思った。
映画館で見ていたらきっと、私は腕に爪を立てていただろう。
幸い家に一人だったので、自らを傷つけることなく見終えることができた。
ネット上ではこの胸糞の悪さから見なきゃよかったというレビューも散見されたが、私は「見なきゃよかった」と思うことこそが「見てよかった」と感じる要因だと思う。気分が悪くなりたい方はぜひ。

※以下ネタバレを含む


真面目な話、親が享受してきた家庭環境を子供に与えてしまうケースは多い。今回で言えば幼い頃母に「あなたの母親はやめました」と告げられた小春はひどく憎しみを抱いていたが、苦悩の末ヒカリを振り払ってしまう。本人が自分の環境に傷つき、反面教師としていたとて、いつの間にかくり返してしまう。義母の「母親に愛されたことがないのに母親になれるのか」という発言は非常に失礼ではあるが、残酷なことに全くの否定もできないのである。子供も親の言動をよく見ているのだろう。ヒカリは大声をあげて妻をコントロールする大悟の姿に呼応して自らも声を荒らげて主張するようになり、「指切りげんまん」を破ってヒカリの秘密を大悟に話す小春を見て小春の行動を大悟に告げ口したのだ。人は意識的・無意識的を問わず原体験に基づいた言動しかなせない。自分の経験していないことは実行どころか想像もできないのである。もちろん大悟の言うような「母親の努力」が原因だとは思わない。ヒカリの奇行は親のせいではない。最終的に共依存関係に陥るこの家族は、お互いがお互いの言動に影響され、どんどん視野が狭くなっていったのだろう。

「哀愁しんでれら」とは何か。あらゆる不幸を経験し絶望した後に大悟と出会い、結婚した小春を周りは「シンデレラストーリー」といった。しかし幸せは長く続かず、小春はまるで別人のように変わってしまった。まさに「哀愁」。可哀想でならない。しかし小春にしてみれば「哀愁」などではなく「幸せ」な生活だろう。中盤で友人が話した裏技は「夢とか憧れを全部捨てること」であった。「夢や憧れを捨てること」と「思考を停止すること」はニアリーイコールだ。小春は踏切で大悟に助けられたあの時を境に、明らかに考えることをやめた。「なぜヒカリは嘘をつくのか」「なぜ大悟は何も言わないのか」、「良い母親になる」という夢の前で自分を苦しめていた問題から目を逸らしてヒカリは良い子であると思い込むことを選択した。狭い世界で、誰も否定せず誰にも否定されずに過ごすこと。それは紛れもなく「幸せ」である。大悟も同じだ。ヒカリに泣き叫ばれた後、大悟は自分の宝物あちを燃やしてまでヒカリを選んだ。他に何もいらない、ヒカリだけでいいという思考は考えることをやめ、狭い世界に閉じこもったことを表している。こうして一家は誰より幸せになった。その幸せは自分たちが正しくて愛に溢れているという思い込みによって成立している。ラストの事件は他の考えを拒絶する究極系だろう。自分たちの幸せを邪魔する者は消せば良い。そうして自分たちしかいなくなれば、この幸せはずっと続く。他人の子供を気にかけたいた小春が平気で子供たちを殺めること、他者を見下していた大悟が小春の提案を世紀の大発見さながらに称えたこと。傍から見たらあまりに異常で滑稽だが、彼らはそこまで囚われていたのだ。ラストシーンの後、2人はきっと捕まる。一方でヒカリは捕まるどころか保護されるだろう。そして加害者家族としての立場を利用し、自己実現に向かうのだろうと考えると、非常に凄惨で後味の悪いストーリーであった。

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