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ポンペイ(ナポリ考古学博物館とポンペイの遺跡)

ナポリの考古学博物館を訪れる。というのも、ポンペイゆかりの貯蔵品がたくさんあるというからです。とにかく、広い・・・目当てのものがどこにどのようにあるのか(ポンペイの壁画系を見つけたかった)わからなくて、自分一人ならぐるぐるも良いのですが、母がいたのでちゃんとガイドさんお願いした方が良かった。でも、ナポリだと団体のガイドさんしか見つからなかったので、私が見たいものはストライクの作品ではないので、団体ツアーだと見たいものが見ることができないし、そんなに広くないだろうとお願いしなかった。

それはトラップだった・・・。予想以上に広かった・・・ぐるぐる広すぎてかなり迷ってしまった(ネットの情報をもとに探してみた。
家族でルーブルに行ってヘロヘロになったことを思い出した。

  • ファルネーゼのヘラクレス(Ercole Farnese 大理石彫刻 第12室)

  • ファルネーゼの雄牛(Toro Farnese 大理石彫刻 第16室)

  • 踊る牧神像(Fauno ブロンズ小像)

  • カプアのヴィーナス(Afrodite di Capua)

  • アルテミス(Artemide Efesia 多産と養育の女神像)

  • ファルネーゼの皿(Tazza Farnese 神々を浮き彫りにしたメノウ細工の皿)

ということで、地下はミイラとかそれ系の埋葬系だったのでスルーすることにした。ポンペイ系が2階だと思ったので2階と思って探していたら、そこは中2階だった・・・探す中で、一番最初の絵を見つけて「おおお!教科書」って思ったのです。

ちょっと感動でも、私が探していたポンペイのものがなくて・・・ぐるぐるしていたらもう1階上だった・・・。母はヘロヘロ。ま76歳では超元気な方だと思うけど・・ごめんね〜〜(実は以前オルセーで見た絵が見つからずぐるぐるして喧嘩になったことがある、そのためガイドさんをお願いするようにしていた)

やっと見つけた。ポンペイの壁画系。以下の写真は日本の上野の東京国立博物館でやった「ポンペイ展」のもの。実は、一応パンの焦げたものがあるから行ってみるか・・・ということで訪れたのですが、当時そんなに興味がなかったというか・・・ところが、その後パンの歴史とかを少し紐解いていくとポンペイはかなり重要ということがわかってきて
「くそ!」もっと見て写真とか撮っておけばよかったぁぁぁと思ったのです。後の祭り。でも炭化したパンはへぇぇと思った記憶だけがある。もっと重要なことは、その当時、どのようなパン作りが行われていたかということだったのです。干し葡萄も出てきているし、石臼も。そしてパンも高さがちゃんとある。ちゃんと発酵したパンが作られていて美味しかったのではないかと思われる。

ポンペイ展はかなりパンに興味がある人にとって「秀逸」な内容だったのだと今更気がつく。実際に現地(イタリア)を訪れると、ナポリのここ(考古学博物館)とポンペイの遺跡の2箇所を見ないといけない。

考古学博物館は、パン以外の要素がほとんどで、ガイドさんもお願いしなかったので意味不明・・・。「イタリア語」ということでグーグル先生に訳してもらうのですが、目当てのものにたどり着くのにぐるぐるぐるぐる超疲れる・・・そして見つからないままタイムオーバーとなる。かろうじて見つけたが、日本で見たものと同じだよ・・・

お!これまたみるんかい〜と少し嬉しくなる。というか、日本のグッズ(炭化パンのクッション)をメルカリでゲットして、本当は持ってこようと思ったのですが、荷物になるので断念でも、持ってくればよかった!!そして現地のガイドさんにプレゼントしたら結構ネタで使えるよって感じだった。荷物になるので持ってこなかったけど。今更ながら、クッション買っちゃう!?って迷っているのだけど無駄なものは買わない主義なので止まっている😅

ポンペイのまちの模型 これを頭に入れて後日ポンペイの遺跡を見てくるか!!これも、ポンペイ展で日本で見た。パン屋夫婦という説もあるが、男の人は違う職業だったとも言われている。とにかく、博物館は人がすごく少なくてラッキーだった。

パン屋さんのフレスコ画

当時のパンは。この模様はクープなのか、それともそのような型に入れて焼いていたのか。型はないか・・・土器とかになるもんね・・・。数作るには型はないはずだよね・・・などなど。ほら、パン発見!!いちじくの炭化したものもポンペイで発掘されているのですが、これにもいちじくが書かれている。でもパンに対していちじくがでかい!!

疲れすぎて、この博物館でミイラになる寸前になったことはいうまでもない・・。ということで、舞台はこれらが発掘されたポンペイの遺跡に移したいと思います。(旅程的には、この後アマルフィーに行ってからポンペイに移動なのですが)ポンペイの遺跡ですが、かなり暴風だったのです・・・もう目を開けるのも痛いって感じ・・雨が降ったら死ぬな・・という状況だったのですが、雨は奇跡的に降らなかった。昨日までは雨が降っていて、明日も雨らしいとガイドさんが嘆いていた。

ポンペイの遺跡は、広いので、高齢の母を連れて遺跡の中のパン屋さんの跡を見つからないままぐるぐる探すのは厳しいので、日本語のガイドさんがつくツアーに参加しました。半日ぐらいで効率よく見たい場所を連れて行ってくれて、そのガイドさんがイタリア人なのに関西弁ですごく秀逸なガイドさんでした。だから炭化クッションあげたかった😀その代り、少し自分が行きたいところへは、いけなかった・・・。でも自力はちょっときつかったので良かった。とにかく広い・・・3枚目の地図の1/3ぐらいを回るだけでじっくり見て回ると半日ぐらいかかる。

全部見ようとするとするととても時間がかかる。とりあえずパンフレットをPDFにしたので、見にくいかと思いますが😅

古代ポンペイには6400人から3万人とかなり幅があるのですが1万人ぐらいという説が有力。この遺跡の中だけで、パン屋さんは36件発見されていえると言われている。まだまだ発掘中なのでどんどん増えるだろう。詳しいポンペイのガイドはウィキペティアをコピペしながら、写真を追加したり、ちょっと私が気になるところだけ解説していきたいと思います。(以下はウィキペデイアの内容をコピーして、削除・加筆しています。コピペのところは『  』で括ります。)

奥に見えるのがヴェスビオ火山。昔は富士山ぐらいの大きさだったのですが、噴火によって2山になって標高も1200mぐらいになった。ナポリからもヴェスビオ山はとても美しく見えて、地元の人も誇りに思っている。

紀元前89年ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマ(ローマ帝国)の植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名は「Colonia Cornelia Veneria Pompeianorum」(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。ポンペイは商業が盛んな港湾都市であった。整備された大きな港があり、海洋都市でもあった(ポンペイ周辺で火山活動の地殻変動が続いたことで、現在の遺跡の海抜は上昇し、水辺から遠ざかった状態になっている)。またぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業ワイン醸造だったことが窺える。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。』

そして、これは馬車の轍の後。水が流れていくように、歩行者が渡る飛び石のような箇所が随時ある。右上の方に色の変わった部分があるのですが、それは一段高くなっていて歩行者が歩いていた場所です。今の道と構造が同じでへぇぇという感じでした。

ちょっと記念なので、母と写真を撮る。歩道があって母の右奥に飛び石があるのがわかる。
飛び石が3つだと対面通行・
飛び石が1個だと一方通行の道

これが有名な円形劇場
小劇場や大劇場とか数箇所存在する。

劇場だった場所
控室みたいなものもあったりする。

これはいわゆる商店街的な通り。左右に店が並んでいる。1階はお店になっていて、階段があったと思われる構造になっていて、2階は居住の場所となっている。本当に現代の街並みのようです。

『ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の時代のローマは古代ローマをそのまま伝えていると誤解していたが、ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。居酒屋のメニューも残っており、「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意してあります。」と記されている。』

これは居酒屋さん 
このように酒の壺が埋まっている。

カウンターがあってそこからついで飲むのだろう。ぶどうが栽培されているのでワインみたいな飲み物だったのでしょうか。
その通りには別荘らしき建物もある。

作りが立派とか、色々専門家だとわかるらしいが、私にとっては同じに見えてしまう。


『噴火時に発生した火砕流の速度は100km/h以上で、市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘された際には遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどう市民の最期の瞬間を再現した。顔までは再現できなかったが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現された。この石膏像の制作によって遺骨が損傷したため、ポンペイ市民の法医学的な調査は長らく滞っていたが、オプロンティス荘英語版)近くの商館と思われる建物の地下室から老若男女身分がバラバラ(居場所は身分別にある程度グループを作って固まっていた)な54体の遺骨が発見された。彼らは火砕流からは難を逃れたが、火山性ガスによる窒息で死亡して火山灰に埋もれていた。』

これは10代の女の奴隷と言われている。お腹の辺りが膨らんでいるので「妊婦」というせつもあったけど、それは洋服の膨らみだったのだとわかった。奴隷と分かったのは、腰のベルトの跡だそうです。鬼押し出し(浅間山噴火)も相当大変だったけど、ポンペイもすごかったのだろうと思われる。
『町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器コインクリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えている。保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を町中に送っていた。』

街の至る所に、このような水汲み場がある。そして、それがどこだかわかるように彫刻がそれぞれ違う。

水道管とかがちゃんと設備されている。ただ鉛の管だったので、鉛中毒とかも起きていたらしい。
トイレが社交の場となっていたらしく二人掛けのトイレが存在し、トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、壁には「見事だ」と奴隷による落書きが残された遺構がある。発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容に違いはなく、全員が健康的な食生活を送っていたものとされる。』

でも、明らかに「金持ち」って家はわかる。このように入り口のモザイクの模様も素晴らしい(地面)し、屋根は真ん中が凹んだ状態になっていて、そこの下には水を貯める池のようなものがある。(水をためていた)上の写真だとくさが生えているあたり。

この家も絶対にレッツ豪邸なはず(あったね・・そんな番組)

また、これは「運動場」文武両道と言わんばかりに、勉強もして、運動も行う場所がちゃんとあったみたいです。お風呂場の近くにもスポーツする場所があった。というか、フレスコ画もすごい。

運動場

そして風呂場

風呂場は、ローマのカラカラ浴場は屋外だけど、ここは半分室内になっている。

そして半円の上から水がポタポタ垂れるようになっていて水を循環させていたなども解説してくれた。そして、冷水・温水・蒸気(サウナのようなもの)、冷水があるのは男風呂だけのような話もしていた。

脱衣所の壁には装飾が

脱衣所は腰掛ける場所があって棚もあった。

したで薪を炊いて温めていた


壁画があるのですが、壁画の赤は高価だったと言われている。

ポンペイはその赤色をふんだんに使っているので、裕福だったと言われている。


図書館もある

『街の守護神は、美と恋愛の女神ウェヌスであった。 娼婦の館も発掘され男女の交わりを描いた壁画が多く出土したので、現代ではポンペイは「快楽の都市」と呼ばれることもある。古代ローマ時代は性的におおらかな時代であり、ポンペイに限らず古代ローマの商業都市には商人向け(旅商人向け)の娼婦館のような施設は多かったという。』

この窓から女性が顔を出して客引きをする

娼婦の売り文句が書いてあるみたい。
(いわゆる看板)

「春画」だとガイドさん。というか、春画ってよく知ってますねという感じ。春画というと浮世絵のエロ本とでも言いましょうか。今じゃエロ本なんて死語で、息子の部屋でエロ本を見つけたら母親として見なかったふりをしてあげようなんて気遣いは無用になったのだが・・・。

これは、男性の客をとる男性。
ちょっと驚いた。

どの時代も、この手の商売はあるのかと。
平和ボケ不自由なく生きて来た私は、到底考えは及ばないが、生きていく事、家族を養う事。色々考えてしまいました。

ポンペイ自体は、男根崇拝としても知られている。まちの至る所にそのレリーフがあったと言われている。これはギャラリーフェイク読みすぎなのですが(面白い漫画)
それをガイドさんに質問したので、どんだけエロババアなんだと思われたかもしれないのですが、今は、そのような崇拝的なレリーフは残っていないらしい。
でも、

このように、娼婦の館がどちらにあるかと言う道標的な男根を見受けることができる。


(道路にも掘ってあったりした。男根の指す方角に売春宿があるといこと。)是非訪れた場合は、隠れミッキーのように探してみてください。


ってなわけで、外堀を埋めてきたのですが、

私がみたかったのは「パン屋さん」!!

ほら!これこれ!!街の中に今の所、36件発見されていると言うパン屋さん。これは石臼もたくさんあってかなり大きなパン屋さんといえる。かまもドームになっている
他のパン屋さん
これは結構大きな目抜通りに面している

かまと奥に石臼が見える。

もう少しアップで!!構造がどうなっているかは流石にわからなかったのですが、寝袋持参でここで1泊できる!って思った。

別のパン屋さん。もう少し規模が小さい

これ、これは窯が2連になっていて石臼はなかった。そんなこんなでとりあえず3件パン屋さんを見ることができた。先日夢で、ポンペイのパン屋さん(奴隷)になって働いている夢を見た。そして親方に怒られて「すみません」と言っているときに目が覚めた。おそらく、前世はポンペイでパンを焼いていたに違いない!!って思った。

それを娘に話したら
「ふっ」って鼻で笑われた。
でも、この遺跡はかなり広大で、ちょっとワクワクした。とにかくヴェスビオ火山が雄大に見えて、テルマエロマエを見て行ったもんだから、一人でニマニマしていた。

少しパンの歴史について勉強すると(授業受けた時の殴り書きメモなのですみません眉唾でざっくりと捉えてください)

5500年前:スイス・トゥヴァン湖付近ベルン無発酵パン円盤状の250g17センチ褐色の小麦・発酵種・窯使用)※一節ではスイス→エジプトに伝わったという説が近年浮上してきている。

5000〜4000年前:エジプトで無発酵パンが偶然焼かれる
無発酵パンと発酵パン共存810種類以上) エジプト人=パンを焼く人、食べる人と呼ばれる。
ビール種、老麺の使用(酵母、乳酸菌の利用)・発酵種を使用・多種類のパンを焼成・大量消費 偶然パンができ、それを水につけたらビールができた→それを発酵種としてまたパンを作る→循環

紀元前500=400年:ギリシア時代 エジプトからパン焼き技術が伝わり発展  

(2500年前)   主食「マザイ」というヒラ焼きパン(大麦を熱した煉瓦の上で焼くもの) 

・石臼の開発、オーブンの原型に近い「パン焼き窯」が発明
・ワイン作り(絞ったカス)とパン作りの技術が合わさって技術が向上
・発酵種・老麺の培養と利用(発酵コントロール)         
・バラエティーブレッドの出現(バター・チーズ・牛乳・オリーブオイル・レーズンなど)
・海洋文化(航海中の保存食・ビスケット・サヴァラン)
・ギリシアのパン屋(厳しい訓練・職業として存在)品質管理の徹底(大きさ、味、形態)

→世界最古の職業は「ポンペイのパン職人」という説もあったが、ポンペイより早くギリシアに職業として存在、ポンペイのパン屋のオーナーもギリシア人だったという説もある。
ギリシアのパンの2つの特徴
・ブドウの収穫後、葡萄酒とキビを混合し発酵液を作る(1年間保存可能)
・パン種は小麦粉生地と白ブドウ酒を金剛してパン生地を3日間寝かせて作る。乾燥させドライイーストとして保存
パン作りはこの種を少量のスペルと小麦に溶き、さらに多くの小麦に混ぜて捏ねてあげる(大量生産)
大麦に水を加えて生地を作り、好きな時に使えるようにする。

「デェニアスのパンに寄せる賛辞」紀元前303年

「本日の食卓のパン、また市場にて売買されるパンさえ雪のごとき白木その味わい美味の極みなり。この製パン技術は過去100年間にシチリアにおいてテアリオンにより完成されるもの。今や(BC360)我々はあらゆる種類の粉を滋養ある食物に加工する術を知るなり。粉に牛乳、油、塩を加うれば西条の味良きパンなり。」

紀元前509〜AD476年:ローマ時代・・ローマ軍の遠征とパン食文化の普及
・ギルドの結成=共同製パン所の設立・職業訓練所の設立
BC312 :312:ローマに254軒のパン屋(BC30年329軒 ギリシア人
ざっくり紀元前前のパン作りはこんな感じなのだろうかと。

その後、キリスト教が強くなると、どうしても窯がある場所が修道院とかになってくる。なので、お菓子にしても教会修道院がらみで発展することが多くなっていき、市民の人が自由にパン作りという感じではなくなったのか・・・

それを考えると、ギリシアやポンペイとかローマ時代のパン作りというものは自由で発展していたのかなぁと勝手に想像している。ローマでも少しパンに関する遺跡があるので見にいきたいと思っています。

(ちょっとパンの遺跡つながりということで、ローマで書いた内容を少しコピペしておきます。ローマのコロッセオの奥というか西というか・・・そこに移動します)
マッジョーレ門とその手前にあるエウリュサケスの墓に向かう。
西暦52年、ローマ皇帝クラウディウスの命令により建設。建設当時は「プラエネスティーナ門」と呼ばれていた。
正面から見て、目当てのものがなくて・・・
ラビカノ広場側に回って見たらあった!!!!
これが見たかったのですよ。

この横の穴はエウリュサケスの墓。
お墓マニアというわけではないのですが、なぜかというと、これは紀元前30年ごろに建てられたもので、
マルクス・ウェルギリウス・エウリュサケスという人のお墓のようです。
元々は奴隷だった人で、解放された後にパン屋さんとして大成したようです。

近づいてみると彫刻がしてあって、ちょっと見にくいのですが、

パン作りをしている様子が描かれていて、
真ん中あたりにロバが石臼を回している様子を見ることもできる。
ポンペイでも石臼はあったので絶対にみたいと思いました。

この丸いものは、パンをこねたり計量した容器だとも言われている。
ということで、イタリアはやはり歴史が古い。遺跡もたくさんある。
本当は、もう少し点在している遺跡群があって、集合住宅があってその中にもパン屋さんがあるみたいなのですが、流石に訪れることは出来なさそう。興味がある方はぜひ訪れてみてください。


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